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LORD of VERMILION IV小説 LORD of VERMILION IV‐ O Brave New World ‐

write : 浅尾祥正

第7章

孤島に至るは、放浪の夢

 ギチチチチ……と、無人のショッピングモールに、何かが軋むような音が響く。その音は、吹き抜けのイベントスペース中央に立つ、身の丈二メートル以上はある影から発せられている。当然、人ではない。まっ赤な甲殻に覆われ、複眼を巡らせるそれは人の形をした巨大な虫のようであり、それが苛立たし気にのこぎりのような顎を鳴らしているのだ。

「エルズバーン! 右!」

 原吹晶の声に反応し、蟲人〝エルズバーン〟は素早く体を反転させ、甲殻の剣を横凪ぎに振るった。

 パキャン、と軽い手応えがあった。

 床に落ちたのは――人形か。

 そのぱっかり頭の割れた土人形は、まるで生きているかのようにひくひくとひとりでに動いている。エルズバーンはそれを粉々に踏み砕くと、顔を上げ周囲を見渡した。

 同時にそのすぐ近く、特売の袋菓子が積み上げられた陳列島の陰に隠れている晶は、目を閉じて集中する。

 エルズバーンの複眼を通し、吹き抜けの上階、その柱の陰々に幾人かの人影が見える。影たちは皆、法衣を纏い、手に鈴や独鈷杵を携えていた。それを見た晶は警戒を強め、改めて崩れかけていた血晶を纏い直した。

(……やっぱり。またあの人たちだ)

 晶はその者たちを知っていた。彼らは、彼女が一時身を寄せていた、日本の霊的守護を使命とする呪術集団『鎮護国禍』の衛士たちで、そしてさきほどの土人形は、真鶴椿も使っていた『護法童子』という、衛士の操る使鬼であった。

 一週間と少し前、神名千尋に助けられて四谷から逃げ出して以降、「英血の器」を敵と見なした鎮護国禍は晶たちを追い続け、ゆく先々で彼女たちの命を狙ってきた。そのたびにアルカナの力で切り抜け――お陰で、晶もここまで力を使いこなせるようになったのだが――なんとかこの押上付近まで逃げ延びてきたものの、その追撃は激しさを増す一方だった。そして今もまた、生活用品を調達しようとここを訪れた際に、その待ち伏せに遭ったのである。

 再び、エルズバーンが警戒の牙鳴りを軋ませた。

 見ると、新たに放たれた五体ほどの護法童子に、エルズバーンが囲まれている。

「ああもう! しつっこいなぁ!」

 晶はアルカナの力を送り、それを受け取ったエルズバーンは甲殻の剣を輝かせて、一気に護法童子たちを打ち砕こうとそれを振り回した――が、なんと、その剛剣は、刀身を揺らし何かに弾き返されてしまう。それどころか、エルズバーンは弾かれた腕を振り上げたまま、身を震わせて動けないでいる。

(なんなの⁉ もしかして……あの光ってるやつ?)

 晶は、護法童子たちの手元で五色に光る陣のようなものを見た。どうやらそれがエルズバーン動きを封じているように見える。

(あっちは、大丈夫かな……)

 何か気になるのか、晶はちらりと、少し離れた輸入食品店の方を見た。そして、パンッと自身の頬を叩き気合いを入れると、

(オンユアマーク……セット……)

「ゴーー‼」

 スプリントよろしく陳列島の陰から飛び出し、護法童子の一体に血晶の短剣で斬りかかった。

 そのとき、護法童子に狙いをつける視界の上端に、何か光が見えた。

 見上げると――いつの間にか上空に、直径十メートル程はあろうかという大きな八卦陣が敷かれていた。そしてその下側がズズッと下がり、大きな〝四角〟が二つ覗いた。四角は見る間に下方に伸びていき、やがて巨大な人の形となって、ズシンとフロアを揺らして降り立った。

(でっか……!)

 晶は慌ててスライディング気味に倒れ込んで止まり、それを見上げる。たくさんの箱を組み上げたように角ばった全身に、不釣り合いな程に大きな腕を持つそれは、巨大な真鍮製の絡繰り人形のようであった。その頭がくるりと百八十度後ろを向き、仏像のような、様々な外国人の顔を足して割ったような、そんな奇妙ににやついた顔を晶に向けた。

 晶は、その顔に見覚えがあった――こんなときに思い出すのもなんなのだが、授業中、文字だらけで読む気のしない近代史の教科書をぼーっと眺めていたとき見かけたあの写真――あまりにも印象的で、思わず覚えてしまった、あの顔だ。

(えと……〝學天則がくてんそく〟だったっけ?)

 そう思考を泳がせた瞬間、巨人の胴がぎゅるんと回転し、それに合わせて巨大な腕が晶へと叩きつけられた。

(やばっ……‼)

 思わず晶は目をつむる。

 しかし、衝撃は来なかった。

 恐る恐る目を開くと、巨腕が目の前で止まっている。腕は、巨大な斧に食い止められており、その柄は、なんと晶自身の胸元から〝生えて〟いた。

《僕の晶に何するのさ》

 思念が響き、斧の刃が巨人の屈強な下腕の表面を滑って細い上腕に達すると、そこを音もなく両断した。

《晶、これは君だけの体じゃないんだ。大事にしてくれよ》

 言いつつ、にゅうっと晶の胸から女の上半身がせり出してくる。美しい顔立ちをしているが、そのりりしい目元は口調通り男性のようだ。それでいて、悪魔に違いない一本角を挟んで登頂についた、ぴこぴことよく動く小さな馬耳が愛らしい。

「ありがと、〝アニムス〟」

「ふふ、晶はいつもかわいいね。けれど今は君を愛でてもいられなそうだ。ほら、あっちはいいのかい?」

 アニムスが指さす方向を見ると、さらなる護法童子が輸入食品店に向かって飛んでいく。

(気付かれた……!)

「ごめん! 〝千尋さん〟そっち行った!」

 晶が叫んだ。

 先程の晶はそれを気にしていたのか、店の中から神名千尋が飛び出してきた。しかしその身に血晶は纏っておらず、手には鉄パイプを握るのみ――。

「いやあっ!」

 気合一閃、千尋は護法童子を打ち据えようとパイプを振り下ろした。しかしその一撃は、狙い良くもあえなく童子の呪壁に阻まれてしまい、そのまま懐に潜り込まれて腹に発勁を打ち込まれてしまう。

「ぐうっ!」

 その場で崩れ落ちる千尋。護法童子はその側頭部に小さな手を当てると、さらに勁を打ち込もうと気を巡らせた。するとその手が、くんっと上に曲がり、同時に竪琴ハープの音が流れた。

 よく見ると、護法童子の手に細い蔦が絡まっている。蔦は竪琴の音色に合わせてぐんぐん伸び、太さを増し、その全身を這って関節を絡め捕ると、そのままパキャンと締め砕いた。

「千尋! 今の状態じゃ無理よ!」

 輸入食品店の棚裏に隠れていた森園英子が、竪琴を手に千尋に駆け寄る。

「……ごめん、やっぱり足手まといだ。置いてってよ」

「何言ってんのよ。らしくもない」

 英子は千尋の体を支えて立たせると、再び物陰へと下がっていく。

 晶は、二人がなんとか難を逃れたのを見てほっと息をついた。そうなのだ。千尋は今、「アルカナ」を揮えなくなっていた。

 理由は、はっきりとはわからないらしい。しかし英子の話によると、アルカナの力は〝想いの力〟でもあるから、それを信じられなくなったり、強く拒絶したりするとそういうことも起き得るだろう、とのことだった。そうだとすれば、それはおそらく、彼が上恵大学で忍者のような使い魔から《器》を受け取ったあのとき――それが〝道明寺虎鉄〟のものだと聞いたあの瞬間からなのではないだろうか、そう思っていた。

 だが原因が何であれ、今は自分がこの場をなんとかするしかないのは確かだ。エルズバーンは依然封じられたままであり、片腕を失ったものの、巨人も未だ健在なのだ。

「晶、あの絡繰り巨人だけど、さっきので警戒して結界を張ったみたいだ。君の今のアルカナじゃ、次はあんな風には斬れないかもね。できれば〝虫の彼女〟の助力が欲しいな」

 アニムスの忠告を聞き、奥で未だ動けないでいるエルズバーンをちらりと見た晶は、

「あーもう! ごはんぐらい静かに食べさせてよ! ついてきて、アニムス!」

 と再び血晶の短剣を握り直して駆けだした。

 巨人もまた、奇妙な笑みを顔に張りつけたまま、残った巨碗をぐるぐると横に回転させて晶を追ってくる。

 晶とアニムスは、他の護法童子を警戒して壁に沿って移動しつつ、なんとか巨人の脇をすり抜けてエルズバーンの元までたどり着こうと走るが、ぎこちない動きのわりに巨人の足は速く、なかなかやり過ごすことができない。そうこうしている間に、逆に二人は壁際に追い詰められてしまい――。

 そのとき、突然、頭の上で轟音がしたかと思うと、目の前に大きな瓦礫が降ってきた。

 瓦礫は、まさに晶たちに巨碗を叩き込もうとする巨人の上に落ち、下敷きにしてしまう。そして、そのまま瓦礫の重さで仰向けに圧し潰されてしまった巨人は、悲し気な火花を散らして動かなくなってしまった。

「……へ?」

 晶が上を見上げると、イベントスペースの壁に大きな穴が空いており、そこから、全裸の少女が半身を覗かせていた。

 しかし、何かがおかしい――当然、急に壁が吹き飛ぶのも、その穴から裸の少女が現れて、何かを期待する眼差しでショッピングモール内を覗き込む光景も普通ではない。だがそれよりも、大きな穴の中央から覗く、その少女の体の〝高さ〟がおかしいのだ。

 そして、その違和感の正体はすぐに明らかになった。

 少女の体が、ズズゥと何かを引きずるような音を立てて穴から前に出ると、その下半身が、なんと巨大な蜘蛛に繋がっていたのである。

(うわ……)

 絶句する晶を余所に、少女は周囲をきょろきょろ見回して、

「いたぁ♪」

 と嬉しそうに笑うと、蜘蛛の体から大量の糸を吐き出した。

 糸は四方八方に分かれ飛び、上階へと吸い込まれたかと思うと、方々から「むぎゅ」「うぐぅ」「ぐぬっ」といった息の詰まる悲鳴を生み出す。そしてそのまま物陰に潜んでいた七人の衛士たちを引っ張りだした。

 ぼとりぼとりと上階から落ちてくる衛士たち――その体は、無惨にも、白い糸で息も出来ぬほどに厚く簀巻きにされ、床の上で芋虫のように苦しみ蠢いていた。

 蜘蛛の少女は歓喜しながらそれらに近づくと、一体一体丁寧に覗き込み、やがて、

「お兄ちゃんじゃない……お兄ちゃん、どこ……」

 と、ひどく悲しげにうなだれた。

 その様子を見ていた晶が、

「味方……なのかな?」

 緊張を滲ませてアニムスに訊ねる。

「どうだろうね。あの加虐的な感じは僕と気が合いそうだけど――」

 アニムスは何やら楽しそうにそう答えたが、蜘蛛の少女は晶たちに気付いて顔を向けると、

「――雌ども……あんたたちがお兄ちゃんを隠したのねぇ」

 と、恨めしそうに睨みつけた。

「どうやら、あっちに友人になる気はなさそうだ」

 アニムスが斧を構え、奥で自由を取り戻したエルズバーンもまた、再び戦闘態勢を整える。

 その時――。

「おい、メリー、何度言ったらわかるんだ。オレの近くで汚らしい音を出すんじゃあない」

 さらに穴の奥から男の声が聞こえた。

 晶はその声を聞き、姿を見て、心臓を鷲掴みされたかのように体が動かなくなった。

(うそ……!)

 血晶の闇装束――その下地となる紫のスプリングコートに黒いハット――血晶でできた髑髏のマスクと、それに繋がる首の長いストールが不吉な黒いマントのようで――晶には、そこに生きた死神が立っているように見えた。

 死神――そう、晶はその男を知っていた。初めて知った時の名は『Azu;Laアズーラ』。のちに十文字駿河から聞いた本名は〝カーク・鏑木〟――彼こそ、舞浜で第二の共鳴現象を引き起こした当事者であり、晶を『英血の器』として目覚めさせた男であった。

 晶はカークから目線を動かせなくなり、男もまた、晶の視線に気づいて目を細め、見開いた。

「ほお! あの時の少女じゃないかぁ!」

(いやだ……)

 その意識が向けられたことで、瞳が揺れ、脚が震え、身に纏う血晶が――砕けた。

「おい‼ 晶――――」

 それに伴い、アニムスとエルズバーンも血晶と化し、宙に溶けていく。

「原吹さん!」

 晶は、ドンッと体に衝撃を受けて我に返ると、尻餅をつき、すぐ頭上を蜘蛛の糸が高速で通り過ぎるのを目にする。視線を下ろすと、床に、身を挺して晶を突き飛ばした千尋が倒れ込んでいた。

 狙いが外れた蜘蛛の少女――〝メリー・ウィドウ〟は、

「なによ、邪魔しないでよ!」

 と、長い多脚をわしゃわしゃと動かして激しく地団太を踏むが、

「メリー、行儀の悪いことをするな!」

「ひっ! ごめんなさい、お兄ちゃん……」

 と、カークの一喝に体を震わせて怯む。

 カークは壁穴の縁に立ったまま、倒れる千尋と晶を見下ろすと、

「んん? なんだぁお前は? 確かに男と女……しかし、あの二人・・・・ではない――間違いなく〝アルカナの気配〟を辿って来たのだがなぁ」

 と呟きつつ、さらに千尋を凝視した。

「ふむ、なるほど。そこの男もアルカナの力を宿している、か……ならばお前らにも訊いてやろう――」

 そしてゆっくり、大きく、深く息を吸い込んでから、

「〝イージア〟はどこだ?」

 そう言った。

「……何のこと?」

 千尋が身を起こしながら訊ねる。

「わからないか? そうか…………わからないか‼」

「……だめ……」

 悪寒が背を走り、晶は足が震えて立ち上がれない。

「なら、オレの曲で思い出させてやる――〝アマデェェェェウス〟‼」

 すると、カークの傍に大きな血晶体が浮かび上がり、〝生きたピアノ〟を作り出す。その天板の上には、左眼に風変りな眼帯をつけた少女が座っていた。

「ちょっと、その薄汚れた声を張り上げて呼ばないでくれるかしら? 耳が汚れて仕方がないわ」

「お前こそ、良く回る協奏は口ではなく曲だけにしておけ――とにかく、ピアノを貸せ」

 カークは、アマデウスの返事を待たず宙に浮いたピアノの椅子に座り込む。

 アマデウスはため息を吐くと、千尋たちの方を向き、

「ごめんなさいね。この人、どうかしちゃってるから。悪いけど、死神に魅入られてしまったと思って諦めてちょうだいな」

 そう微笑みかけてふわりと浮かび上がった。

 カークの指が鍵盤に置かれ、

「ひっ……」

 晶の脳裏に、舞浜の恐怖が思い起こされた――あのとき、「要石」の共鳴と共に、カークのピアノを間近で聞かされた。血が沸騰したような感覚に襲われ、全身の細胞がかき回されたような激痛に見舞われた。あの熱さが、痛みが、フラッシュバックする――。

「おい、お前、なんて顔をしている……〝あのとき〟は最高だっただろう? オレの音楽は異世界へのいざないだ。魂が符合する者が聞けば、その向こう側にある〝異界の記憶〟を呼び覚ます――さぁ、お前らの記憶を見せてみろ」

 カークの腕が振り上げられ――それが鍵盤に落ちるより早く、空気が震えた。

 そこにいる全員の体を、魂までをもビリビリと震わせるこれは、獣の咆哮か――。

 カークは鍵盤を思い切り両手で叩きつけ、不協和音でそれを上書いた。

「おい……おいおいおい‼ オレはなぁ、演奏を邪魔されるのが何より腹が立つんだ‼」

「まぁ、わかるわね」

 宙に浮かぶアマデウスが仕方なさそうにうなずいて、遠くを見た。

 千尋もまた、同じ方向に振り向くと、

「――今度は何さ」

 狼、だろうか――そこには、ショッピングモールの大通路を塞ぐ程に巨大な白銀の獣が、唸りを上げてこちらを睨みつけていた。

 カークは床に降り立つと、血晶のナイフを数本作り出しつつ、

「獣狩りか――アマデウス、ここは軽快かつ大胆にいくぞ」

「はいはい。それじゃソナタの十四番でいい?」 

「ふん、迷わず自分の曲か。たかが〝天才程度〟で図に乗る……まぁいいだろう。お前の言葉はいちいち耳障りだが、その曲は悪くはない――さぁ、どこの獣か知らんが、今から貴様の魂に後悔のメロディを刻んでやるぞ」

 そう言って狼へと向かっていく。

 その隙に、英子が獣を気にかけつつも二人に駆け寄り、震える晶を抱きかかえた。千尋も反対側の肩を支えて立ち上がる。

「とにかく、今の内に逃げた方が良さそうだね」

「そうね……でも、もうどっちが安全なんだか……」

 そう英子が周囲を見回した、そのとき、

「神名さん、こっち!」

 聞き覚えのある声がして、声の方を見た。すると、 獣の現れた方とは逆側の細い通路に手を振る者がいた。

「……花島さん?」

 そこにいたのは、以前より随分とぼろぼろなウィンプルを被った、花島笙子であった。


    * * * *


 ショッピングモールから脱出した神名千尋は、怪物たちの多い幹線道路沿いを避けて、北十間川に沿って逃げていた。下町の建物の間を縫って流れる狭い川であるが、平成の後半に開業した『ステラツリー』建設に伴う再開発で、側道や船着き場、親水テラスなどが整備されており、意外に歩きやすい。共に歩く者は三人。千尋の後ろを歩くのは、舞浜の事件で出会い、そのあと四谷で鎮護国禍から助け出した原吹晶と、使い魔のセルディッド――彼女は、千尋がアルカナの力を行使できなくなってからずっと〝森園英子〟の姿のままでいる――の二人。そしてもう一人が、鼻歌交じりで千尋たちの前を歩く花島笙子だった。

 思えば、不思議な女性だった。彼女に初めて会ったのは、セルディッドに導かれてマルディウス教会に行ったときだった。そのときから、笙子はドゥクスたちと一緒にいた。そもそも彼女はあの教会のシスターであり、そこにドゥクスたちが〝転がり込んできた〟という話だったが、あの人間ではない・・・・・・四人と何食わぬ顔で一緒にいられるというのは、なかなか肝の太い人であると思う。ともすれば、何か裏があって受け入れていたのか――。

 少なくとも、〝千尋以外の「器」は守らなくても構わない〟とのたまうドゥクスと親しげにしていたのだから、全面的に信用していい人物ではない、千尋はそう考えていた。しかし、この怪物だらけの東京で鎮護国禍にまで狙われることとなり、さらにアルカナの力を使えない今の状態では、一旦でも、ここは彼女を頼り付いていくしかないというのが現状だった。

 笙子はステラツリーを過ぎたあたりで階段を上り、川の側道から車道に出る。すると道幅が広くなったからか、歩くペースを落として後ろに下がってきた。

「大丈夫? 晶ちゃん。少し落ち着いた?」

「……あ、はい。ありがとうございます。笙子さん、それ持ちます」

 そう言って、晶はショッピングモールで入手した食料品の袋を笙子から受け取る。本人の言うとり、顔色はだいぶ良くなってきていた。

「千尋さん、英子さんも、すみません。わたし肝心なところで……」

「何言ってるのよ。むしろ今まであなたのお陰でここまで逃げてこられたんだから。感謝こそすれよ。ね、千尋」

「……うん、そうだね」

 確かにそうだった。上恵大学から逃走したあと、千尋は改めて晶から事の顛末を聞いた。

 真鶴椿が血晶と化し、もう一人、十文字駿河という鎮護国禍の幹部が巨人と相打ちになって倒れたという。そしておそらく、その巨人こそが道明寺虎鉄だったに違いない、と。

 それを聞いた瞬間、受け入れるしかない――ただ、そう思った。それと同時に、なぜかあの、〝暗い山小屋に揺れる足〟を思い出した。胸に、ちくりと痛みが走り、それは日増しに大きくなっていった。きっと、頭で思うより心がダメージを受けていたのだと思う。そうしている内に、徐々にアルカナの力を揮えなくなっていき、気付くと、今や小さな擦り傷すらも治らなくなった。そして今、千尋はこうして他人に守られている――。

 あのとき、自分は元々一人だと、だから一人で行くと虎鉄を突き放しておいて、勝手な話だと思う。あのとき共に行けば、こうはならなかったのかもしれない。しかし、それでも――〝ただ生き抜く〟と心に決めておきながら、そうやっていつまでも思い悩んでいる自分自身の気持ちがよくわからなかった。

「それで笙子、これどこに向かってるの?」

 英子が訊ねた。

「ふふ、今の〝隠れ家〟」

「隠れ家?」

「そ、もうすぐよ」

 そのまま少し行くと道路が開けて、

「はい、着いた」

「着いたって……」

 そこは駅前のロータリーだった。ステラツリーのひざ元でもあり、すぐ横に大型商業施設のビルが建っていることからも、平時であればかなり人も行き交う場所なのだろうが、ただそれだけで、他には特にそれらしい建物は見当たらない。なので英子と晶が、

「ここ⁉」

 と、そのビルを見上げると、笙子は、

「こっちこっち」

 と、一同のすぐ脇にある、閉じた地下鉄の入り口を指さした。

「ああ、なるほど」と妙に納得したような顔をする二人を余所に、笙子が入り口を塞ぐシャッターに手を掛ける。しかし、思いのほか重かったのか、なかなか上がらない。確かに、通常であれば電動で上げるものであり、手動ではきついだろう。

「手伝うよ」

 千尋がシャッターを掴み、

「わたしも」

 と、英子に荷物を預けて晶が続く。

「ふん! なかなか……重いっすね」

「ん……疲れてるとこごめんねぇ。わたし貧乏性だから、こういうので〝使い魔〟呼んじゃうのも何かなぁって思って」

 笙子が力を込めながら申し訳なさそうに笑う。三人分の力で、少し上がったか。

「いえいえです……〝使い魔〟って言えば、さっきのでっかい狼って、笙子さんのなんですか?」

 晶の問いに、なぜか英子が反応し、

「ああ、あれは――」

 そのとき、急に手が軽くなり、シャッターがガラガラと音を立て一気に半分まで上がった。何事かと横を見ると、いつの間にか三人の間にもう一人、銀髪を短く刈り込んだ男が片手でシャッターを持ち上げていた。

「――あれはオレだ」

 男はそう言って、横目でちらりとしゃがんだままの千尋を見た。

「あ、はいさん。ありがと」

 笙子がそう呼んだ男を、千尋もまた知っていた。吠は、マルディウス教会にドゥクスといた、〝人間ではない者〟の一人だった。

 笙子が驚いている晶を余所に訊ねる。

「大丈夫だった?」

「とりあえずは巻いてきた――あのカークという男、『器』にしてはやる。まぁ、噛み砕こうと思えばいつでもできるがな」

 吠は笙子にそう答えつつも、横から強い視線を感じ、

「――面倒だ。警戒するな」

 と千尋に横目を向けて言った。千尋は立ち上がると、

彼女・・は?」

「〝ドゥクス〟――のことか? 妹なら今、単独で動いている」

「他の『器』は助けないんじゃなかったの?」

「ふん――あいつならそう言うだろうな。だが、オレはオレだ。いいから早く来い」

 吠はそう言うと、地下へと伸びる階段を下りていった。

 そう言われても、ドゥクスの仲間というのであれば、やはりにわかには信じ難いものがあり、千尋がその後ろ姿を見つめたままでいると、

「大丈夫だよ。さっきだって、吠さんが〝あなたたちの匂いがする〟って教えてくれて駆けつけたんだから」

 笙子がそう言って階段を下りていく。晶もまた、恐る恐るそれに続いた。

 さらに英子が横に立ち、

「彼のことは私も昔から知っててね――まぁ、かなり気難しいけど、悪いやつじゃないから。さ、行きましょ」

 そう促した。

 そして千尋は、階下の闇を一度目を細めて睨んでから、ゆっくり階段を下りていった。

 

 階段を下りて、まばらに蛍光灯がついた薄暗い通路を何度か折れ曲がると、長い通路にでた。そこをしばらくまっすぐ歩き、その途中で吠が足を止めた。

 見ると、そのすぐ横の壁に、今時珍しいアルミ製の扉が嵌っていた。扉には『駅長室』とあり、吠はそのドアノブを掴んで中に入っていく。

「そこなの? 勝手に使っていいのかな……」

 晶が不安げな顔をするが、

「いいから、入って入って」

 と、笙子が何やら楽しそうに促す。

 英子は迷わず中に入っていき、千尋と晶も仕方なく扉を潜ると――、

「――うそ、なにこれ……」

 二人は目を見張った。

 そこは、精緻な彫刻で彩られた、荘厳な聖堂の中だった。

 そして千尋は、その風景をよく見知っていた。

「驚いた? すごいよねぇ、蛇さんがここに移して・・・くれたの」

 笙子が嬉しそうに話す。

「実は前のあれも、本当のマルディウス教会の聖堂じゃなかったんだ。ここは『この世の果ての神殿』って名前らしくて、なんか別の次元? みたいな所にあるんだって。ここなら共鳴の影響も届かないし……まぁ、わたしもよくは分かってないんだけどね」

 確かにそこは、虎鉄らと共に一時身を隠した聖堂だった。最奥にある階段状の祭壇に、その後ろに飾られた巨大なステンドグラス、その左側にはいつものように蛇が立っている。変わっているところといえば、吠の言う通りドゥクスとにびがいないことと、祭壇の下で、

「あ! お兄さん、笙子お姉さんも、お帰りなさーい!」

「ただいま~、ラグく~ん」

そう嬉しそうに立ち上がって手を振る、女の子のような顔立ちの少年がいること、そして――、

「……よぉ、久しぶりだなぁ、千尋君。そちらのお嬢さんは初めましてだな」

「柿原さん……」

 長椅子に横たえていた身を起こしたのは、柿原一心であった。しかし、その顔はひどくやつれ、土気色をしている。

 一心は立ち上がろうと腰を浮かせたが、「おっと」とよろけてしまい、そのまま再び長椅子に座り込んでしまった。

「いやはや、情けないとこ見られちゃったなぁ」

「それ、どうしたの……?」

 千尋が眉をひそめ、英子が一心に近づいて腕を取り、手のひらに触れて目をつむる。

「――〝毒〟ね。それも相当強力な」

 一心は恥ずかしそうに触れられた手を引くと、

「カーク・鏑木だよ。あいつの連れている蜘蛛女にやられた。君らも会ったんじゃないか?」

 そう言った。晶はその名前に過剰に反応しつつ、ショッピングモールでやりあった敵を思い出して身を震わせる。

「なるほどね……『英血の器』の不死性に対し、強力な毒というのは有効な手段だわ。よく考えられてる」

 英子が思案げに顎に手をやって、千尋にうなずきかける。その意図を汲み取った千尋は、一心に訊ねた。

「もしかして、あいつに狙われてるの?」

「そうだな……狙われてるといやぁ狙われてるが、本命は俺たちじゃない」

「本命……?」

「ああ」

 一心はその体勢がきつくなってきたのか、「よっ」と体の向きを変えて祭壇側の長椅子にもたれる。

「やつは、どうやら黒髪さんを探しているみたいだ――覚えてるだろ? 黒髪マリエって美人刑事」

「うん……でもそれがどうして?」

「君らが舞浜で行方不明になったあと、俺たちは黒髪さんと一緒に行動してたんだがね――」

 無意識か、一心は肩に羽織った上着のポケットから煙草を取り出して、指に挟んだあとに屋内だと気づき、仕方なくそれを弄ぶ。

「彼女も、行方をくらましちまった」

 千尋が眉をひそませ、英子がきゅっと自身の手を握る。その後ろで、笙子が伏し目がちに床を見ていた。

「数少ない俺らの事情を知ってくれてる仲間だからさ、見捨てるわけにもいかんだろ? だから俺たちは彼女の足取りを追って、この人たちに〝神殿〟を移してもらいながらここまで来たってわけだ――そこで、やつに見つかった。黒髪さんのことを探してる俺らを見て、彼女の情報を聞き出そうってんだろうなぁ、実際しつこいぜぇ……やつがここらをうろうろしてる限り、捜索どころか食料調達もままならん」

 一心が辟易とした表情を浮かべる。

 確かに、先程もカークは誰かを探しているようだった。しかし彼が口にした名は『イージア』だったと思う――。

(いや……でも……)

 その時は気づかなかったが、千尋は共鳴した記憶のどこかに、そのような名を聞いた気がした。

「『鎮護国禍』が今どうなってるか、情報は耳に入ってるし、君らの状況もなんとなく察しはついてるよ。お互いいろいろ大変だが、それでも腹は減るし、このじり貧状態もなんとかせんといかんわけだ。なんにせよ、こういう時に〝『器』同士は引き合う〟ってのは助かるな。人手は多いに越したことないし……まぁ、敵も呼び寄せちまうんじゃ、便利とまでは言えんがね」

 一心はそう言って「ほいっ」と勢いをつけて立ち上がると、よろよろと出口に向かって歩き出した。笙子は黙って道を空け、一心がそれに肩をすくめて頭を下げる。そして千尋のそばを過ぎざまに、

「そんなこんなで、またよろしく頼むよ」

 と、肩を叩いた。

 その力なく弱々しい手に、思わず千尋は振り返り声をかけようとしたが、

「どこへ行く?」

 ドアの横で壁にもたれかかっていた吠の声に遮られ、口を閉じてしまう。

 しかしそこで、祭壇に立つ蛇が

「兄者、『器』どもに少し構い過ぎ・・・・ではないか?」

 とたしなめたことで、吠もまた黙してしまった。

 そんな吠に、一心は笑いかけると、

「ご心配ありがとさん。ちょっと煙草吸ってくるだけだよ」

 と、指に挟んだ煙草をちらちらと揺らした。

 すると、祭壇下でつまらなそうに胡坐をかいていた少年が、

「じゃあさ、僕一緒にいこうか?」

 とさらに声を掛けたが、

「ラグナロクくんはいい子だねぇ。でもこわ~い副流煙吸っちゃいけないから、一人で行ってくるよ」

 と、肩越しに小さく手を振って、扉から出て行った。


「ふぇ~、夜風が染みるねぇ」

 一心は、川沿いにあるやけに細長い公園のベンチに座り、夜空を見上げながら長い息を吐いた。一人軽口を言っている割に、そのこめかみからは汗が滴り落ちている。気温は高いわけでもない。それどころか、そよりと吹く風が適温で涼しいくらいだ。つまり、毒でひどく、体が痛むのだ。

 本来であれば、多少の毒くらい時間が経てばアルカナが浄化してくれるはずだった。しかしこの毒は体内で更なる毒を生み出して広がるようで、アルカナの治癒効果とせめぎ合い、一心に絶え間ない苦痛をもたらしていた。

(でも、あんな子供が見てたらね)

 一心は原吹晶の顔を思い出す。カークの名前を出したときの彼女の表情は、恐怖に満ちていた。水上晴と同じ、高校生の「英血の器」が保護されていることはマリエから聞いていたが、実際会ってみるとやはりまだ子供だ。いくら不死身の体を手に入れているとはいえ、ここに来るまでもたくさん怖い思いをしただろうし、そんな彼女に、戦いの結果このように苦しむ姿を見せるのは忍びなかった。

「――ぐぅっ……かはっ‼」

 肺に激しい痛みを感じて咳き込む。真下の石畳に、いやに黒々とした飛沫が散っていた。

(……こうなると、死ねないってのもきついもんだ)

 そうしていると、ジャリッと足音が聞こえたので、一心は急いで握っていた煙草を咥え、火を着けた。

「この時代に煙草とかさ、もはや希少種だよねぇ」

「レトロ趣味って言ってくんない? 体を犠牲にしてかっこつけてんだから」

 斜め後ろに顔を向けると、低い垣根の向こうに、後ろ手を組んだ笙子が立っていた。

「煙草って今いくらするの?」

「紙煙草はひと箱千二百円くらい。でも俺のは英国産の五千円もする男の拘り品。この黒い巻紙に、金色のティップペーパーがセクシーだろ?」

「嘘でしょ⁉ 高すぎ」

 笙子が困ったような笑みを浮かべる。そして「よっと」と垣根の隙間を軽く跳ねて越え、一心の隣に腰を下ろした。

 二人はそのまましばらく黙って座っていたが、煙草から灰がぽろりと落ちたところで、

「――なんで神名さんたちに、言わなかったの? わたしのこと」

 と、笙子が訊いた。

 その問いに、一心はもう一度だけ煙草を吸い込んで、笙子の座る方とは反対側に煙を吐くと、ポケットから携帯灰皿を取り出して放り込んだ。

「報道しない自由ってやつ?」

「それどころか、わたしのことも全然聞かないし」

「そのうち話してくれるんだろ?」

 そしてシガレットケースからもう一本煙草を取り出そうとして、やはり思いとどまり蓋を閉じる。

「――あのとき、フードの奴らが教会に攻めてきた。そして君は、ひと芝居打って俺たちを始末したフリをし、『神殿』が転送されるまで時間を稼いでくれた――驚いたし、結構痛かったけどさ、今はそれだけで十分だよ」

「でも……」

 笙子が下を向いたまま、きゅっと手を握る。

「『真実はただの真実だ。そこに何かを求めるのは欲しがり屋さん』ってな」

「なにそれ?」

「〝志賀さん語録その三十〟、俺の師匠のありがたいお言葉集です」

「なんか、すごそうな人だね」

「ああ、すごかったぜぇ。俺の憧れでさ――本当に、すごかった」

「………」

(まずったかな……?)

 つい、余計なことを言って、また空気を重くしてしまった。笙子はまだ何か言いたそうにしているが、自分が満足に戦えぬ今、彼女の負担を上げるわけにはいかない。性格上、真実を知りたい気持ちもないではないが、ここで笙子の罪をつまびらかにし、彼女に自身を責めさせることがプラスに働くとは、一心にはどうしても思えなかった。

 そして一心は「うーん」と大きく伸びをすると、ベンチの背もたれに一度体を預け、

「いやはや、兎にも角にもカークだよなぁ。あいつを何とかしなけりゃ始まらん!」

 そう言うと、反動をつけて立ち上がった。

「その為にも、ちゃんと食べて栄養つけなきゃな。毒ちゃんにも勝てないし! 千尋君たちのもってきた食料、まだなんか残ってた?」

「うん。缶詰がいっぱいあったから」

「お、いいね。つぶ貝とかあるかなぁ……笙子ちゃんもメシ、まだなんだろ? 俺が交渉して少し分けてもらおう」

「わぁ、期待しちゃおっかな。先行ってて。わたしもうちょっとここで涼んでくから」

「おし、任された! んじゃ、なんかあったらすぐ呼んでくれよ?」

 一心は、おどけた風ににかりと親指を立てると、背を向けて地下鉄入り口の方へと歩き出す。

 ベンチに腰かけたまま、その背を見送る笙子は、

「ずるいなぁ」

 と、いつもの困ったような笑みでつぶやいた。


    * * * *


 母屋は粗末な木造なのに、聖堂だけは立派な石造りなのが気に食わなかたし、その中央に飾られている、いつもぴかぴかな〝御印みしるし〟も、なんだかそこだけ綺麗で嫌だった。曾祖父の代から管理している教会らしく、父親には、幼いうちから「お前もいずれこの教会を継ぐんだ」と言われてきた。なりたいものを聞かれるより前にそんなことを言われ、他の選択肢を考えることすら許されなかった。

 だから――花島笙子は教会が大嫌いで、その信仰の対象である、あの御印が呪いの象徴のように思えてならなかった。

 〝教義〟という、子供には理解しがたいルールに従って、家族は質素な暮らしを強いられたし、敬虔な祈りのためと、最低限必要な数以外の電球が外された家の中はいつも暗かった。そんなだから照らす光もないというのに、それでも父親は毎日嬉しそうにあの御印を磨いていた。当然、母親はそんな父親に愛想を尽かして早々に家を去り、幼い笙子はいつもいつも、稀にしか人の来ない聖堂にぽつんと置かれ、一人遊びをしたり、御印を睨みつけたりしていた。

 そんなある日、父親もまた、姿を消した。

 そして代わりに男がやって来た。目深にフードを被り、顔に奇妙な模様を彫りこんだその男は、笙子に言った。

「オメェの親父はよく『教会』に尽くすど真面目君でよぉ、その真面目っぷりが認められて、出世することになったんだわ。だから、もう帰ってこねぇ」

 帰ってこない――そう言われてもあまりピンとはこなかった。そもそもいつも一人だったし、父親は、人のいない教会なのに常に何かしら忙しそうにしており、夜は早々と、ぴたりと決まった時間に寝てしまい、触れ合うことは殆どなかった。あとは――では、あの〝御印〟は誰が磨くんだろう、と、そんなことを思ったぐらいか。

「けど安心しな、オメェはオレら『教会』がしっかり面倒見てやるからよ――大切・・な」

 男が言うには、この世界には『教会』の手があちこちに伸びており、父親が仕える神様もその『教会』が用意したものらしい。その他にもいろいろなことを言っていたが、幼い笙子にはよくわからなかった。しかし、彼女にとって世界とはこの〝教会〟のことだったので、その話には何となしに納得してしまった。

 ただ、一つだけわからなかったのは、あの〝御印〟が大好きな父親が、なぜそれを置いて出て行ってしまったのか、ということ――それを訊くと、男はこう答えた。

「ああ? その〝お飾り〟はどこにでもあっからなぁ、別段困りゃしなかったんだろうよ。つまりよ、奴にゃ〝ここにしかないもの〟ってのが無かったってわけだ。オメェもそんな風に睨みつけてばっかいねぇでよ、ちったぁ親父に笑いかけてやりゃ違ったんじゃねぇの? あと――その目ホントやめとけ、マジ怖ぇから」

 そうして、教会で一人だけの生活が始まった。生活費は決して多くは無かったが、毎月、教区本部の使者が直接届けてくれた。学校の行事や手続きなど、保護者が必要な場合も、やはり教区本部から派遣される「親代わり」が対応してくれた。それでもやはり、子供一人ではできないことも多く、困ることは多かった。そんなときはあの男に言われた通り、周囲に〝笑いかけて〟みた。すると、子どもでも、大人でも、皆が喜んで手を貸してくれた。

 便利だな、と思った――この〝笑顔〟というものが。

 学校の級友だけじゃない。先生にも、見知らぬ大人にもよく〝効く〟。適当に振り撒いていれば、誰もが助け、庇ってくれたし、気を使って痛い腹を探られることもなかった。

 だから笙子はそれを磨いていった。重要なのは距離感で、近づきすぎず、離れすぎず、適度にこちらに興味を持ってもらい、本音を話すふりをして、相手の本音を引き出すこと。そうできたらしめたもので、それにたっぷり共感してみせるのがコツ――。

 そうしていろいろと上手く回せるようになってみると、確かにフードの男が言ったように、父親にもそんな笑顔を見せていれば、出ていかなかったのかもなぁ、などと思ってみたりもした。

 その後も笙子は、そんな風に笑って、取り入って、他人ひとを面白いように操れるようになったのだが、その分、〝一人〟は駄目だと悟り――だから結局、『教会』に言われるままに、〝教会〟と〝御印〟を継いだ。

 その頃だったと思う。フードの男に、自分が『英血の器』という存在だと聞かされた。

 驚きはしたが、別段不思議とも思わなかった。笙子は普段から人が見えないものを見ることがあったし、そう告げるあの男自身、決して普通の存在じゃないことも察していた。

 とどのつまり、周囲の状況がどう変わろうとも、笙子にとっては何も変わらなかったのである。

 ただ慎ましく、そこそこ誰かに頼り、頼られ、付かず離れず生きていく――「使い魔」の存在を教えられ、『大共鳴』のことを知らされても――「傘を差した少女」に出会い、教会に招き入れるよう言われても――それは、何も変わらない。その意味や意図がわからなくとも構わない。『教会』はどうせろくなものではないだろうから、きっと多くの人が困るのだろう。しかし〝教会〟の外のことなどどうでもいいし、必要最低限、助けてくれる人がいればそれでいい。今までもそうしてきたし、これからもずっとそうしていくのだろう――そう、彼女は思ってきたのだから。


「――それなのに、なーんでこんなことになっちゃったんだろうなぁ」

 笙子は何かを思い起こすように目を閉じる。

「お金は潤沢ってわけじゃなかったけどさ、社会的な立場もちゃんとあったし、それらしいことさえしていれば誰にも咎められないし――ほら、それだけでも結構楽じゃない?」

 彼女が壁に寄り立つそこは、マンションの空き部屋のようだ。しかし窓にはちゃんと遮光カーテンが掛けられ、外から覗かれないよう、しっかり閉じられている。

「それに、わたしってモテるんだよね。告白もよくされるし、頼る人には困らないんだ。だから、そうやって付かず離れずで、ずっと誰かの力を借りてやっていけるのかなって思ってた――そんなわたしがだよ? こんな風に誰かの為に動いてみようとか思うなんてさ――」

 そう話す顔には、淡いオレンジ色の光が当たっている。それは蝋燭の光であり、つまり、彼女はそこにいる〝誰か〟に話しかけているのだ。

「あなたも、もういいでしょ? そういうわけで、わたしにはいろんな子たち・・・が協力してくれるから、どこに逃げても見つけるよ? まぁ、今回はちょっと苦労しちゃったけど――とにかく、おとなしくついて来てくれないかな?」

 目を開けた、笙子の視線の先には――、


「そう、勝手を言われてもな」


 同じく蝋燭に照らされた、黒髪マリエが床に座っていた。


 マリエは座ったまま片膝を立てると、その上に腕と顎を乗せて笙子に鋭い視線を向ける。

「花島、なぜ私に全部打ち明けた。それになぜ、お前は『教会』を裏切った」

「あれ? 『教会』とかすんなりわかっちゃうんだ。黒髪さんもずいぶん進行・・してるんじゃない?」

「……話を逸らすな」

「別に、話す義理ないし」

 そう返す笙子に、マリエは苦々しげに目を細めると、

「そこまで話しておいて……なら質問を変える――私をどこに連れて行こうと?」

「あのカークって人のとこ。そうすればもうわたしたちを追いかけてこないと思うんだよね」

 笙子はまるで悪びれた様子なく、にこりと微笑んでみせる。

「そのあとはどうする? カークが引き下がったとして、『教会』――いや、『混沌』どもの狙いはお前ら全員なのだろう?」

「その〝お前ら〟には黒髪さんも入ってるんだけどね。そうだなぁ、〝バンさん〟は、全部の《器》を集めるまでやめないだろうし……」

 笙子は笑みを浮かべ続ける。

「でも、逃げ切ってみせるよ。東京からも脱出して、人を頼って、伝って――そういうのには自信あるから」

 そこまで聞いて、マリエは少し考えるように間をおいてから、

「悪いがいろいろあってな、協力はできない」

 そう言った。

「いろいろって? 大丈夫じゃないかな。カークさんのあの感じだと、黒髪さんを殺そうとか、そういうことじゃないと思うよ?」

 にこりとしたまま首をかしげる笙子に、

「こっちもそういうことじゃないんだ」

 マリエは深く息を吐く。

「そのカーク・鏑木も、神名千尋も、調べる程に闇が深くなる。彼らを取り巻く環境がそうさせたのか、彼ら自身がそう歩んだのかは分からんが、ここまでまっとうな人生でなかったことだけは確かだ。ただその根幹は結局、彼らが持ってしまった、どうしようもないほど大きな〝力〟にあるだけのように思えてな――お前らを襲っている『鎮護国禍』もそうだ。長い年月の間に力が膨れ上がり、制御がきかなくなってきている。皆、力に翻弄されているんだよ。それを食い止める為に、私はやらねばならないことがある」

「ふぅん――一人で『要石』を壊そうって? 無理じゃない?」

「………⁉」

 言い当てられたからか、マリエが明らかに動揺する。

 そして笙子は笑う。そうしようと努める。しかし――。

「かっこつけててもわかるよ。暗い中の小さな明かりって、全部見せちゃうんだよね。そんな風に言ってるけど――黒髪さん、怖いんでしょ?」

「なに……?」

 自分らしくない、と笙子は思っていた。いつものようにうまく取り入って、いいように誘導すればいいだけなのに。なぜか熱くなり、言葉が止められなかった。

「怖くて逃げてるんだよね? 『要石』を壊すなんてのも嘘。そんなことはできないと分かってて、ここまで来て、そうするふりだけして、一人でじっとしてる」

「貴様……」

 にわかに二人の空気が気色ばむ。

 しかし、なぜマリエまでもがその言葉に上気するのか、その理由をマリエはちゃんとわかっていた。自分の、触れられたくない部分を――。


 笙子の言う通り、マリエは恐れていた。

 自分を――正確に言うならば、自分の持つ〝力〟をだ。

 人外の存在を見、操る力。コントロールすれば、多少の傷などたちどころに治る力。普通の人にはない、力――。

 黒髪の家に生まれ、生まれながらにそんな力を持っていた。

 家の者たちはそれを喜び、マリエもまた、それを良いことだと思っていた。

 しかし成長し、日増しに力が強くなるにしたがって、そういった周囲の視線に違和感が混ざるようになったことに気がついた。それでも、そのようなことには気づかないふりをして修行を続けた。そのまま修行を重ねて力をつけるうちに、そうした違和感を、今度は自分が持つようになった。人外の存在に触れるたび、その、人のものとは異なる悍ましさ、生あるものを妬み、喰らおうとする醜悪さにそれ・・を感じた。

 〝恐怖〟――皆の視線に感じる違和感の正体が、〝魔女〟を見るそれだと自覚したとき、マリエは思ってしまった。自分も、そっち・・・なのではないか、と――だって自分は、人とは違うのだから。

 それ以降、マリエは修行を拒否するようになり、家の務めにも反抗し続けた。バイクチームなどを作り放蕩に明け暮れて、とにかく、〝人〟であろうとした。

 しかしやがて、そんなことをしていても意味がないと思い知った。

 目を背けても自分の力は無くならず、その力ゆえに、ある日、チームの仲間を失ったのだ――。

 それをきっかけにマリエはチームを去り、人として自分の力と向き合おうと思い至った。この力を使いこなし、それでも人としてあることに拘ろうと。

 警官になったのも、そういう思いの表れだった。

 黒髪の筆頭を継いだのも、これは人外の力などではなく、人の力でねじ伏せられるものだと証明したかったからだった。

 しかしその後――『大共鳴』が起き、何者かが自分と同じような力で人を傷つける事件が起こるようになった。

 許せなかった。マリエは自分の誓いを果たさんとするように、躍起になって犯人を捜した。しかし事件の闇は深く、追えば追う程に力の悍ましさを見せつけられ――再び、恐怖が鎌首をもたげた。

 自分も、いずれ〝そうなる〟のでは、と――。

 そんなときだった。舞浜で出会ったカークにより、それを証明されてしまった。自分もまた、事件を起こしていた赤谷犬樹たちと同じ『英血の器』であることを知ったのだ。

 そして同時に、カークの心にも触れた。

 衝撃だった。彼はそんな自分の力を全面的に受け入れ、むしろそんな自分を受け入れない世界を否定していた。そして〝異界の記憶〟の中で出会った女性を求め、その面影をマリエに求めた。

 常軌を逸した、悲しい心だと思った。同時に強い心だとも思ってしまった。そんな風に力を受け入れて正気を失おうとも、人の心のままであろうとする者がいるのかと――それは、自分の記憶の中にある〝その女〟に、心が重なっただけなのかもしれないが――涙が、こぼれた。

 そうしてマリエが必死に心に纏っていた鎧は、すっかり剥がれ落ちてしまっていた。

 笙子の言う通り、もはや彼女の心は剥き出しの恐怖に晒され、今もこうして、全てに背を向け逃げ続けている――。


 マリエが笙子を睨み上げ、笙子はマリエを冷めたく見下ろす。

「だから、もういいでしょ? 『英血の器』だった自分が怖くて、そうやって逃げ続けてるだけなら協力してよ」

「言ってくれるじゃないか」

 マリエが立ち上がる。

「こっちはお前のように厭世的でも、誰かに依存しなければ立てないわけでもない。楽しければそれでいいなんてのには共感できないんだよ」

「どうして? いいじゃない、楽しいの。わたしは好きだよ。みんなでいるの思ったより楽しかったし、こういうのもいいかなって、壊すのもったいなくなっちゃったもん。実際うちで過ごしてる間、黒髪さんも少しはそう思っちゃったんじゃない? あそこならみんな〝同じ〟だし、柿原さんとかいい人だから、人間扱いしてもらえるもんね」

 その言葉にマリエは何かを感じたか、眉根を寄せたあと、

「ああ、そういう……まぁ、一緒に酒を飲んでやる程度には、あいつはいい男・・・かもな」

 と皮肉に笑ってみせた。

 すると、今度はそれが笙子の琴線に触れたようで、

「――いろいろ持ってるくせに、あんたみたいの、ホントいらいらする」

 もたれる壁から身を起こして一歩前にでる。

「結局、それ・・が理由か――どうするんだ? 力ずくで連れて行くか? こっちはプロだぞ?」

 そう言うと、マリエは親指を口に当てて表皮を噛み切った。そして印を組みつつ手袋に仕込んだ鈴を鳴らし、流れ出る紅輝から血晶の襟布に身を包む。

「経験も、使い魔の数も負けないと思うけど」

 笙子もまた、胸にかけた〝御印〟で指の平を刺すと、吹き出すアルカナをベールに変え、血晶の衣を纏った。

 そうして二人の「器」が対峙し、一触即発の空気が流れた、その時だった。

 甲高い、硝子の割れる音と共に、窓から何者かが入って来た。

 そいつは小さな竜巻のように体を高速で回転させ、笙子に黒い何かを打ち込む。

 小さく悲鳴を上げながらも、その動きを瞬時に見てとった笙子は、血晶の衣を前面に集めてそれを受け止めた。

 弾ける紅い光を映したそれは――まっ黒な剣だった。そしてそれを手にしているのは、長い白髪を後ろに編み垂らした、死人のように色の白い女剣士で――。

「……仕込んでたんだ。汚いプロね」

 笙子が睨む

 しかしマリエは、

「これは、私ではない――」

 そう目を細めると同時に、女剣士はさらに体を半回転させ、今度はマリエに斬りかかった。マリエは体を沈めてそれを躱し、笙子はその隙に窓に向かって駆け出すと、

「じゃあ誰よ――〝サエーナ〟!」

 そう叫び、美しい羽をもつ人鳥を呼び出した。そしてその足に捕まると、部屋を出て空へと飛び上がる。

「いったいなんなの?」

 地上を見下ろすと、同じように窓から部屋を飛び出したマリエと、それを追う女剣士が見える。マリエはそのままマンション前の線路に逃げ込むと、そこで振り返り、蒼く大きな獣を呼び出した。

 笙子は日々河学園の地下でマリエと共に戦ったとき、あの死獣――〝プルートー〟を見た。確かにあれなら召喚したままで、アルカナを注ぐまでもなく強い。見た目にも大型バスと人くらいの体格差があり、これならば勝負は決しただろうと思われたが、

「……まずいですね。逃げますよ、笙子」

 同じく地上を見ていたサエーナが、そう言って加速する。

「え……?」

 高さもある。あの女剣士を倒したあとで追ってくるにしても、プルートーに飛行能力はない。ではなぜ――そう考えるうちに、目の端に、遠くでズンと鈍い音を立てて崩れ落ちる死獣が見えた。そして――。

「嘘……」

 笙子は目を疑った。

 既に地上からは三十メートル程は離れている。なのに今、目と鼻の先に先程の女剣士がおり、剣を引き絞っていた。

「笙子、しっかり捕まって!」

 サエーナが大きく翼を羽ばたかせて後ろに下がるが、間に合わず、翼を斬り裂かれてしまう。揚力を保てず落下する二人――しかし、サエーナは地面に激突する十数メートル手前で体に〝再生の炎〟を灯すと、新たな翼を広げ、足にしがみつく笙子を羽根で包みこんだ。

 ボスンッと強い衝撃に見舞われたが、羽根のおかげで笙子は無事着地する。そして羽根から這いだして立ち上がると、サエーナもまた、よろけはしたものの、続いて身を起こして急ぎ周囲を見渡した。

 やはり、女剣士は、すでに少し離れた地上に降りてこちらに剣を向けていた。

 不意に、その上に大きな影が掛かった。

 女剣士が見上げると、いつの間にか頭上に蒼黒い瘴気が広がっており、それが死獣の爪に変じたかと思うと一気に振り下ろされた。だが女剣士は逃げることなく、なんと、逆しまに剣を斬り上げたではないか。それでもやはり、これでは巨岩に棒で挑むようなもの――。

「グオオオオオ」

 しかし轟いたのは、苦痛と怒りに猛る死獣の咆哮だった。

 巨大な爪はまっぷたつに裂かれ、それどころか、その亀裂は徐々に腕を遡り、心の臓を探して割れ進む。

「プルートー! 戻れ!」

 不利と悟ったか、すぐ近くにいたマリエが死獣を血晶へと変化させ、手にした銃へと戻した。

 その様子を見ていたサエーナが、驚愕に目を見開きながら言った。

「〝冥府破り〟――あの剣士は、かつて冥府の底に落ち、その戒めを破って地上に戻った裏切りの聖人――『ユダ』です。彼女には〝神殺し〟の業もある……とはいえ、あの力はそれ以上のもの、普通であれば冥府そのものであるあの死獣に敵うはずが……」

 しかし、その呟きを聞く笙子には思い至ることがあった。マリエの使い魔でもなく、『鎮護国禍』の手先でもない。それでいて、それ程強い力をもつ使い魔――そして、あの左胸のあたりに見える〝青黒い痣〟――。

「……あれ、『贄』だよ」

「〝にえ〟……?」

「うん」

 『贄』――笙子は、以前バン・ドレイルに聞いたことがあった。紅蓮の運命に導かれた神魔霊獣、それらの内、何かしら絆もつ者同士を殺し合わせることでそれは生まれる、と。そして『贄』となった者は正気を失ったのち、〝運命〟を捻じ曲げ、やがて『英血の器』の息の根を止める強力な武器になる――そう言っていた。その〝印〟は体のどこかに浮かび上がる〝痣〟であり、その痣をもつあの女剣士は、裏切った笙子を始末するために、バン・ドレイルが放った刺客に違いなかった。

(冗談じゃない……)

 そのような者を相手にするわけにはいかない。笙子はただ、マリエをカークに引き渡して、逃げ道を確保しようとしただけなのだ。命をかけるリスクまでは負えない。

 笙子はじりりと後退りした。

 それに感づいたか、ユダが振り返って笙子を視界にとらえる。

 笙子はすぐに走り出そうとしたが、

(なに……⁉)

 がくんと体が沈む。なぜか、足に力が入らない。

「……ごめんなさい、笙子。その『贄』という者の力ですね……先程私が斬られたことで、あなたの力が吸われて……います」

「そんな……」

 サエーナの言う通り、確かに体からどんどん力が抜けていく感じがする。血晶の衣が剥がれ、気が焦り、揺れる視界の中で、サエーナが形を保てなくなって血晶へと戻ってしまう――その向こう側で、ユダが地を蹴った。

 笙子は思わず目をつぶる。

 パンッ――と、何かの破裂音がした。

 目を開けると、ユダに向け、血晶を解いたマリエが銃を構えていた。

 銃口から立ち昇る微かな硝煙が見えて、先の音はそこから発せられたことがわかる。

 だがユダは立ち止まって振り向いただけで、とくにダメージを負った様子はない。それはそうだろう。そもそも、このような超常の存在に、人の武器など通じるはずはないのだ。

 しかし、マリエは銃をユダに向けたままで一定の距離を保ちつつ、弧を描くように移動し、笙子の前に立った。

「何のつもり……?」

「私は警察官だからな。人として、市民を守る」

 近くで見るとわかる。そう言ったマリエは、大きく肩を上下させ、息荒くなんとか立っている状態だった。一度だけサエーナを斬られた笙子がこのあり様なのだ。二度もプルートーを斬られたマリエのダメージは想像に難くない。

「やめてよ。さっきはこっちをやろうとしてたクセに」

「あれは喧嘩・・だよ。それも先にお前が仕掛けたな」

 笙子は、マリエの行動が理解できなかった。

 あんな風に怖がって、自分の力に怯えていて、それなのに自分よりも強い力にこうして立ち向かっている。彼女が言うように、警察官でそれが使命だから? しかし今していることは、無謀で、何の意味もなく、到底勇気などとも言えるものではない。

 ユダが、剣を構え直した。

 同時にマリエが再び発砲する――が、弾丸は僅かに逸らした剣先に弾かれてしまうだけだった。

 その背を見て、笙子は思った。

(違うのか……)

 マリエがさらに発砲し――彼女の肩は、震えていた。ダメージのせいなのかもしれない。しかし、笙子には違って見えた。

(意地……なんだ)

 自分の持つ力が怖くて、目を背けたくて、でも、人でいることも辞められない。彼女はきっと、そこで折れたら何者でもなくなってしまうのだろう。

 笙子は思う。自分は、自分が何者かなど考えたことがあるだろうか? ただ心を隠し、他人に都合のいい自分を演じてきた。それはなぜ? ただ生きるため? 違う――大切な何かが傷つかないように――それを、守るため――。

 そこで、ユダが再び地を蹴った。

 マリエも発砲を繰り返すが、その全てが剣に弾かれてしまう。

「くっそおおお!」

 とうとう銃の弾も尽き、無慈悲な刃が黒く煌いた。

 

 笙子は、やはり理解できなかった。

 その――自分の行動が。

 

 マリエは不意に背中から引き倒され、気付くと、自身の前に立つ笙子の背を見ていた。

 ユダの剣は、真っ直ぐ振り下ろされており、笙子の体がぐらりと傾いた。

(おかしいな……なんで今さら、こんなもの・・・・・に……)

 笙子はぼんやりとした視界で、自身の手を見た。

 その両手は、祈りを込めるように組み合わされ、その中にしっかと〝御印〟を握り込んでいる。そしてその御印は、笙子の体ごと、ユダの剣によって砕かれていた。

 本性を隠して、他人を頼っても信じることはなく、自分だけを守って生きてきたはずの自分が、最後の最後に、一番嫌いなそれに思いを託したことが信じられなかった。

(でも……そうか。もしかしたら、わたしは……)

 立っていられずに笙子が膝を突き、マリエがそれを支える。


 その時、ユダが剣を落とした。

 砕けた〝御印〟を凝視し、

「……ああ……」

 両手を震わせて顔を抑える。

「あたしは、何を……何てことを……」

 昏かった瞳に光がだんだんと戻っていき、それとは逆に、左胸に浮かんだ痣が次第に薄くなっていく。そうしてそれが完全に消えると、諸共にユダ自身もまた、空気に溶けて消え失せてしまった。

 

 突然訪れた静寂にマリエはどうしたらいいかわからず、笙子を抱えたまま、ただ呆然とまっすぐ前を向いていた。しかし、ひゅうひゅうとかすれ始めた弱い呼吸と、手からだんだんと失われて行く体温に意識を呼び戻され、腕の中の笙子を見た。彼女顔色は美しいほどに蒼白で、それでも――

「花島……どうして……」

「ふふ……今、わたしが一番そう思ってる……」

 力はないが、やはり笙子は笑っていた。

 そして弱々しく震えつつも、残された精一杯の力で、砕けた〝御印〟をもう一度掲げて見つめると、

「ねぇ、守ってくれるっていうならさ、あの人たちも、ちゃんと最後まで守ってよね……それと、わたしは逃げたことにしといて……こんなの……かっこ悪い………から……」

 そう言って紅い光を残し、砕け散った。

 マリエは俯いたまま、手にあった笙子の感触を探し続けるようにじっと座っていたが、しばらくして、膝の上から転がり落ちた笙子の血晶を拾い上げる。

「……はは、見たろ? 結局こうやってこの力は誰かの命を奪うんだよ――――私は、〝魔女〟なんだ」

 そして、それを握り締め、

「すまんな、花島。私には――無理だよ」

 そう言って、小さく地面にうずくまった。


    * * * *


 平成に開業されて以来、日本一高い電波塔として一躍東京の名所となった『ステラツリー』は、その有名に恥じぬ美しさをもって、東京の夜に光の絵を描き続けてきた。

 しかしそれも、もはやかつてのことで、『大共鳴』後は、その銀色の壁面に一度も明かりを灯したことはない。

 それが今、塔は息を吹き返したかの如く赤い輝きを放っていた。

 だがそれは、平和の輝きなどではない。炎の赤、破壊の赤、恐怖に彩られた、街を燃やす光が照り返された赤であった――。


 大斧が叩きつぶすように青い肉を引き裂き、悲鳴を上げる間もなく魔人を二つに分ける。

「あはは、割れた割れた!」

 笑うアニムスの後ろで、その惨さに原吹晶は顔をしかめつつも、すぐに周りを見渡してさらなる敵を探した。

 どうやら近くにいるのは今の一団が最後だったようで、周囲は一旦落ち着いたようだった。しかし安心はできない。数ブロック先の通りからはまだ、立ち昇る黒煙と共に、晶たちを探して繰り返される破壊の音が流れてくる。

(それにしても……)

 自分たちがやったとはいえ、道路という道路に散らばる怪物たちの残骸を見ると、改めて今起こっている状況に戦慄する。

「なんなのこいつら?」

「さぁ? 僕は生まれたばかりだからよく知らないけどね、これが僕と同じ〝悪魔〟だということだけはわかるよ」

 同族を見て嬉しいのか、アニムスはにこにこしながら魔人の亡骸を斧の柄でつついたり、ひっくり返したりしている。そう悪いやつでもないとは思うのだが、これが自分の〝心の中〟から生まれた悪魔だと思うと、晶は若干後ろめたい気分になった。

「こいつらは〝ディアボロス〟だ」

 すぐ後ろで、同じく青い魔人を締め上げていた吠が、その首をぼきりと折り捨てながら言った。

「それがこれ程の群で襲ってくるとなると――」

 何か思うところがあるのか、遠くの炎を見つめるその表情はひどく険しい。

「お兄さーん、お待たせー!」

 すると今度は、そんな状況には不釣り合いな明るい声が聞こえた。見ると、吠越しに、道路の奥から〝ラグナロク〟と呼ばれていた少年が、満面の笑みで手を振りながらこちらに飛んでくるのが見えた。そう、飛んでいる――やはりこの少年も人間ではなかったようで、腰から生やした白銀の翼で宙を飛び、鉤爪の足にぐったりとこと切れた魔人をぶら下げていた。その後ろには、全身いたるところに青い体液を浴びた蛇と、少し離れて、変わらず状態の悪そうな柿原一心、それに肩を貸して支える神名千尋と森園英子が続く。

「はしゃぐな、小僧。〝オーディン〟が余計なことをせんように、貴様は仕方なく我らが保護してやってるのだ。大人しくしていろ」

「えぇ~。僕、蛇のお兄さん嫌いだから言うこと聞かな~い」 

 ラグナロクが魔人を投げ捨てて高く飛び上がるのを、蛇は忌々しげに一瞥すると、吠に向き直り報告する。

「兄者、北側は大丈夫だ。一旦こいつらを隠せそうな場所も見つけた」

「そうか、なら急ぐぞ」

 吠は歩きだそうとするが、そこにようやく一心たちが息荒く追いつく。

「ふぅ……なぁ、こいつらもカークの使い魔だってのか?」

「……っ」

 『カーク・鏑木』――その名前に、やはり晶は固まってしまった。このように怪物たちと戦ってもなんとか平静を保てるようになったのに、どうにもまだ体が反応してしまう。それだけ、あの時受けた恐怖が強いということか――いや、もしかすると、その時のことが、水上晴の最期に結び付いているというのが彼女の中で大きいのかもしれない。

「いいや、違うだろうな。おそらく、これは『混沌』の軍勢だ。なかなかお前らが捕まらないことに痺れを切らして、奴が情報を流したんだろう。こうしてお前らをあぶりだす為にな」

「くそっ、こんな時に……‼」

 一心が苛立たし気に自身の腿を殴りつけた。大事なときに、満足に動けない自身の体に憤っているのだろう。

 大事なとき――そうなのだ。

 数時間前、外に出たきり戻らない花島笙子を探しにいった晶と千尋は、突然怪物たちの襲撃を受けた。晶が使い魔を呼び出しその場はしのいだものの、遠方から近づく、明らかかに大群と思われる怪物たちの気配に、二人は一旦『神殿』に戻り、応援を呼んだのである。

「花島さん、無事だといいけど……」

 晶が心配そうに手を握り込む。

「すまん……俺が、あのとき一人にしなければ……」

「うーん、でもさぁ――」

 うなだれる一心の頭上から、ラグナロクが額に手を当てて遠くを眺めながら言った。

「あいつら、絶対僕たちの〝神殿〟目指して集まってきてるよね。なんでこの辺りだってわかっちゃったんだろう?」

 それに対し、千尋は考え込むようにすると、

「……もしかしたら、ショッピングモールから逃げるとき、僕たちがつけられたのかもしれない」

「ふん、兄者の鼻を、そうそう欺くことなどできるものか」

 そう、蛇が不満そうにそれを否定した、そのとき、

「――それが、オレ様ならできるのさぁ」

 すぐ近くで、皆がいやに楽しげな声を聞いた。

 しかし、聞こえただけで、周囲には見知った者の姿しかない。

 そこで、ようやっと死骸弄りに飽きたアニムスが、

「ん、なんだろうな? あいつは……悪魔の親戚か?」

 と、斧で空中を指し示した。

 その方向を見ると、いつの間にか少し離れた街灯の上に半裸の男が屈みこみ、一同を見下ろしていた。

「な? 今も気づかなかっただろ?」

 長い金髪の上に軍帽を被り、やけに煽情的に舌を回して笑うその男は、一見人間のようではある――が、その青白い肌と、背に生えた翼は、明らかに人のそれとは違う存在であることを現していた。

 男はそのままにやけた顔で一同をざっと見回したが、「んん?」と目を細めて首を捻ると、

「おい、あのナイスバディの女はどこいっ――」

 言いかけた瞬間、男の乗る街灯が弾け飛んだ。弾いたのは〝黒い棘〟であり、それは蛇の背から伸びていた。では、男はどうなったかというと――その姿が、忽然と消えてしまっていた。街灯と共に消し飛んでしまったのか――。

「……てんめ! やるならそれっぽいこと言えよ、バカ‼」

 今度はさっきとは別の方向から声がした。男は、またもや気付かぬうちに、別の街灯の上に移動していたのである。

 すると英子が、そのままキーキーと文句を叫び続ける男を見つつ、吠の傍に寄ってそっと告げた。

「――あいつならできるわ」

「知っているのか?」

「〝アルプ〟よ。夢魔だけど、ドラウエルフの魔法も使えるの。あいつの帽子は存在を消す――姿だけじゃなく、臭いもね」

 騒いでいた割にその声を耳ざとく聞きつけたのか、街灯に乗る男――アルプは英子を指さし、

「おい女! ネタばらししてくれてんじゃねぇよ! 臭うぞ、さてはお前エルフだろ! オレは女は大好物だけど、エルフだけは受けつけねぇんだよ! はぁ~くっせ! 森くせぇ! 近づくなバーカ!」

「はぁ⁉ 臭くないわよ! この‼」

 英子の袖から蔓が伸び、それが一瞬で竪琴の形に変わった。そしてそれをつま弾くと、アルプの乗る街灯の真下から太い木の根がアスファルトを突き破る。木の根はアルプを絡め捕ろうと触手をうねり伸ばすが、アルプは翼を羽ばたかせて宙に飛び、するりとそれを躱してしまう。

「はぁ~、や~っぱエルフはクソだぜぇ。カークの旦那にゃ悪いけど、やっぱあの髪の短い女と、悪魔みたいな斧女は――オッケーかな。うん。それだけ残して殺してもらお」

 そう言うとアルプは、指笛を吹いた。

 その音には魔力が込められているのか、甲高い音が、長く、高く、どこまでも広がっていく。

 すると、遠くで炎を上げているビル群の赤い空に、複数の黒点が浮かび上がった。その内一つが急速にこちらに近づいてくる。

 吠は鼻をひくくと動かすと、舌を打ち、

「お前ら、下がってろ――来い、蛇」

 と皆の前に出た。蛇もまた、無言でうなずき前に出る。

 同時に、先程の黒点が見る間に翼を生やした人の形となり、黒く長い髪をなびかせて吠たちの前に舞い降りた。

「――よくやったぞ、アルプ」

 そう言うと、背に生やした黒い翼を閉じ、顎に手を当てて晶たちを見回す。

「たしかに、〝アルカナ〟を宿せし者どもだ」

「てめぇのためじゃねぇよ、デュミナエル。オレは旦那と契約してっからな。それに従っただけだぜ――あ、でもあの女どもは残しといてね」

 アルプに指をさされ、晶がむっとして睨み返す。しかしラグナロクがその横に降り立ち、

「大丈夫だよ、お姉さん。あんな細っこい〝天使〟なんて、お兄さんの相手じゃないもん!」

 そう笑ったが、

「下がっていろと言ったぞ、ラグナロク」

 吠は警戒を緩めない。

 デュミナエルと呼ばれた黒い羽の男もまた、吠と蛇という、強力な存在を前にして余裕の笑みを崩さず、

「残す――どうかな。あの方たちは暴威を極める。私の奇跡でも果たせるかどうか」

 と、上空を見上げた。

 そして、地面が揺れた。それは大小様々な揺れを伴い、間断なく揺れ続ける。

 吠と蛇、そしてラグナロクとアニムス以外は、各々地面に手をついて揺れに耐え、上を見上げる。

 震源は――ビルの上だ。そこに、続々と皮の翼をもつ悪魔たちが、何十、何百と降り立っているのだ。最後に、ズンッと、ひと際大きく揺れたかと思うと、暗い夜空が、さらに黒く覆われた。

「ちっ……妙に悪魔が束になってるとは思ったが――」

 吠が歯噛みをし、ゴキリと爪を立てた指を鳴らす。

 空を覆う黒いベールに、ぎょろりと二つの大きな目玉が浮かび上がった。

 巨大な顔――いや、それは〝翼〟についた「目」なのか――加えて、太く曲がった禍々しい二本の角を頭に頂くその影は――。

「――貴様か、〝アザゼル〟」

 吠が言った。

「誰かと思えば〝フェンリル〟か――なんだそれは、まさか人間を守っているのか?」

「話す必要があるか?」

「ふん……我らが長、ルシフェルを斬った『贄』の因果――見届けねばと来てみたが、なかなか面白いものに会う」

 ビルの上に降り立った巨大な悪魔と吠は、旧知の間柄なのか、お互いを呼び合って言葉を交わし、さらにお互い強い警戒を露わにした。

 そして吠はビルの上を凝視したまま背に語りかける。

「お前ら、こいつらが相手では下がるどころじゃ足りん。ラグナロク、『器』どもを連れて、その〝隠せる場所〟に置いてこい」

 しかしラグナロクは、晶の横から飛び上がると、

「やだ、僕も手伝う!」

 とやる気満々に吠の横に降り立つ。

「貴様などが役にたつのか?」

 蛇が揶揄するが、

「うるさいなぁ、足つきのニョロニョロなんかには負けないよ! もっともっと強くなったとこ、〝おじさん〟に見てもらうんだから!」

 とまったく聞く様子はない。

 しかしそこで、吠がぎろりと横目でラグナロクを睨んだ。

「〝ヴィーザル〟を助けたいなら、そいつらをここで死なせるな」

 その言葉を聞いたラグナロクは、顔に笑顔を張りつけたまま固まる。そしてその表情が

ゆっくりと、何か大事な決意を思い出したような、少し大人な表情に変わる。

「わかったよ……でも、あいつら置いたら戻ってくるからね」

「好きにしろ」

 ラグナロクはうなずいて踵を返すと、晶たちの元に戻り、

「それじゃあ――」

「……待ってくれ」

 一心が、それを遮った。そして脚を引きずりつつ、必死な様子で吠に近づいていく。

「柿原、悪いがこれだけの軍勢相手だ。足手まといはいらん」

「それはいい。ただ吠さん、あんたの鼻で笙子ちゃんを見つけられないのか? せめて方角だけでも……」

 血色の悪い顔に、すがるような目で訴える。

「………」

 だが吠は、その訴えに言葉を返さない――いや、返そうとしているのだが、言葉を選んでいる、そんな様子だった。そして、

「――こうまで雑多にいると、鼻もきかん」

 そう一言、背を向けたまま答えた。

 その背に何かを感じたか、一心は黙って引き下がり、残る四人に、

「――行こう」

 とだけ言って吠に背を向けた。

 千尋がそれに続き、晶がアニムスを血晶に戻して頭を下げる。

「ありがとうございます。吠さん、蛇さん」

「あなたたちも、気を付けてね」

 最後に英子がそう言うと、

「ふん、我らを誰だと思っている――」

 蛇は両の拳を重ね合わせて力を込めた。すると蛇を中心に、びりびりと空気が震え、その波動が頂点に達すると、爆発のような閃光が起こり――、

《我が名は世界蛇――〝ヨルムンガンド〟、このまま世界に黄昏を迎えさせてやっても構わぬわ》

 なんと――それでも大きさを抑えているのだろうが――四車線の道路に目いっぱい跨る巨大な蛇竜へと姿を変えた。

 それを見たラグナロクは、

「それじゃ、僕も」

 と、蒼碧の光を放つと、こちらは白銀の羽毛を纏った美しい竜となる。

《乗って!》

 竜となったラグナロクが頭を下げる。

 首を伝って、先に千尋と英子が乗り込み、一心を引っ張り上げる。そして最後に晶が飛び乗って羽毛を引っ張り、準備ができたことを伝えた。

 するとラグナロクは「すぐ戻ってくるからな」と言わんばかりに、悪魔達に向かって一度大きく咆えると、翼を広げて飛び上がった。

 思いのほか強い向かい風が四人の体に叩きつけられる。皆必死に頭を下げてラグナロクの背にしがみつくが、晶は少しだけ身を起こし、地上を振り返った。

 やはり吠は背を向けたままだったが――晶には、ほんの少しだけ、彼がこちらに横目を向けて見送ってくれたような気がした。

 晶は再び前を向く。そして背後に、開戦を告げる猛々しい狼の咆哮が木霊した。


    * * * *


 吠たちと別れてどれくらいたっただろうか、いまだ鈍く断続的に地響きが鳴り、遠くに破壊と戦闘の音が聞こえている

 神名千尋たちは町はずれの廃工場に隠れ、吠たちが戻るのを待っていた。この工場を見つけた際に、どうやら蛇が地脈を利用したまじないのようなものを掛けたらしく、怪物たちが寄ってくる様子はない。しかしそれは〝今のところ〟ということで、いつ効果が切れるかわからないから油断しないように、とラグナロクは告げて、戦場へと戻っていった。

 千尋は窓から外を警戒しつつ、工場内を見る。

 原吹晶が壁際で膝を抱え、何かを見ている。手にちらりと見える紅い色は、水上晴の血晶かもしれない。森園英子は千尋と同じく、別の窓から外の様子を警戒しており、そして柿原一心は、工場にあった段ボールを並べた簡易の寝床に横たわって、変わらず荒い息を上げていた。

 今、ここを襲われたらひとたまりもない。吠は〝足手まとい〟と言っていたが、まったくその通りだった。『英血の器』が三人もいるが、一心は見ての通り毒に侵され、千尋は力が使えない。頼みの晶も、カーク・鏑木が相手となると、なぜか様子がおかしくなり、戦えるような状態ではないように思えた。

 そして千尋は自分の手を見る。

 正直、情けなかった。晶に全てを任せるしかないこの状況もそうだ。今や、自分たちにふりかかった、この常軌を逸する運命や境遇に戸惑いはない。目の前に迫る死を受け入れるか、戦い続けるしかないのだ。この状況でそうし続ける意志を保つためにも、生き抜いた先に自分が見ようとしているもの、それを確かめ過去と向き合う――そんなことも考えていた。しかし結局は、そこに大層なものなどなく、何かの虚勢でしかなかったのではないかと自分を疑いたくもなった。そして、そんなことであるならば、なぜあのとき虎鉄の手を取れなかったのか――いつまでも、その思考から抜け出せずにいた。

 千尋は徐にポケットに手を入れると、上恵大学で受け取った二つの血晶を手に取り、眺めた。濃く、紅い輝きを――。

(これに、僕も……虎鉄――)

「よぉ、千尋君……よかったら話をしないか」

 声を掛けられ、見ると、一心が弱々しく身を起こしてこちらを向いていた。

「……おとなしく寝てた方がいいんじゃない?」

 今はそのような状況でも、気分でもない。そう思った千尋は、冷たく返してしまう。

「いやぁ、なかなかきつくてさ、話でもして、気を紛らわせたくてね」

 そう話す一心の目が、千尋の手にある血晶に向いていることに気づき、

(気を使ってくれてるのかな……)

 それを再びポケットに収めると、とりあえず一心の傍により、手近にあった工具箱の上に腰を下ろした。

「……僕のことだったら、こんなときに力を出せないのはすまないと思ってる」

「はは、ストイックだなぁ。ちがうよ。俺自身の興味の話さ」

 一心は「いてて」と顔をしかめながら体勢を変え、段ボールの上に胡坐を組んだ。そして、

「君は、あの竹谷三月博士の息子なんだってな」

 そう切り出され、すぐに千尋は身構えてしまった。

「なに? こんなときに取材?」

「まぁね。職業がら、常に真実を追い求めようとさ。オレもこんなだし、心残りは無くしておこうってな」

 そう言って、「縁起でもないか」と血色の悪い顔に無理矢理にへらとした笑みを浮かべてみせる。

 千尋はその質問の意味を勘ぐってみたが、

「……そうだよ。僕の母親は、今僕らをこういう目に遭わせている側にいる人だ」

 そう答えた。今さら隠すことはない、と思った。以前、赤谷犬樹の口からAVALの名が出たときは、そのことには触れなかった。余計な勘ぐりをされたくなかった、というのもそうなのだが、AVAL科学財団の名前は、ニュースのアルカナ症候群調査結果報告で散々流れて珍しくもなかったし、そのときは、ここまで直接的に事態に関わっているとは思っていなかった。とはいえ、病院で対峙した白木優羽莉の口から母親の名が出たとき、そうかもしれない、と思ったのも事実だった。確信をもったのは龍道で、同じく優羽莉から全ての事情を聞いたとき――それからは、いつからそう・・だったのか、過去のどこまで・・・・がそれに関係したことだったのか、そんなことを考え続けていた。

「じゃあ、僕の〝事件〟のことも?」

 そう訊くと、一心はなんだかバツが悪そうな表情になった。

「ああ、まぁな。こう、簡単に言っちゃいかんのだろうが、大変だったよな」

「………」

 そこですまなそうな顔をするのなら、なぜそんなことを訊いたのか、やはり意図がわからず、千尋は黙ってしまう。

「それよりも――」

 すると一心が、表情を正して訊ねた。

「君は、いつから・・・・〝記憶〟を持っていたんだ?」

 驚いた。そのようなことを他人に訊かれるとは思ってもみなかった。千尋はそのことを誰にも話したことはなかったし、自身としても、それを思い出したのはつい最近のことだったからだ。

「子供の頃――それこそ物心ついた頃かな。小さい頃はただの夢だと思ってたけど、今は、あれは〝異世界の記憶〟だったと確信してる。今ほどはっきりとはしてなかったけど……」

「原因は?」

「わからないよ。優羽莉――僕らが何度か襲われた白木優羽莉だけど」

「ああ、AVAL会長のご令嬢な」

「うん。僕は子供の頃彼女に会ってるんだ。彼女はその頃から、研究所でいろいろと実験されてたみたい――でも、僕にはそういったことをされた記憶はない。柿原さん、どうしてそう思ったの?」

 千尋自身、そのことには興味があった。むしろそれを知りたくて、母親に会いたいと思い至ったのだから。しかし一心は頭を掻くと、

「いや、すまないが、これは俺が思いついたことじゃないんだ。黒髪さんがね」

「でも、〝記憶〟があったとしたらどうなのさ」

「うーん」

 一心は腕を組んで考え込んでしまう。そして、

「――やっぱり、聞いたところでどうもないな。『そんなもんか』って感じだ」

 そう答えた。

 これには、さすがにわけがわからず、

「どういうこと?」

 今度は千尋が前のめりに質問してしまう。

 しかし、一心はその質問には答えず、

「君は、今何を考えてる?」

 と、逆に質問を返した。

「取材じゃないの?」

「取材対象の心象も、立派な情報さ」

 一心はいったい何がしたいのか、大した意図などなく、本当に気を紛らわすために、興味本位に訊いているだけなのか――しかしそのときの千尋はなぜか――息を吐くと、ゆっくりと答え始めた。

「考えてる、ずっと――自分が、こんなにも必死に生き延びて、その先に何があるのか、って。初めは生き延びるだけでよかったんだ。けど、だんだんその意味を考えるようになって、周りを犠牲にして、捨てて、僕は何を守りたいんだろう――そんな世界を許せるはずないのに、どうしてそこに居続けようとするんだろうって――でも、答えが出ない」

 それほど多くはないが、そうして語られた千尋の言葉を、一心は黙って聞き続けた。

 こんなことを誰かに話したのは初めてかもしれない。表情や言葉には見せない、激しい苦痛を抱える一心の醸し出す空気がそうさせたのかもしれない――。

 そして一心は、

「そんなの、わかりきったことじゃないか」

 そう言った。

 吐き出した思いを簡単な言葉で返され、千尋は思わず熱くなった。

「どうわかりきってるのさ? この状況をつくったのが自分の親なのかもしれない。それどころか、この国――なんなら世界なのかもしれない。そんな中でどうやって――」

 しかし一心もまた、

「千尋君、世界ってなんだ? 国か? 政府か? 俺たちの世界は思ってるより小さいよ。気の合う仲間、恋人、なんでもいい。それが守れればそれでいいんじゃないか? その中で生き延びて、幸せを与え合えれば、人なんてそれで十分だろう」

 苦しいはずなのに、その言葉が強い熱を帯びていく。

「――ただな、それに気付けないと、後悔が残る」

「………」

 そこでやっと、一心は体から力を抜き、体を傾けて段ボールの床に肘をついた。

「憧れの、先輩がいたんだ」

 そう語り始めた一心の表情は、とても柔らかだった。

「志賀さんっていってさ、新聞社時代に世話になった人で、とても魂の籠ったルポルタージュを書く人だった。つばさ――ああ、初めて会ったときにカメラマンの女の子がいただろ? 〝立風つばさ〟っていう、あいつもそのときの後輩でな――」

 少し上を向き、昔を懐かしむように続ける。

「その人がフリーになるとき、『一緒にやらないか、って?』誘ってくれてさ、迷わず弟子入りしたよ。嬉しくて、早く認めてもらいたくてなぁ」

 千尋も、黙って耳を傾ける。

「志賀さんは『大共鳴』に隠された真実を追っていた。当然俺もそれを追って、昼夜問わず街中を駆けずり回った。この場所こそ俺の戦場だ! ペンこそが俺の武器だ! って具合にな――そうして俺は、あの大災害が〝国によって引き起こされたんじゃないか〟って、ネタに辿り着いた」

 変わらず一心の顔色は良くない。しかし、その言葉に力が入る。

「興奮したよ。本当だったら大スクープだ。志賀さんもきっと喜んでくれると思った。けど、それを伝えたら志賀さんが言ったんだ――『ここでやめとけ』って」

「………」

「耳を疑ったぜ。これだけのスクープを水に流すのか、国の犯罪を見逃すのか、ってね――だから、志賀さんが止めるのも聞かず、取材を続けた。その頃、巷じゃ『狼男』が騒ぎになり始めてて、繁華街の聞き込みなんかは危険な状態だった。あの日も、俺はしつこく止める志賀さんに切れて事務所を飛び出してな、結局俺は手ぶらで帰ったのに、俺を追ったはずの志賀さんは、帰ってこなかったんだ――」

 一心は小さく拳を握り、

「結局、『狼男』に襲われたチンピラを助けようとして巻き添え食ったって話だったよ。本当かどうかはわからんがね」

 そう、寂しげに語る一心に、千尋が訊ねる。

「それなのに、なんで今も事件を追い続けてるの?」

 その問いに、一心は胸ポケットに差した万年筆に触れながら答えた。

「――知りたかったのさ。俺は、〝自分の世界〟を守れなかった。だから、その事件の真相を知って、志賀さんがなぜ俺を止めようとしたのか、その〝想い〟をちゃんとわかって、それだけは守りたい――このペンで、〝想い〟を守るために戦い続けようって決めたんだ」

「それで……わかったの?」

 一心は下を向き、

「全然わからん!」

 と、顔を上げて破顔してみせた。そして、そろそろ体もそうしているのが限界だったか、ごろりと横になり、天井を見上げる。

「――一つわかったとしたら、『真実に何かを求めるな』かなぁ」

「……?」

「俺はさ、真実には〝正義〟があると思ってたんだよ。でも、そうじゃなくて、真実は真実でしかなく、他には何もない。それに意味を与えちまうのは、それを知った自分なんだ。俺はそれをわかってなくて、自分の世界を壊しちまった――世界のために戦ってるつもりで、自分の小さな世界を守るためには戦ってなかったんだなぁ。もしかしたら君の事件も、誰かが、自分の世界を守ろうと戦った結果なのかもしれない――」

「それって――」

 千尋が、最後の言葉に腰を浮かせたが、

「――いや、憶測で無責任なことは言えないな、忘れてくれ」

 一心はすぐにそう訂正し、弱々しい手でポケットのシガレットケースから煙草を取り出した。

「……俺はいつも中途半端だよ。真実を知り、それをどう扱うか。もし罪なら、見なかったことにするのか、見て、それとしっかり向き合うべきなのか――どうにもまだ上手くできん。結局、また間違えちまったみたいだ……」

 そう言って、くしゃりと煙草を握り潰した。天井を見ていた目はそこでは何か、いや、誰かを思い浮かべていたのか、悔しさに溢れ、それを気付かせまいと無理矢理に閉じられたように見えた。

 そして、沈黙が落ちた。

 気付くと、晶も今の話を聞いていたのか、体を千尋たちの方に向け、膝に頭を埋めていた。

「自分の世界……〝想い〟を、守るために戦う――」

そう、手に晴の血晶を握り締めて――。

 そして何かを思ったか、立ち上がり窓の外を見て――そこに、あるものに目を見開いた。


 窓から少し離れた工場の敷地内に、黒くて丸い、何かがいた。


 直径一メートルくらいの毛玉のようなものから生々しい手足が生えている。顔は無く、それがあるはずの場所からは、何かくちばしのようなものがまっすぐ伸びている。

 それは空中をまさぐり何かに触れると――パリン、と何か・・を割った。

「〝エルズ――〟」

晶は急ぎ使い魔を呼び出そうとして、頭上に悪寒を覚え、ゆっくりとそこに目を向けた。工場の屋根に、五十センチメートル程の隙間が空いており、そこから、少女が顔を覗かせていた。

「見ぃつけた♪」

 少女はメキメキとトタンの屋根を引き剥がすと、その艶めかしい裸体に繋がった、蜘蛛の下半身を露わにする。

「ひっ――」

 晶の体が硬直する。そこに居たのは、間違いなくカーク・鏑木の使い魔〝メリー・ウィドウ〟だった。

「また私が見つけちゃったぁ。これも〝とうこつ〟ちゃんのお陰だね♪」

「いつの間に……!」

 英子が袖から蔓を伸ばそうとするが、

「あなたはだめ~」

 メリー・ウィドウの半身から噴射された糸が、その腕を体ごと壁に縫い留めてしまう。

「あなた、そんな人みたいな体で使い魔なのぉ? よくわからないけど、アルカナ少ないみたいだし、無理しない方がいいよ~?」

 英子にそう言うと、メリー・ウィドウはかさかさと多脚を器用に動かして、工場内に大きな体を滑り込ませる。そして千尋と一心に目を向けると、

「うふふ、お兄ちゃんが二人も……あれぇ?」

 一心を見て眉をひそめ、小さく首を傾けた。

「あなたって、前会ったお兄ちゃんよねぇ? おかしいなぁ、ちゃあんと毒打ち込んであげたのに、まだ動けるの?」

「おかげさんで、なんとか生きてますよ」

 一心が、なんとか身を起こしつつそう返す。するとメリー・ウィドウは、

「な~んだぁ、言ってくれればいいのにぃ」

 とにっこりと笑い、半身の牙から毒の涎を滴らせた。

 そしてその体躯に似合わぬ素早さで地面に降りると、

「ん~、でもまずはぁ――やっぱりお兄ちゃんじゃない方からかな♪」

 突然、その場で百八十度向きを変え、晶に向かって脚を動かし始める。

「このっ……!」

 即座に千尋が立ち上がり、座っていた道具箱を投げ当てたが、まるで効き目はなく、体を揺らすことすらせずに晶へと迫る。

 晶は――やはり怯えた様子で、壁に背を張りつけたまま身動きが取れない。

 そしてとうとう目の前まで来たメリー・ウィドウに、ダンッと前足で首元を抑えつけられてしまった。

「はぁい、お注射しましょ~ねぇ~」

 晶は思わず目をつぶる。ぬらぬらと異臭に湿る牙が、その健康的な肢体を穢さんと伸び――その牙が、飛沫を散らせて真横に吹っ飛んだ。

 メリー・ウィドウは、巨大な体をもんどりうたせて工作機械の山へと突っ込む。

 晶が目を開けると、

「柿原さん……!」

 すぐそこに、紅いマントを血晶の拳へと変化させた一心が立っていた。

「子供に手ぇ出すなよ、化けもんが」

「化けもの……私の……こと?」

 小首をかしげ、ガラガラと工作機械を押しのけながらメリー・ウィドウが立ち上がる。

「他に誰がいんだよ! その薄気味わりぃ姿、鏡で見てこい!」

 一心は啖呵をきるが、晶には、目の前の体が立っているのもやっとと言わんばかりに震えている様が見えていた。

 しかし、震えているのは一心ばかりではない、

「あんたなんか……」

 メリー・ウィドウも肩を震わせ、

「あんたなんか、お兄ちゃんじゃないいいい‼」

 そう叫びあげると、錯乱したように一心に飛び掛かった。一心は血晶の拳を合わせて防御姿勢をとるが、メリー・ウィドウは叫び声を上げつつ、構わずその上から蜘蛛の足で滅多打ちにする。

 削れ、飛び散る紅い血晶――その様子を、目を見開き、間近で見る晶は――、

「わたしも、守る……」

 拳を強く握って、

「……〝想い〟を守る‼」

 震える自身の足を殴りつけた。

「負けるもんか!」

 何度も、

「負けるもんか! 負けるもんか!」

 何度も殴りつける。

「負けるもんかああああ‼」

 そして強く一歩を踏み出し、がぶりと手の甲を噛み破った。

「エルズバアアアアン!」

 同時に巨大な血晶が弾け、甲殻の斬光が閃いた。

 メリー・ウィドウの体がのけ反り、その体液が宙を舞う。それを浴びつつ、赤い甲殻の戦士が剣を引き絞る。

 メリー・ウィドウは、瞬時にその場を跳び退り距離をとったが、

「……ひどいよぉぉぉ」

 その顔は恐怖で歪み、涙でくしゃくしゃに濡れていた。

「カークは……近くにいるのか?」

 息荒く一心が訊ねるが、メリー・ウィドウは、

「……うぅ……ひっく……もう遅いよ。私にこんなことして、お兄ちゃんがぜったい許さないから……四凶しきょうちゃんたちに言って、結界だって、何だって、ぜぇんぶ壊しちゃうんだから……」

 そうしゃくり上げながら、後ろ向きでカサカサと多脚を動かし、凄まじい速さで入ってきた天上の穴から逃げていった。

 その捨て台詞に、千尋が急いで窓の外を見る。

「……そんな……」

 そんなはずがないと、千尋は目を疑った。

 音などしなかった。それなのに、そこに在ったはずの街並みが、まるで姿を変えていた。

 平ら――車も、家屋も、ビルも軒並み消え去り、ざっと数百メートルにわたり、ただ平らな地面が広がっていた。そしてそこには、先程晶が窓の外に見た、黒い毛玉の化け物と、それに加え、同じような青い魚の面を被った化け物、白い毛玉に紅い獣の面を被った化け物が、数百、数千と蠢いていた。

「なんだこりゃ……」

 千尋の傍に寄り、同じく窓の外を見た一心が呻く。

 見ていると、化け物たちはその間にも分裂を繰り返し、数を増やしているようだった。

「柿原さん、あれ!」

 そしてその最奥に、千尋は人のシルエットを見た。

 黒いハットを被った、紫色の影――。

「カーク……鏑木――」

 そう呟いた一心は、千尋の肩に手を置くと、

「――俺がやる」

 そう言った。

「……無理だ」

「やらせてくれ。今度こそ、ちゃんと戦いたいんだ。〝自分の世界〟を守るために」

 その決心は固い、もう何を言っても譲らない――一心の目が、そう告げていた。

 一心は振り返ると、

「晶ちゃん、君はここで英子ちゃんと千尋君を頼む。逃げられそうになったら逃げてくれ」

 そう言った。その提案には一心自身についての言及がなく、晶は何か言わねばと口を開くが、その意気に飲まれ言葉が出ない。

 そしてもう一度千尋の目をまっすぐ見つめ、

「やれるとは言わん――けどやれるだけやってみる。そのあとはどうするか、君が決めろ。守るのか、捨てるのか、〝君の世界〟に対して、君が決めるんだ」

 そこには、毒に侵された自分を見限る打算があるのかもしれない。しかし、それでも、一心はその中に懸けたいものを持っている――千尋はそう感じ、

「わかったよ」

 しっかとうなずいた。

 すると一心はにこりと笑い、

「ぃよっし‼」

 と血晶に覆われた拳をかち合わせ、窓を破って表に躍り出る。そして片手を上げて空中に血晶体を作りだすと、

「アエロ‼」

 紅い光が弾け、虹色の翼をもつハーピーが姿を現した。

「一心……」

 アエロは全てを悟っているのか、悲し気な表情を浮かべるが、

「残りのガス的に、もう一人しか呼べんからな、それならやっぱお前だろ」

 と笑う一心に、

「だね」

 と、眉を歪ませつつも笑顔を返す。

「そんじゃ、いい風頼むぜ‼」

「はーーい‼」

 アエロが翼を広げると、その周囲を金糸雀色の風がそよぐ。それは次第に強さを増し、激しさを増し、嵐となって前方数十メートルの怪物たちを吹き飛ばした。

「よし! 道ができたな――アエロ!」

 一心が宙に浮かぶアエロを見上げる。もう、一心の力ではその存在が保てないのか、アエロの体が次第に血晶に変わっていっている。

「――お前は〝つばさ〟じゃなかったけど、結構楽しいやつだったよ」

「――うん、あんたも〝バルド〟じゃないけどいいやつだった」

「もし――俺が消えたら、お前はどうなるんだ?」

「別に。ただ〝契約〟が切れるだけ。あ、そうだ――」

 アエロは優しい笑顔を浮かべ、

「〝つばさ〟、大丈夫だと思う――なんて言っとく?」

「んじゃ――金は返せないから、つけといてくれって!」

 一心も同じ笑顔を返した。

 アエロはにこりとうなずくと完全な血晶となり、赤い粒子と化して消えた。

 一心はその最後の一粒が消え去ったのを確認すると、一度、僅かによろけたが、「ふんっ!」と足を踏ん張り直し、両拳を握って力を込める。すると血晶のマントが大きく広がり、巨大な二本の戦斧を作り出した。そして、

「うはははは! 〝志賀さん語録その〟――いくつだったか忘れたが、『忘れるな! 俺はいつでもかっこいい‼』」

 そう叫びあげ、怪物の群の中へと突貫する。

 対して、怪物たち――〝とうこつ〟、〝こんとん〟、〝きゅうき〟といった四凶たちの群が、まるで怯むことなく波となって一心を飲み込もうと覆いかぶさった。

 だが――、

「うおりゃあああああ‼」

 紅い戦斧の一振りが、一瞬にして数十という怪物たちを消し飛ばした。

「どんどんこいやあああ‼」

 さらに一閃、一気に怪物の絨毯が削れ、下の地面が露わになる。

 一心はさらにさらに戦斧を振り回し、まっすぐ、まっすぐ、怪物の群を消し飛ばしながら進んでいく。その瞳に映るものは、ただ一つ、紫の死神の影のみ――。

 

 一心の戦う様子を、廃工場から見ていた千尋たちは、握る手に力を込めつつも驚愕した。

「すごい……」

 平地をほぼ埋め尽くし、あれだけいた怪物たちがみるみるうちに数を減らしていく。

 とても先程まで毒に臥せっていたなどとは思えないその迫力は、まさに人の形をした紅い戦車のようであった。

 だが、しかし――。


 ひと薙ぎ――怪物たちが吹き飛んでいく。もうどれほど倒したかわからない。

 もうひと薙ぎ――それでも、やはり怪物は湧き、立ちふさがり、恐れる心などまるで持ち合わせていないかの如く、無限に襲い来る。

 それでも、紫の影には近づいている。近づいているのだ。やつは動いていない。じっとこちらを見ている。恐れをなしているのだ。あれを、倒すのだ。

 苦しい、もう息をしているのかもわからない。それでも斧を振るう。戦い続ける。今度こそ、間違わずに・・・・・、最後まで――。

 だが、怪物たちを斬るたびに、その血晶は小さく蝕まれていく。

 そうなのだ。この怪物たちは、その存在自体が死と、混迷と、悪意の体現なのだ。

 それでも、もうひと薙ぎ――刃がひっかかる。

さらに、もうひと薙ぎ――もう、腕の感覚がない。進んでいるのかさえもわからない。

だが、まだ影は見えている。間違いなく、見えているのだ。きっと、近づいている。

(ああ、きっついなぁ……俺はなんで……)

 もう、ひと薙ぎ――。

(……そうか……そういうことなのかもなぁ)

 そして、振られた刃は――。


 千尋が、晶が、英子が見つめる中、遠くで紅い光が爆ぜた。


 数百メートルにわたり広がる平地、そこにもう、四凶たちの姿は無い。

 しかし、そこには一点、最後にのこった如何ともしがたい染みのように、紫の影が立っていた。

 微動だにせず立ち続けていたカークの手前、距離にしておよそ数メートル――そこに、小さな紅い血晶が転がっていた。

 カークはそれを冷たい目で見下ろすと、指先でつまむ。

 ぽつり、と地面に小さな点が描かれた、一つ、二つ、それは次第に数を増していき、ザァザァと音を立て始める。

「雨――か」

 血晶を握り、カークが空を見上げる。雨の中、黒い空がいつの間にか白みを帯び、朝を迎えようとしていた。

 そして視線を下ろすと、遠く、薄汚れた廃工場の前に男がひとり、立っていた。


「千尋君! 無茶よ!」

「神名さん!」

 廃工場から飛び出た千尋を、英子と晶が追おうとする、しかし千尋は無言で振り向くと、その視線だけで「手を出すな」と二人を押しとどめた。


 そぼ降る雨をはじき、一歩、一歩、千尋が進んでいく。

 カークはその様を、やはり動かずにじっと見ていたが、やがて、

「神名千尋ぉ! 『財団』から聞いたぞ! 確かそういう名だったなぁ!」

 そう、遠くから叫んだ。

 しかし千尋は答えず、立ち止まることもなく、ただまっすぐ前に進んでいく。

 カークの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。そして右手を胸に掲げると、そこに血晶のナイフを作り出した。その手が、一瞬消えたかと思う程に早く振られる。

 ボッ、と空気を貫く音がして、千尋の頬をナイフが掠めた。

 ぷつぷつと血の玉が浮かび、それが頬を流れ落ちる。

 だがやはり、千尋は歩みを止めない。

「千尋!」

 堪らず英子が外に飛び出す。

「――おっと」

 さらにカークの両腕が消え、

「うぐぅっ‼」

 英子の両腕、両足に四本の紅いナイフが突き刺さり、英子がその場に膝を突く。

「あいつっ!」

 それに激高した晶が、窓に手をかけるが、

「……っ⁉」

 その指の隙間に二本、正確にナイフが突き刺さる。

「……オレはなぁ、〝ライヒル〟だ。遠投が得意なんだよ」

 そう呟いたカークの顔には、今や、明確な笑みが浮かんでいた。

 千尋は――英子の崩れ落ちる音にぴくりと肩を揺らしたが、それでも止まらずにカークへと歩を進める。

 それを見たカークは、

「いいだろう――」

 さらにばららと、両の手にナイフを生やした。

「千尋ぉ、〝力〟が使えないようだなぁ! せっかくだ! オレも使い魔無しで相手してやろう!」

 鋭く空を切る音が二つ。

 同時に、千尋の右肩が跳ね上がり、左腿ががくんと動きを止めた。

「……っ」

 しかし、それでも、千尋は足を前へと運ぶ。

 その表情は、雨に濡れ、目深にかかった前髪でうかがい知れない。

 さらに放たれるナイフ――。

 さらに跳ね上がる左肩――しかし、千尋に刺さるナイフの数が一本少ない。

 見ると、右肩に刺さったはずのナイフが、数メートル後ろの地面に抜け落ちていた。

「――ほぅ」

 その傷口に、紅い輝きが見えた。気づくと頬の傷も消えている。

「いいじゃないか」

 カークは目を見開くと大きなモーションでナイフを振りかぶり、渾身の一投を放った。

 キィィンッ――と、澄んだガラス質の物体同士が衝突するような音が響き、それが弾かれる。弾いたのは――千尋の左腕を覆った血晶の鎧だった。

「……千尋」

 ぬかるんだ地面に頬をつける英子が、その姿を見て思わず名をこぼす。

「……おぉ」

 千尋の口からも、音が漏れた。

 歩むその足が、力強く踏み込まれる。

「ふっ」

 カークがナイフを投げ、

「おぉぉ……」

 またもやそれを千尋の血晶が弾き、

「ふはっ!」

 さらに数本まとめて放たれたナイフが、

「おおおお!」

 雄叫びを上げ、一気に全身に纏った千尋の血晶に全て弾き落とされた。

 もはや、千尋の歩みは速度を上げ、駆け出している。

「ふはは! いいぞ! 神名千尋ぉ‼」

 尽きることはないのか、カークのナイフがそれを迎え撃つが、しかし、千尋はそれをもろに体に受けつつも、構わずカークに向かって真っすぐに突っ込んでいく。

「ふはは! ふははははは!」

 ナイフの猛攻が千尋を襲い、さすがにまだ完全に力が制御しきれていないのか、千尋の血晶が次第にそれに削られていく。

 それでも千尋は走り続ける。

 カークの笑い声と、千尋の血晶が削れる音だけがその場に木霊し、縦に降る雨と、横に降るナイフの雨が激しく交差する。

「ぐぅっ……‼」

 ドシャリとぬかるみが飛沫を飛ばし、千尋が倒れ込んだ。とうとう血晶の一部が剥がれ、右脚を深々と数本のナイフが貫いたのだ。カークまでの距離は、あと十メートルはあるか。

「どうした? 神名千尋」

「………」

 答えぬ千尋を、カークが冷たい目で見下ろす。

「一応、聞いといてやろう――〝イージア〟はどこだ?」

 しかし千尋は答えず、再び立ち上がろうとしながら、カークに強く視線を返すのみ――。

「……そうか」

 カークは静かにそれだけ言うと、千尋の眉間に狙いをつけて右手のナイフを振りかぶった。

 その手が、振り上げられたまま止まった。

 千尋の目がにわかに見開かれる。

 カークの首筋に、紅く、細い針が当てられていた。


「――私はここだよ。カーク・鏑木」 


 いつ、現れたのか――その針を握るのは、血晶を纏った黒髪マリエだった。

「本当に、記憶でこんなこと・・・・・ができるんだな」

 マリエが静かにそう言うと、

「ああ、そうだ。お前は静殺の〝イレイカ〟で、暗器が得意だった」

 カークもまた穏やかにそう答える。

「思い出したんだな、〝イージア〟」

「……ああ、そうなのかもしれない」

 答えるマリエが握る針は、それでもカークの喉元にしっかりと当てられ、下ろされていたカークの左手に握られたナイフは、後ろ手にマリエの脇腹に当てられていた。

 いつの間にか弱まっていた雨が、二人をそっと包みこむ。

「一緒に行こう、〝あの世界〟へ」

 カークが言った。

「イージア、お前にしかできない。オレをこの世界から解き放ってくれ」

「………」

 しかし、マリエの口も、針も、動かない。

「――怖いのか?」

 小さく、マリエの針が揺れた。

「大丈夫だ。オレが受け入れてやる。お前の全てをオレは肯定する。オレは――」

 カークは、この世に生を受け、意思を持つと同時に頭の中にあった〝異界の記憶〟を改めて思い起こした。それ故に世界に孤独を感じ、その救いを求めて愛した〝記憶の彼女〟の姿を、閉じた瞼の裏に思い描いた。その彼女に届けんと書いた、何百という曲を頭に奏でた。その彼女が、今、ここに――。

「ずっと、お前に会いたかった」

 その強い言葉に、マリエは静かに、長い息を吐く。

「――たった一瞬だったがな、確かにお前は私の心を動かした。お前はそれほどの力を持ちながら、その心は人であろうとした――それでも、お前もまた、あの〝悪夢のような姿〟になるのか?」

「このままではな。だが、それでもオレの愛は変わらない」

「すごいな、お前は――」

 マリエが目を閉じる。

「ならせめて、お前は人のままでいてくれ」

 そう言って、ゆっくりと、カークに針を差し込んだ。

 そして、

「それと、私も連れて行ってくれ――少し、疲れた」

 その言葉と共に、カークのナイフが静かにマリエの体へと吸い込まれた。

 マリエの膝がかくんと折れ、カークは振り向きざまにそれを支え、ゆっくりと横たえる。

 当然、その喉元に針は刺さったままだ。そしてカークは宙に血晶体を描く。

「アマデェェウス!」

 呼び出されたアマデウスは一瞬だけカークを見たが、何事もないかのように黙って座っていたピアノから降りた。

 カークもまた、特に言葉を口にすることなく空いたピアノの椅子に座り込む。そして鍵盤に手を置くと、

「近くに来い、神名千尋」

 そう言った。

 千尋は体を震わせて立ち上がると、よろけつつも歩き、静かに眠っているようなマリエの前で膝を突く。カークはそれを見てから、

「彼女をおくる。そこで聴いていけ」

 柔らかに、曲を奏で始めた。


 雨の中、静かに、優しいレクイエムがとうとうと流れる。

 葬る者たちが取り憑かれていた、黒い恐怖や孤独を、その音で清らかに洗い流していくように――。


 そうして最後の一音の響きが消えたあと、カークは千尋を見た。

「千尋――お前もまたオレと同じ、この世界で異界を見続けた目をしている」

 千尋もまた、そんなカークを見ている。

「お前の目はいい。苦悩に疲れた目だ。それは生きようとしたメロディだ。お前も、さっきの男のように、最後までお前の演奏をしてみせろ」

 そしてカークは、コートから携帯デバイスを取り出すと千尋へ放った。

「ロックはかかっていない。そこに『財団』の場所と、アクセスコードが入っている。教えてやるよ。〝八つめの石〟がそこに在る。俺はそこで、自分の運命を見た。運命は繋がっている――全て――こうしてオレは、それを証明してみせた――」

 そう言いながらカークはピアノに突っ伏し、その体は、横たわるマリエの体と同時に紅い光となって砕け散った。

 それを見届けたアマデウスが、

「私が消えるまではまだ時間がありそうね。彼は私が葬るわ」

 と、ピアノに座り、再びレクイエムを奏で始める。

 千尋は目の前に落ちたデバイスを拾うと、一緒に、傍に落ちていた三つの血晶を拾い上げた。そして少しだけアマデウスの奏でるピアノの音に耳を傾けてから振り向くと、少し離れた所で呆然と立つ晶の姿が目に入る。

 千尋は足を引きずりながら晶の前まで歩き、

「これは君が持ってて」

「……千尋さん、どうするの?」

「僕は、彼の言った〝運命〟っていうのを見にいくよ」

 そう言って、晶の手に血晶を乗せ、背を向けた。


 そんな「器」たちの様子を、遠くから、泥まみれの英子が地面に座り込んで見つめている。

 不意に、その周囲に蒼黒い霧のようなものが集まり、それに気づいた英子が目を向けた。

「――〝あなたの分〟は終わったわね。上手くいったのかしら……?」

《……おそらくな。お前ももうすぐだ、セルディッド》

 霧から流れるその声は、マリエの使役していた〝死獣〟のものか。

「ええ……でも、仕方ないわ。世界には、これが必要なんだもの」

《ふん、何を――〝我らには〟、であろう?》

「……そうね」

 英子は雨に濡れ、冷えた自身の肩を抱く。

「そうだったわね――」

 その指が、肌に食い込む程に――。

 

 そして未だ降りやまぬ雨の中、レクイエムは流れ続ける。