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LORD of VERMILION IV小説 LORD of VERMILION IV‐ O Brave New World ‐

write : 浅尾祥正

第8章

素晴らしき、新世界へ

 〈rest phase〉


 それは何処の空間か。

 大気か、果たしてそれ以外の何かなのか。どろどろとした水のような、気体のような、一切の光の存在を許さないと思わせる、悍ましい暗黒の束が空間いっぱいにうねっている。光が無いのに存在がわかり、存在があるのに虚無を感じる――生あるものであれば、それを目にするだけで誰もが魂に不安を抱く、そこはそんな空間だった。

 その空間の一角に、三つの声が木霊した。

「さぁて、いよいよクライマックスだぜぇ!」

 一つは、調子はずれにやさぐれた男の声。

「ヒッヒ、うるさいよ、バン坊。」

 一つは、嘲り笑うしわがれた老女の声。

「そうだぞーバンなにがしー。たまには普通に会議始められないのかー」

 一つは、感情の薄い少女の声。

「何某ってなんだよ! お前ら二人とも何某ドレイルじゃねぇか!」

「ヒッヒッヒ、興奮しちゃってかわいいねぇ。そんなにあたしの声が聞けるのが嬉しいかい?」

「ヒグーばーちゃんの方がかわいいぞー。セクシーだし」

「いやん、ポーったらん♡」

「ったく、なんだよこの入り……はーい、仕事中なんでふざけた私語やめてくださーい」

 交わされている会話はひどく軽い調子だが、姿なく漂う声たちは、その持ち主の怪しさと不気味さを十分醸し出している。

「とにかく計画も最終段階なんだからよぉ、もちっと緊張感持って臨もうぜ、ってなことで、とりあえず『マルクト案件』以外からなぁ。はい、ポー、お前担当の〝ミラーリング〟関係はどうなってますか?」

「あー、色々大変。てかダメくさいねー」

「ダメってなんだよ?」

「結局『刻印計画』じゃ〝緋焔の王ロードオブブレイズ〟は誕生しなかったなー。紅蓮の王の次元を起点に、過去未来含めて色々実験したけどさ、ばあちゃんにお願いしてたコピーワールドも全部ダメ。『黙示計画』もさー。やっぱ〝紅蓮〟は複製できないんじゃないかなー。せっかく入手した『case・NIDO』と『case・LICEA』はほとんどおしゃかちんになっちった」

「なっちった――じゃねぇよ! どうすんだよ! 上になんて報告すんの⁉ はぁ~お前ら、つっかえねぇなぁ~」

「ほー、さいですか。言ったねバンくん。そんじゃお次は、今やバンくん担当主任『マルクト』の現状報告してみよっかー」

「万事順調です。粛々と進行しております」

「うっそつけー」

「あぁ?」

「えーと、ほい。ここに報告資料あるもんね。ぜーーーんぶ読み上げちゃうぞー」

「ヒッヒ、読んだろ読んだろ、ぜ~~~んぶなぁ~」

「お、おう、読んでみろ! オレちゃんの素晴らしいご活躍をよ!」

「ふぇー、よゆーだねぇー。ではまず――うん。ブラウニーたちは地味に効く・・動きしちゃってるねー。マナ樹の〝大本〟見つけてあちこち枯らしまくってる。お陰で共鳴純度が一割は減ってるよ。これでマナに敏感なポポまで合流したら目も当てられないねー。まぁ、あれは今別次元にいるからダイジョブだとおもうけど――はい、ばーちゃん」

「あいよ。え~、昔っからなにかと暗躍しとった〝ラムウ〟の計画は失敗に終わったようだねぇ。あんだけ長い時間かけて仕込んでたくせに、あの可愛い顔したレムリアの王子たちもすっかり元通りに戻っちまったみたいだ。まあ、所詮あのじじいは『パトス』の器じゃなかったっちゅうこっちゃね。ただ、パトスと言やぁ、〝オーディン〟は侮れないね……下手したら既に〝二十二〟の内一つを持っちまってる可能性もある。その為に息子も何も関係なしに利用すんだから――ヒッヒ、ちょっとタイプ♡ ほれ、ポーちゃん」

「ほい。オーディンといえば、ベストラたちヨトゥンだね。ベルゲルミルと合流した結果、一緒にいたエルフの血を引くシャーマンのツテたどって、ドルイドとかそこらへんの森っぽい奴らと共闘することにしたみたい。そんでオーディンが下手に『運命の樹アルカナセフィーロ』に介入しないよう牽制してるっぽいねー。別にそんなことしなくても、こっちがぐっちゃぐちゃにしてやっけどさー。わっはっはー。あと、虚無空間に閉じ込めてたワルキューレたちは、ジークフリート共々オーディンにしっかり回収されちったね。……ファーヴニル、あれ〝仕込み〟だったんだろ? 使うならちゃんと使ってやれよー、バンくんよー、で、ばーちゃん、パス」

「あいさ。役小角ちゃんが率いてる陰陽師たちは、おや、変な動きしてるねぇ……。創世側はおろか、あたしたちにも、鎮護国禍にもついちゃいない。こりゃあ間違いなくなんか企んでるんだろうが――どうやら、本当に天草ちゃんたち〝魔界衆〟と組んだのかもしれないよ……くぅ、天草ちゃん……あの子、本当にうちに欲しかったのに、バン坊にあのカリスマが、あの子の爪の垢の切れ端くらいでもあったらねぇ……。おん出た小次郎ちゃんも、結局決闘のあげくに宮本武蔵を連れ帰ったってんだから、たいしたもんだよ。魔界衆、あれの狙いは未だにわからないのが不気味さ、最後まで目を離さない方がいいね」

「んじゃあたい、〈夢の世界〉関係ね。あそこは、あたいらでも手が出しにくい超高次元にあるからやっかいなんだよねー。前のアレで〈夢の管理人〉降ろさせることができたからさ、『錬金の紳士同盟』使って〈夢の世界〉を乗っ取りかけるってとこまでは良かったけど、まぁ、失敗だったね。結局は〝三人のアリス〟全員が管理人ってことで収まっちゃった。東京にある『要石』とかいう〝疑似アルカナ〟さ、根っこはもともとあの錬金術士どもが作ったんだから、あの力場の中なら上手くやれるはずだったのにねー。まぁ、ありゃ〝帽子屋さん〟にしてやられたって感じだねー」

「んあ~、あとは~、ほうほう。押上で〝アスガルドの獣たち〟とやりあった悪魔どもは痛み分けたみたいだね。あの獣たち相手なら、まぁよくやったんじゃないかい? そこに〝まん中の妹〟はおらんかったみたいじゃが――まぁ、あれの動きはバン坊が一番よく知っとるじゃろ? ただあやつは、創世の側で動いとるように見えて、その実、魔界衆と同じで何が目的かはっきりとしないとこがある。実際、今回一番の注意どころなのは間違いなしじゃな」

「…………………」

「どしたの、バンくん?」

「……っぷはあああ! なんだよ! 緊張して息止めて聞いちゃったよ! ちっせぇ失敗はチョロチョロあるけどよ、なんだかんだ言って概ね悪かねぇじゃねぇか! いや~やっぱオレってできる『混沌の使徒』だわ~、オメェらとは全然違うわ~、福音授かりまくっちゃってるわ~」

「だとさ、ポーちゃん」

「あっそ、んじゃこれいってみっか。〝『贄』計画〟ね」

「……あ、それ、見ちゃう?」

「見ちゃう。えーとなになにー。うわっ、ひでー。〝魔女と聖獣の姉妹〟、これあたいの用意した『贄』のプロトタイプだよね? 試作の処理はバンくんの担当でしょ? 種族の垣根を越えちゃった精霊たちに助けられて、しっかり『贄』のシステムループから抜けちゃってんじゃん」

「ほあ~、これもそうじゃ! アマゾネスの姉ガキ! あたしがせ~っかく『贄』に仕込んでやったのに、バン坊がとっとと『器』集めないから、結局、あのあたしよりちょびーっとだけ可愛い『器』のスポーツ女子高生に全部ご破算にされちまったんだ! 今や家族全員集まって、アマゾーン島メンバー全員集合大狩り祭りの真っ最中じゃよ!」

「ああ、これ、ボニーとクライドも失敗だねー。前にバンくんがお気にで使ってた〝ビリーなんとか〟? アレ生きてんじゃん。最後へこへこやってきたアレのせいで『贄』ならずだよ。結局ワイアットもトラウマ晴らしていなくなっちゃうしさ。次からはちゃんと消滅確定申請書出せよなー」

「む~~、ヤオヨロズどもに関してはいいとこまでいったみたいじゃね。けどあくまで〝いいとこ〟、まで。ほぼ『贄』化したオオクニヌシを消滅させるならと、あのオオモノヌシがヤオヨロズ全神に喧嘩ふっかけて大立ち回り、ぼろっぼろで消滅しかけてるくせに言ったのは「やめて欲しかったら相方助けろ」ってんだからねぇ。思い切った行動するよ。結局はオオモノヌシの粘り勝ち、すべて丸く収まって、今はアマテラス指揮のもと、全ヤオヨロズが一枚岩じゃ。さらにはヤマトタケルを先陣に、みんなしてあたしらの〝本体〟があるこの空間探してるよ。ヒノカグツチも失敗じゃったし、失敗は失敗さね」

「結束したといえば〝冥府組〟もだねー。あっこの分断作戦も大失敗。めったにないヘカテーの〝激怒〟とペルセポネの〝涙〟でエンプーサの『贄』成分ふっとんで、仲悪かったペルセポネとヘカテー握手とかさー。なんやかやとアレクト―まで合流して、結果がっちがちの一枚岩だよー。ほーんと、『贄』は失敗だらけのだらだらけ。〝吸血鬼〟たちのやつも相打ちで失敗だし、アポロンたちも最後の最後でお互いわかり合っちゃってやり合わないしー。ラーたちが、混沌うちにアポピスやられてマジなやる気出しちゃったのも、『贄』きっかけだろー? ギリメーカラなんか『贄』どころか〝せっきょー〟で心きれいにされて三蔵たちと一緒になってあたいらと戦ってるじゃん? 特にアルラウネを『贄』にしてロードに食わそーとかさ、アレ、本気のマジでやってたの? しかもこんだけ『贄』計画失敗しといて、あげくの果てには〝失敗隠蔽〟だもんなー。頼朝くん、アレさ、『贄』にならなかったからってバンくん勝手に作戦変えたでしょ。『守護者狩り』とかさー。狩る相手違うじゃん。結局最後は弟くんの嫁さん出てくるわ、源氏軍団総出だわで止められちゃってさー、そもそも管理がてきとーなんだよなー。やることは初志貫徹、しっかりやんなきゃ。いそがしーいそがしーって、別の仕事に逃げて仕事した気になってるてんけーてきなパターンだよなー」

「あ~、確かに肝心なとこで抜けてるねぇ、バン坊は。あれだけあたしが言ったのに、〝かまいたち〟の三男坊も処理しないからさ、終いにゃあの子をきっかけに妖怪どもがまとまっちまった。兄弟三匹、喧嘩別れの末にそれぞれ仲間まで引き連れて、これからお互い潰し合ってくれんのかと思った矢先さね、とーつぜん出てきたあの『一つ目小僧』だか『からかさ』だかの娘っこにほだされちまって、今やあの娘を臨時頭領に〝大百鬼夜行〟だもんねぇ」

「いやいや、ばーちゃん。『バンくん後始末さぼってたシリーズ』ならやっぱアレでしょ。全世界侵食してる『教会』に対抗して、世界規模の武器売買ネットワークとか作って何すんのかなーと思ったら、全部てめーの〝女のため〟だったっていう〝あいつ〟。とんでもねーよなー。結末は、元通り女二人分の魂を一つの体に〝完全定着〟させて解決したんだっけかな? ついでに〝ベスレム〟まで持ってかれちゃってさー。そんで今や、そのネットワークがごそっと東京で正式発足した『学会』に入れ替わって〝裏〟の一大組織だもんな。でもヴィクターとダペルトゥットの技術組み合わせて見つけたっていうその『魂の結合法』、アレはすごいよ。ぜひうちにも逆輸入したいねー」

「あ~、あと『五影剣』もあったじゃろ? なんじゃったっけ……そうじゃ、〝ポルタ〟じゃ〝ポルタ〟。結局、残りの〝ウィース〟、〝ウェントス〟、〝レナトゥス〟、〝サーナティオ〟が生まれちまって〝アルティメットスペル〟完成じゃ。〝ガラティン〟だけはあの金ぴか鎧の騎士ちゃん探してまごまごしとったが、なんだかんだと結果は変わらんかったしねぇ。それもこれも、使い終わった『五影剣』どもを、ちゃーんとバン坊がお片付けせんかったからじゃよ? もし今回の計画が失敗したとしても、せめてこれだけは防ぎたかった案件じゃったのに……」

「………………」

「あれあれ? どしたどした、バンくん」

「おや、責められ過ぎてしょんぼりかい? ん? チューしてやろうかい?」

「ぶあっ! 寄るなババア! って、今、体ねぇじゃん! つぅかよ、あれだあれ、〝ユダ〟は上手くいったろうが!」

「あー、たしかにねー。でもさ、アレってバンくんの設計ミスだよね? そのユダが〝天使と悪魔の因果〟斬っちゃったから、虚無空間に穴開いてソロモンが外出ちゃったんだよー? そのあとはテンション上がりまくりの〝悪魔さん〟たち率いるどころか、ラファエルやメタトロンたち、天使どもとまで結託して怒涛の快進撃中だもんねー」

「うっ……」

「結託と言えば崑崙の仙人どももじゃよ。太公望の色男が、太乙真人と『黄帝の なみだ』を入れ墨に彫り込んでた百八星どもに作らせた『魂蔵毛こんぞうもう』……だったかい? その宝貝つかって、捨て身の作戦打ちおったからな。お陰で一回死んだ太公望もピンピンじゃ。あたしが苦労して手に入れてやった、かわいいナタちゃんも『贄』になり切らんで元通り、そんで仙人百八傑大連合の誕生さ、おまけに申公豹まで行方くらましおって、あたしゃもうしょんぼりじゃよ……」

「連合ならさー、閻魔大王と白虎が仲介に入って、力を取り戻そうとする〝元降魔〟たちを集めたのもあったよなー」

「あったねあったねぇ。でかいとこだと、ニャルラトホテプが、対立してたウィーユたち宇宙軍口説き落として、まさかの『クトゥルゥ宇宙連合軍』じゃ。変わり種じゃと、〝ぶるーすかる〟とかいうのの魂継いだとかいう、セルキーやら人魚やらの『ブルー海賊団パイレーツ』とかもねぇ」

「それとなんといっても〝機甲軍〟なー。バンくんが、ちゃーんとアルデバランのメモリー処理しとかないから、自我の再構築に成功させちゃった〝中身〟が、ソエルやミーティアと一緒に、機甲たち集め出しちゃって、あっちもこっちもどっちもそっちも、混沌うちの兵隊たちはてんやわんやで――」

「ああああーー! もういいっす! お腹いっぱいっす! ごめんなさいです!」

「な、あたいたちだけじゃないだろ? そんなんで今〝《器》一個〟とかさ、正気かよバンくん。あたいなら恥ずかしくて亜空間永眠カプセルでいますぐふて寝するぞ?」

「じゃなじゃな」

「わーかったよ。けどな、そんな失敗もこれからやる最後の仕上げをしくじらなけりゃ、ぜーんぶ帳消しだ――何もかも、〝無かったこと〟になる」

「――まぁ」

「――そうじゃな」

「んじゃ、四の五の言わず、やるこたぁひとつだな――」

「ん」

「ほほい」


「「「教会に、福音を、だ(だよ)(じゃよ)」」」

 

 そしてまた、三つの笑い声が、異空のうねりに捻じれながら、木霊した。


    * * * *


 彼が初めて彼女にあったのは、大学の教職員食堂だった。そのとき彼女は、よく日の当たった窓際の席に一人座り、当時既に珍しかった、分厚い紙媒体の文献資料を片手にポークカツレツをほおばっていた。

 年若く、着衣はTシャツにスラックス。少しクセのある髪を肩ほどまで伸ばし、無造作に二つに結っている。整った顔立ちをしているとは思うが、化粧っけもなく、どこの量販店でも売っていそうな眼鏡をかけており――どこをとっても、学生にしか見えなかった。大学職員は皆スーツだったし、彼は教授陣の中では格段に若かったので、自分より若い教授がいればさすがに覚えていた。しかし、そこは教職員同伴でもなければ学生が利用できない施設である。彼は普段自前の弁当であり、その日はたまたま食堂を利用しただけだったので、別段放っておいてもよかったのだが、部外者ということであればよろしいことでもない。なので彼は注意するべきか少しだけ迷ったのだが、彼女を見ている内に、むしろ、あまりにも堂々としたその様子が逆に気になり、つい、声をかけてしまった。

 訊ねてみると、やはり学生であった。『波動力学』の研究室に在籍する院生らしく、どうしてここに入ったのか訊いてみると、なんでもこの食堂のポークカツレツが「脳に効く」のだそうで、わざわざ担当教授のIDをくすねて入り込んでいるそうである。つまり、初犯ではないということだ。それを臆面もなく言ってのけるのだから、なかなかに常識がない。

 しかしそんなことよりも、彼はその「脳に効く」に、確かになぁ、と感心してしまった。

 脳の活性食といえば神経細胞ニューロンのエネルギーとなるブドウ糖が有名だが、その神経細胞同士を繋ぐ神経線維を作る為に、良質な動物性の脂質やたんぱく質を取ることは非常に有効だったりする。いくら脳のCPUである神経細胞が優秀でも、それを繋ぐネットワークが無ければ宝の持ち腐れであり、逆に良質な神経線維ネットワークを構築すれば、より早く情報を送り、処理できる――彼女は、そう言っているのだ。

 彼は念のため、解釈の答え合わせを求めると、彼女は、

「あはは、話がわかるね、先生」

 と、大きな口を開けて笑った。

 そのことがきっかけで、彼――グラマン・A・ギルガは、彼女――竹谷三月に興味を持った。

 以来、グラマンは弁当をやめて食堂に通うようになり、彼女を見かけるとランチを共にし、お互いの研究について会話の花を咲かせた。

 グラマンは遺伝学の教授であり、三月とは畑違いではあったが、彼女の多角的な発想は非常に面白く、グラマンに様々なインスピレーションを与えた。三月もまた、他分野の話が大層面白かったようで、グラマンの話に熱心に耳を傾けた。

 そのうち三月は、グラマンが同伴者ということであれば、IDをくすねて食堂に入る必要もないとのことで、事前に連絡を寄越すようになり、いつしか二人は他愛のないことでも連絡を取り合い、気の置けない会話をする仲になっていった。

 

 そんな関係が暫く続いたある日、急遽、グラマンは大学を辞めなければならなくなった。

 白木財閥の抱える『AVAL科学財団研究所』からスカウトを受けたのである。大学に未練はなくもなかったが、その研究内容の魅力には勝てなかった。

 『アルカナ因子』――人類の進化因子と目されるその存在は、遺伝学の世界に噂として囁かれているに過ぎなかった。しかしAVALは密かにその検出に成功しており、それを世界のどこよりも早く研究できるというのである。遺伝学を志し、これ程科学者冥利に尽きることはなかった。

 そうして、新天地におけるグラマンの研究がスタートしたのだが、その解明は困難を極めた。

 今まで培ってきた知識、経験、セオリーが全く通用しない。それどころか、その進化情報を取得、伝達するメカニズムは、単なる生命科学の範疇を大きく超えたものに思えてならなかった。

 アルカナ因子を生体細胞に一定量以上投与すると、確実に分裂の段階でDNAに変化を及ぼした。しかし問題は、その結果たる塩基配列のパターンがまったく安定しないことだった。通常であれば、もともとのドナーが経験した外部刺激、もしくは血縁からくる遺伝情報を元にパターンが形成されていく。それが、まったく予想のつかない配列へと変化するのである。簡単に言えば、「リンゴの無い世界の人間が、初めてリンゴを見た瞬間、それがリンゴだと分かり、味も想像できるようになる」というわけだ。

 ほとほと窮し疲弊したグラマンは、つい、今もまだ連絡を取り合っていた三月に研究のことを話してしまった。

 彼女の口から出た言葉は、意外なものだった。

「中からが駄目なら外じゃない?」

 つまり彼女は、自身の知覚から得た刺激や遺伝による情報取得ではなく、〝完全な他者〟からによる情報伝達の可能性を探れ、というのである。確かに、そんな発想はなかった。しかしそれが可能ならば、全ての辻褄が合う。さすがだと思った。そしてその情報伝達の方法――あらゆるもの、それこそ〝情報〟ですら粒子と捉え、〝壁〟を越えて伝達するメカニズムを解析する研究こそが、彼女の専門である「波動力学」の真骨頂であった。

 グラマンはすぐに三月に共同研究を申し込み、AVALに彼女を推薦した。三月も「面白そうだと」と申し出を快諾し、そうして二人は、晴れて再び、机を共にすることになった。


 三月が参画してからは、研究は思うように進んだ。三月もまた、研究所内でめきめきと頭角を現し、アルカナ因子とは別に、専門である波動力学の分野で研究チームの副主任を任されるまでになっていた。一部では、若くして成功を掴んだ彼女を妬み、黒い噂を囁く者などもいたが、妬みや嫉妬はこの世界の常である。彼女の才能があればそのようなものは些事だろうし、グラマンも負けてはいられないと、たた研究に邁進した。


 そんな折、彼女に呼び出され、研究所を辞めると告げられた。

 結婚することになり、それを期に、とのことだった。

 相手は、と訊くと、幼馴染で、科学とは無縁な物書きと武道をたしなむ朴念仁とのことだった。

 あまりにも突然のことで、グラマンは動揺した。そして、だからと言って研究を捨てる必要があるのか、と糾弾してしまった。あれほど才能に溢れ、科学を愛し、愛された彼女が、なぜそのような選択をするのかまったく理解できなかったのだ。

 しかし三月は、「状況もあるし仕方がない」と、困ったように笑った。

嫌な予感がしたグラマンは、彼女の周辺状況を調べた。

事態は、思いの外ひどかった。

 彼女の研究は、どのラインにおいてもしっかりとした成果を出せていた。それにも関わらず、その研究資金は当初よりも大幅にカットされ、とても結果が出せるような状況ではなくなっていたのである。そしてそれは、彼女の関わる研究ラインでのみ・・起きていた。彼女の才能と起きている状況からして、その理由は明白だった。

 グラマンはひどく落胆した。そしてその落胆の理由が、研究所のくだらない慣習に対してでも、信頼する研究パートナーを失うことに対してでもないことに、彼自身、驚いた。

 彼はそのとき初めて、三月に対する自分の〝気持ち〟に気付いてしまったのである。


 そこで、グラマンが取った行動は意外なものだった。

 彼もまた、結婚したのである。

 相手は、研究所のスポンサーである白木財閥の令嬢だった。

 かねてより、白木の会長に気に入られていたグラマンは、その令嬢との縁談を幾度となく持ち掛けられていたが、そのたびに、機嫌を損ねない程度に返答をごまかしていた。それを、突然受け入れたのである。

 そうして白木財閥の一員となったグラマンは、三月の研究に対する増資を研究所に打診し、それを成し得た。

 三月もまた、思わぬ僥倖に感謝し、研究所に残ることになった。だからといって、彼女の結婚がなくなるわけではなかったのだが、彼女のいつもの笑顔がまた見られたので、グラマンはそれで満足だった。


 これで全てが元通りとなり、全てが潤沢に進むと思われた矢先、今度はグラマンの研究の方に問題が生じる。

 人体に関する生命科学の宿命――人体実験の壁であった。

 理論には自信があった。しかし「アルカナ因子の人体投与」という実験の特異性と、その秘匿性から、被験者を獲得することができなかったのだ。グラマンはあらゆる手を尽くして被験者を求めたが、それでも見つからず、半ばあきらめかけていたそのとき、三月が、それに名乗り出た。

 ありがたくはあった。しかし、危険がまったくないわけでもなかった。グラマンはそのことを詳細に説明したが、三月は、今の自分があるのはグラマンのお陰だから、と譲らなかった。

 そして実験は成功を収め、アルカナ因子の基礎理論は確立された。

 

 時が経ち、アルカナ因子研究で目覚ましい功績を打ち立てたグラマンは副所長に昇進し、三月も異例の短期間で、専門分野における革新的な成果を出し続けた。

 三月は、副所長就任の祝いにと、グラマンに腕時計を贈った。プラスチック製のやけにカジュアルなものだったが、「ぜったい似合うと思った」とのことだった。彼女にはそういったセンスがまったくないことをグラマンは知っていたが、一生懸命選んでくれたのだろうと思い、「大切にするよ」と受け取った。

 その後、三月は子供を授かり、仕事の性質上勤務時間が不規則だったことから、よく研究所に連れてくるようになった。そのたびに、彼女はグラマンに子供を抱けといった。初め、グラマンはそれを断っていた。赤ん坊など、どう扱っていいのかわからないのもそうだったし、実際、未だ心にじくじたるものが無いわけでもなかった。しかし結局、彼女の大きな口をあけて笑うあの笑顔を見られるのなら、そんなことは些細な問題かと、おそるおそる抱いたものだった。

 全ての風が順風に吹いているように思え――そして、最悪の事件は起きた。

 

 三月の子が、研究所で忽然と姿を消した。

 その事件は三月の希望もあって、グラマンの権限により研究時の事故として処理された。

 なぜ、そのような処理をしたのか――グラマンと三月には、その原因に〝心当たり〟があったのである。

 以来、その〝仮説〟を確かめるために、二人は「アルカナ因子と波動共鳴に伴う転位現象」の研究に執心するようになる。

 三月は悔恨を埋めるように昼夜なく研究に没頭し、グラマンもまた、彼女の悲痛な想いに共感するように、手段を選ばず強引な〝後押し〟をするようになった。

 確立すべき要素は二つ――あらゆる波動を高感度で受信できる「高濃度のアルカナ因子保持者」と、いつ発生するとも予測しえない特異波動の呼び口となる「ゲート」。

 政府を通じて紹介された『教会』という組織から「結晶体」のサンプルを入手できたことで、「ゲート」が先に完成した。

 それにより判明したことは、「ゲート」の起動に必要な条件は、波動を通す〝位相と位置〟――つまりそれが、偶然にも研究所の〝その場所〟にあることがわかった。残るは受信者足りえる「アルカナ因子保持者」のみとなったのだが、そこで、再び事件は起こる。


 今度は、三月が姿を消したのだ。

 それも、グラマンの目の前で。


 予測し得る事態ではあった。原因は三月の子と同じ――その身に、〝アルカナ因子を宿していた〟から。

 グラマンは、消えゆく彼女へと手を伸ばし――。



 ――グラマンは目を開けて、目の前に設置された巨大な紅い結晶体を見上げた。

根元の表示板に『lapis philosophorum』――《賢者の石》とコードの打たれたそれには、中程にぼんやりと〝樹系図〟のような模様が浮かび上がっている。

 彼はしばらくそのまま佇んだのち、左腕のやけにカジュアルなプラスチック製の時計に目を向けると、

「待たせたね、三月君」

 そう呟き、インターホンのコールボタンを押した。


    * * * *


 白い緩衝材で囲まれた実験室――扉は二つあり、一つは通常の通用扉、もう一つは、壁一面に大型のシャッターが据え付けられている。部屋の真ん中には、巨大な作業アームに接続された寝台があり、白木優羽莉は、そこで〝実験〟の準備をしていた。

 部屋にいる人間は優羽莉ともう一人だけ。その〝検体〟を、優羽莉は寝台に寝かせてから、両手首を固定する。

「うっはー、なんかすごそうだなこれ!」

 ファインセラミックスの拘束具にロックを掛ける際、やけに物々しいそれに少し興奮したぐらいで、検体の様子は至極落ち着いている。むしろ作業を進める優羽莉の方が若干不安定な状態に見えた。

「なぁ、お前――〝ひらひら〟じゃなくて、ええと、〝優羽莉〟だっけ?」

「……ええ、そうよ」

 話しかけられて、優羽莉は足の拘束具を絞めようとしていた手を止めたが、やはりきっちりと絞め切り、

「――咲山さん」

 と、検体の名を呼んだ。

 そう、寝台に寝かされているのは、咲山小梅であった。小梅は狭い実験室内を物珍しそうに見渡すと、

「ここって初めてだよな? 結構長くかかんのか? このあとチユと遊ぶ約束しててよ」

「遊ぶ……?」

「ん、ああ~『実験』って言えって言われてたんだ。まぁ、なんでもいいよな? もう毎日の日課になっちまっててさぁ、最近はあいつに勝てるゲームも増えてきたんだけど、意外にあいつ負けず嫌いなのな。もう一回もう一回ってしつこくてよー」

 そう、両手足、胸、腰と固定されながらも、楽しそうに話す。

「……大丈夫、実験はこれで最後・・だから」

 優羽莉は伏し目がちにそう言うと、インターホンの通話ボタンを押し、

「準備できました。シャッター開きます。ジャマー停止と搬入をお願いします」

 とコントロールルームに連絡した。

「今日は他のスタッフいねぇのな? さっきいたオッサンだけか?」

「これは非公開の実験だし、ここにはやあなた・・・みたいな人しか入れないから」

「ふぅん」

 訊いてはみたものの、その返答には特に興味がなかったようで、小梅は固定された手を握り開きしながら「とっととやってくれー」などと気楽な口を利く。

 優羽莉はそんな小梅に背をむけて壁際に移動し、コンソールパネルの前に立った。

「ねぇ、あなたは怖くないの?」

「怖い? ああ、そう思うやつもあるにはあるけどよ、たいていのことは平気だな。〝嫌〟とか〝腹立つ〟は得意なんだけどさ。まぁ、すっげぇ痛くねぇかぎり、言われたとおりやるよ」

 それを聞いた優羽莉は、

「そう、私と同じね――」

 そう言って、パネルを操作した。

 すると壁のシャッターが上がり始め、同時に奥からヒーンと耳につく共振波のような音が聞こえてくる。そしてシャッターが開き切り、上部のランプがグリーンに点灯すると、寝台のアームがゆっくりスライドし、小梅の乗る寝台をシャッターの奥へと押し出していった。

「おお~、なんだこりゃ~!」

 絵面に似つかわしくない、小梅ののんびりとした声が響く。

 奥には、通常のビル三フロア分はある高い吹き抜けのドームが広がっており、その中央には、高さ十メートルほどの巨大な紅い結晶体が鎮座していた。


 吹き抜けの実験ドームを、白木・A・グラマンは、二階にあるコントロールルームから見降ろしていた。

 他にスタッフはおらず、室内は微かな空調の音が耳に残る程に静かだ。

 壁面に大きく張られた強化プラスチックの窓からは、ドーム中央の巨大な紅い結晶体を正面から覗ける。それを見つめるグラマンの顔は、感情が無いようで、しかしその奥に何か強い想いを秘めているような、そんな複雑な表情を浮かべていた。

 しばらくすると、インターホンのコールが鳴った。グラマンは手元のコンソールで通話状態にすると、

『準備できました。シャッター開きます。ジャマー停止と搬入をお願いします』

 との連絡がスピーカーから流れた。

 それを聞き、グラマンは再びコンソールパネルを操作した。

 ディスプレイの『jammer』と表示された個所がオフ表示となる。すると部屋のライトが警戒を示す赤色に切り替わり、同時に、ドームの結晶体が鈍く光を放ち始めた。

 次いでドームでは、下部壁面のシャッターが開き、作業アームに支えられた寝台が押し出されてきたところで――背後のオートドアが開き、誰かが部屋に入ってきた。

 グラマンが肩越しに首だけ向けて見ると、それはチユだった。

「どうしたのかな? 今日は自室で待機しているように言っておいただろう?」

「ちょっと気になったから来てみた」

 チユはそう言うと、いつもの無表情で、コツコツとヒールの音を立てながら部屋に入ってくる。

「扉にロックは掛けていたはずだがね。困ったものだな」

 口ではそういうが、グラマンの表情にも変化はない。

 そしてチユは窓に寄ると、中央の結晶体を見つめ、

「あれなに? チユ、初めて見たな」

 と訊ねた。

「『賢者の石』さ」

 グラマンは即座に答えた。

「構成元素は『鎮護国禍』が守る『要石』とほぼ同じもの――〝アルカナ因子の結晶体〟だ。その純度は格段にこちらが上だがね――」

 そして一呼吸置いてから、

「俺と三月くんが造りあげたものだ。いわば〝転送ゲート〟だよ」

 それを聞いたチユは、少しの間だけ黙したが、

「隠さないんだね」

 と言った。

「見られてしまったからには――君ならデータベースに侵入して、いくらでも調べられるだろう?」

 グラマンはそう言いながら、さらにパネルを操作して様々な観測グラフを窓の端に表示する。

「あの石は、東京に設置された七つの『要石』を線で繋いだ丁度真ん中、全ての石と干渉し合う位置にある」

「……つまり、全ての石の波動が集中するから、転位現象が起きやすいってわけだね」

「その通り。さすが理解が早い」

 そして八つの波動の位相が映し出された周期グラフを確認しながら、

「『アルカナ因子』の塊と言っていい君は同じくそれを受信しやすい。つまり君にとって、ここはとても危険な場所なんだ。一般人ならその波動の強さに即変異してしまうほどにね。だから連れてくることはできなかった。今はあの石自体の波動を相殺するジャマーも外している状態だし、加えて外では共鳴現象も起きている。決して下に降りてはいけないよ」

 そう告げるが、チユはさらに窓に近づいて手をつき、下を覗き込む。

「――あそこにいるの、コウメちゃん?」

「そうだね」

「どうするの?」

「起動テストだ。『賢者の石』にアレを同化させることでゲートを活性化させ〝起動〟する。それではまだ動作しないが、全ての『器』を同化させれば、偶発・・を待つことなくゲートは完全に開く。その前のテストだよ」

 チユは思うことがあったか、窓につく指に少し力が入る。

「パパ……コウメちゃんが『器』だって知ってたんだ」

「君の調査結果・・・・は常にチェックしているよ」

「でも〝同化〟したら――」

 言いかけた言葉を遮り、

「そうすれば、ママに会える」

 グラマンはそう言った。

「ママに……」

 その言葉に、

「……そっか。だから・・・ママは……」

チユは指を握りこんだ。

「チユは最後だ。そこまでゲートが開いた状態で同化すれば、石と融合することなく〝先〟に行けるだろう」

 淡々とそう語るグラマンの声は、口にしている言葉に反し至極穏やかだった。

 窓の外では、ベッドが結晶体に近づくにつれ、その輝きが強くなっていく。

「ふむ……反応している。やはり生体のまま・・・・・でも大丈夫なようだ。血晶の方が事故の可能性は限りなく下がるのだろうが――」

「――パパ」

「すまない。時間がなくてね。このまま作業を続行するよ」

「保管庫の『クリーチャー』が全部無かった。異物研究科のも――何が起こるの?」

「ああ、よく見ているね」

 チユは何か気を引こうとしているようだが、グラマンの手が止まることはなく、コンソールパネルの上で忙しく動き続ける。

「……コウメちゃんは、チユにくれるんじゃなかったの?」

「すまないが、あれが『器』だとわかった今、そうもいかなくなった」

 チユが、グラマンにしっかり顔を向けて言った。

「――やめよう、パパ」

「なぜかな?」

 しかし、グラマンはその目を見ない。

「あの子、消えちゃうんでしょ?」

「そうなるね」

 しかし、それでもチユは目を離さず、

「あの子は、〝ママ〟だもん」

 グラマンが、少しだけ、息を止めたように見えた。

「――ママではないよ。君のクローンだ」

「でも……」

「君ならもうわかってるだろう? すべて終われば、あれでママに会いに行ける」

 チユは下を向き、下げた両手を握り合わせる。

「ママがいなくなってチユは寂しかったよ。パパは違う?」

「そうだな――私も同じだよ」

「なら、やっぱりやめよう?」

「チユ――」

「方法なら他にチユが――」

「駄目だ」

 いつも通りの静かな口調だったが、その言葉の底には、熱い怒りや、苛立ちや、悲しみが、混然となって煮え立っているような、そんな一言だった。

 しかし、チユの握り合わせた手は小さく震え、

「……嫌だ」

 そう呟くと右目の髪をよけ、その瞳に血を滲ませて血晶を纏った。そして、

「クリエイト――〝ガルゴ〟」

 と翼持つ〝タイプ・ガーゴイル〟の『クリーチャー』を呼び出し、窓を割らせると共に自身を抱えさせ、ドームへと飛びだしていった。

「………」

 しかしグラマンは、特に動揺することなく降りていくチユを見つめ、ただ冷静に対処を考えるように目を細める。

 そのとき、

「――お父さん」

 声がした。

 いつの間にか扉が開いており、そこに、優羽莉が立っていた。

 グラマンは後ろを振り向くことなく、

「優羽莉か。すまないがトラブルだ。下に降りてチユを――」

 そう言いかけた言葉を、優羽莉が遮った。

今の・・、どういうこと……?」

 その問いに、グラマンはすぐに気付くことがあったようで、手元のコンソールを見た。インターホンのステータスが「通話状態」のままとなっていた。

「――まいったな。この期に及んで、どうやらオレも、少し気が急いていたようだ」

 言いつつ、後ろに振り向いた。優羽莉は、しっかとグラマンを見つめていた。

「……そういうこと・・・・・・だったの? 私たちは、本当に三月さんのために……」

「優羽莉――」

 さらにグラマンは何か言いかけたが、優羽莉の目は、問いに対するはっきりとした答えを強く求めるように動かない。

「そうだ」

 グラマンは、そう答えた。そして常に嵌めたままでいる、右手の黒い革手袋に手を掛けた。


 実験ドームで、小梅は寝台に拘束されたまま、

(この音、なーんかあの〝共鳴音〟に似てるな)

 などとのん気に思いながら、だんだんと近づいていく大きな結晶体を眺め上げていた。じっと見ていると、ぼんやりと、その中央に何かの図形のような形が見える気がする。

 すると、そのヒ―ンと鳴り続ける音に紛れ、ガゴンとぶ厚い何かが壊れたような音がした。

 何事かと首を巡らせてみると、灰色の、翼の生えた『クリーチャー』が二階の窓を割って飛び出してきたようで、そのままこちらへと降りてくる。

「……おいおい!」

 小梅は驚いたが、それは、そのクリーチャーの腕に血晶を纏ったチユが抱えられていたからだった。

 チユは地面に降り立つと、急ぎ結晶体に近づいていく寝台に取り付いた。

「どうしたんだよ、チユ。今実験中だからさ、ゲームはまた後で――」

「この実験はだめ」

 チユは急いてそう遮ると、拘束具を掴む。当然外れるわけもなく、解除には二階のコントロールルームに戻る必要があることを悟る。

「ガルゴ、壊して」

 チユの指示に従い、ガーゴイルが腕の拘束具を掴んで引く。少し手間取ったものの、手足の拘束具は壊すことができた。しかし肝心な、一番太い胸と腰の拘束具が、激しく軋むものの、鉄をも引き裂くガーゴイルの膂力をしてもなかなか壊すことができない。

 小梅はその様子をきょとんとした顔で眺めながら、

(あー、そういうことか)

 先程の優羽莉の浮かない顔と、「最後だから」という言葉を思い出していた。

 そして、

「いいじゃん、大丈夫だよ」

 と、あっけらかんとチユに笑いかけた。

「あはは、いてーのはやだけどなー」

「……大丈夫じゃ、ない」

 チユもまた、あまり豊かでない表情を仄かに歪ませつつ、血晶の爪で拘束具を思い切り引っぱる。

「でもさ、そう決まったんだろ? そんなことすっと怒られるぞ?」

「……決まってない」

 そのチユなりに必死な様子を見て、小梅は目を閉じ、

「ありがとな、チユ」

 と言って、再びチユに目を向ける。

「戻って来てからさ、ここ最近で一番楽しかった。じーちゃんと一緒にいたときみたいだった」

「やだ……」

「はは、もうちょっと時間あったらお菓子とかも作ってやったのにな。あたしさ、チェリーパイとか得意なんだ」

 そう、笑った。その〝困った笑い顔〟を見たチユは――、

「コウメちゃんも、ママみたいにいなくなるの……やだよ」

「……ママ?」

 寝台が結晶体に近づくにしたがって、鈍く響いていた共振音の高鳴りがボリュームを増していく。

「うーん、でもしょうがねぇんじゃね?」

「なんで……しょうがなくない」

 結晶体までは、あと数メートル――。

「だってさ――」

 小梅がそう言いかけたとき、ガゴンッと大きく寝台が揺れた。

 胸と腰、二つの拘束具を、ガーゴイルがいっぺんに引き千切ったのだ。

 ガーゴイルは咆哮を上げてそれぞれの拘束具を腕にかかげ、思わずチユも喜びに振り向くと――なぜか、その二つが空中で左右に離れていった。

 それもそのはずで、見ると、ガーゴイルの〝体〟はごっそり紅い血晶となって消え去っており、もはや宙に浮く二本の腕しか残っていなかったのである。

 そして空いた空間には、煌く白金の体毛に覆われた巨大な竜が、腕の爪をぎらつかせ、顔を覗かせていた。

 当然、さっきまでこのようなものはいなかった。この怪物はいったい――。

 さらにその瞬間、凄まじい悪寒を感じ寝台を見た。

 自由になったはずの小梅がいない――。

 視界の端に、ちらりと伸びる手が見えた。

 顔を上げると、結晶体から、まるで意思を持つ生物のような〝結晶の手〟が伸び、小梅を捕らえたまま、紅く輝く結晶内へと引きずり込んでいた。


 割れたコントロールルームの窓に向けて、グラマンが右手を掲げている。

 彼のその手がやけに冷たいことを優羽莉は知っていたが、彼女ですらも、その手袋の下を見たことはなかった。

「お父さん……」

 グラマンの右手は、人工筋肉で構成された機械でできており、その筋線維の隙間からは、紅い光が漏れていた。

「君たちを造る前に、当然俺もいろいろ試した。俺にもアルカナ因子が定着すればよかったのだがね――俺では、ダメだった」

 そう語るグラマンの瞳はどこか物悲しく――。

「それでも、こんなこともできる。当然君らには及ばないが――」

 右手を掲げる先のドームで赤光が閃き、そこに忽然と巨大な白金の体毛に覆われた竜が現れた。

「〝ラドン〟というらしい。〝借り物〟だがね」


 チユが愕然と床に両膝を突く。

 小梅は既に、胸から上と左腕を残し、体の半分以上が結晶体に取り込まれていた。意識は無いようでがくりと頭をうなだれている。しかし急速な〝同化〟は一旦そこで止まったようで、あとはじわじわと内側に沈んでいっているようだった。

 チユはそれを呆然と見ていたが、

「まだ……」

 血晶を解いて立ち上がり、すぐ傍、結晶体の根元にある制御パネルのカバーを開く。

「あった……!」

 そして白衣から携帯端末を取り出すと、中からケーブルを引き出して制御パネルに有線接続し、素早くOSにアクセスした。

(……『lapis philosophorum』インターフェース……管理者権限……ロック…………ハッキング成功……〝ジャマー〟は……今の出力じゃダメ……でもすぐシステムを組み直して強化すれば……)

 まさか、チユはこの場でプログラムを組み、結晶体の波動を相殺するジャマーを強化して、〝同化〟を沈静化させようというのか――しかし、それが可能と思わせるほどの高速で端末をタップする指は、みるみるプログラムを組み上げていく。

 だが、すぐそこに、それを許さぬものがいた。

 巨体を揺らし、〝ラドン〟がゆらりとチユに近づく。

 チユも当然気付いてはいるのだろう。しかし、まるで構うことなくコードを打ち続ける。

 そしてチユを掴み上げようと、ラドンの手が伸び――その手が、ぴたりと止まった。

 唸りを上げて長い首を後ろに巡らせると、背に、燈色に輝く甲殻の剣が刺さっていた。

 剣の柄は、同じくキチン質の甲殻に包まれた青黒い巨人の手に握られていた。


 室内に漂う紅い粒子に目を留めたグラマンは、右腕に内蔵された疑似アルカナ装置からラドンに力を照射しつつ、目を横に向けた。

 エメラルドグリーンの瞳に、紅い光が照り返る。

 その目には、父に向け紅く輝く剣を構える、血晶を纏った優羽莉の姿が映っていた。


    * * * *


 灯り無く暗い礼拝堂に、壁に並んだステンドグラスから柔らかな月明りが差し込んでいる。この教会にはもう長いこと管理をする聖職者がいないのだが、その礼拝堂は、それをまったく感じさせないほど澄んだ空気に満たされていた。きっと誰かが、そのように保ち続けているに違いない。では誰が――というと、それは今、祭壇の前で跪いている金色の髪の少女なのであろう。

 彼女、一条樹里亜は長い祈りを済ませると、そっと立ち上がり、背後の大扉へと声を掛けた。

「お待たせしました。通してください」

 すると扉が軋みを上げつつ、ゆっくりと開く。

 人が僅かに通れるほど開いた隙間から、横に滑り入るように現れたのは三人――誰かを連行するように後ろ手を掴んで挟み立つ二人の衛士と、その〝誰か〟である、原吹晶であった。

「下がってください」

 樹里亜がそう言うと、衛士たちは躊躇するように顔を見合わせたが、

「お願いします」

 と追加の一言に、一礼をして出ていった。

 樹里亜は晶の近くまで寄ると、長椅子に腰を下ろし、手を差し出して晶にも座るように促した。

 晶は緊張した面持ちではあったが、その目の奥には確かな決意が見え、特に腰の引けた様子を見せることなく、勧められたまま樹里亜の正面に座る。

 樹里亜は、以前の朱御山神社での凛とした姿が嘘に思えるほど、穏やかで、落ち着いた表情をしていた。

「――自分から捕らえられたのですってね。一緒にいた方とは?」

「別れました。神名さんは自分の想いに向き合って、〝運命を見に行く〟って言ってました。わたしもそうしようと思って――今は、わたしにも想いがありますから」

 晶の眼差しは挑むように真剣だ。

「そう。それは何かしら?」

 しかし樹里亜の口調はあくまで優しく、全てを受け入れようとするかのようだった。

 晶はそのギャップに少し戸惑ったが、改めて意を決し、話し始めた。

「樹里亜先輩の〝想い〟が知りたいです」

「私の……?」

「はい。わたしは、なんで自分がこんな力をもっちゃったんだろうって、その意味を知らなきゃと思ってました。でもそうして、いろんな人たちと、いろんなことを経験して、その人たちの強い想いに触れていくうちに、そういった〝想い〟を知ることがわたしのやるべきことなんじゃないかって、思うようになったんです」

 晶は、肩に提げたショルダーバッグのベルトを強く握りながら、そう話す。

「あの時、駿河先輩や虎鉄さん、椿さんたちのことはショックでした。ほんと、しばらく立ち直れないくらい……でも、わたしあの直前、駿河先輩と約束してたんです。樹里亜先輩と、一度ちゃんと話してみるって」

「………」

「わたしのは、先輩と仲良くなりたい、って程度の話でした。でも駿河先輩は、樹里亜先輩のことずっと気にかけてました。ほんとは、駿河先輩自身がちゃんと先輩と話をしたかったんだと思います」

 樹里亜の行儀よく膝に添えられた指が、僅かに動く。晶はそれに気付くことなく、言葉に熱を帯びたまま続ける。

「あの駿河先輩がそんな風に思う人が、喜んであんなこと・・・・・をしてるなんて、わたしにはどうしても思えないんです。きっと何か、〝想い〟があってやってるんじゃないかって――それを知らないで、戦ったり、逃げたりなんてできない。もうそんな、想いを見ないフリなんてしたくないから――それを聞いてから、これを誰に託すか決めたいと思ってます」

 そう言うとショルダーバックを前にして、ファスナーを開いた。

「ここにいるみんなにも……幼馴染にも、そう誓いました」

 中には、いくつかの紅く輝く血晶が入っていた。

 樹里亜はそれを目にし、そっと目を閉じると、少しの間そのままでいてから徐に天井を見上げた。

「――決して華美ではないけれど、綺麗でしょう?」

 晶もつられて天井を見上げる。確かに、特に目立った装飾も無く、白いだけの簡素な天井ではある。ただその分、優美な曲線を描くアーチが際立ち、見る者に柔らかく、清廉な印象を与えていた。

「ここは、祖母のために建てられた教会なんです」

「樹里亜先輩の、おばあちゃん……」

「ええ」

 樹里亜は晶に視線を戻す。

「祖母は若い頃にドイツから連れてこられ、一条に嫁ぎました。この教会は駿河のお爺様が、寂しそうにしている祖母を見かねて、故郷を少しでも思いだせるように、と建ててくださったんです――罪滅ぼしの、つもりだったんですかね……」

「罪滅ぼし……」

「祖母には強い呪力を秘めた血が流れており、『鎮護国禍』は、その血を望んだんです。きっと、良いことを吹き込んだのでしょうね……初めは日本での暮らしに夢をみて来たようですが、結局は自由を与えられず、飼い殺されて、ここで一人で亡くなりました」

 樹里亜は寂しそうに、

「私は、お婆様の気持ちがよくわかるんです――私も、同じですから」

 そう微笑んだ。

「そう……なんですか?」

「はい」

 その微笑みの意味をしっかり知ろうと、晶はまっすぐ樹里亜を見つめ、話を聞く。

「私は幼い頃、この家に生まれたことが悲しくて仕方ありませんでした。いずれ『一十』を継ぐ者として厳しく育てられ、自由を与えられず、怖い妖異に引き会わされたりして――それでどこかに逃げてしまいたくて、この教会に隠れたんです。ここは一条の敷地内ですが、誰も近づいてはいけないと言われていたので、かえって見つからないのではと思って……浅はかですよね」

 そして、祭壇を見た。

「そのとき、ここで祈る祖母を見ました。窓から差し込む光に髪の色が映えて、とても綺麗だった――隔世遺伝、なんですかね。私は駿河以外に、自分と同じ髪の色の人を初めて見ました。こんなに近くにいたのに――自分の祖母なのに、それまで会ったことすらなかったんです」

 その目は、昔を懐かしむようであり、それを苦しむようでもあり――。

「自分の血縁の方だとすぐにわかりましたが、その分、怖くなりました。なぜ、こんなところに〝閉じ込められて〟いるんだろうと、そう思ってしまって――それに、きっとこの人はそれを恨んでいるとも思いました。事実、勝手に連れてきて、力を手に入れれば用済みとばかりに、彼女の見た目を気にして周囲に晒さないよう隔離し、その当事者たちはのうのうと暮らしている――そんな人たちを許せると思いますか?」

 しかしその目が、ふっ、と穏やかな色を帯びる。

「でも祖母は、思わず姿を見せてしまった私を見ると、優しく笑って、お菓子をくれたんです――『よかったらまたいらっしゃい』って。私も何かお返しがしたくて、自分で手に入るお菓子を探して持っていきました。スーパーなんかで買える安いものですけど――祖母はそれを『美味しい』って言ってくれて、『日本のお菓子ね』って――」

 樹里亜は再び晶の方に向き直る。

「それから私はしょっちゅうここに来ては、一緒にお菓子を食べ、祖母といろいろな話をしました。遠い故郷の話をたくさんしてくれて……とても懐かしそうな目をしながら。だから、訊いてしまったんです――帰りたい? 日本に来なければよかった? って」

「そしたら……なんて?」

 晶が不安げに訊ねる。

「『そんなことないよ。日本に来なければ、あなたに会えなかった』って――祖母は決して、私には辛い顔一つ見せませんでした」

 樹里亜の顔が、悲しみに沈んでいく。

「私は理解できませんでした。なぜ、こんな優しい人が、あんなふうに耐えて、苦しんで、一人で亡くならなければならなかったのか――」

 晶の手がぎゅっと握られる。

「私たちの力が、この国の守護に必要であることは理解しています。その為に、より強い力を求めていかねばならないことも――しかし、力ある者は皆、それ故に悩み、苦しみを負う。この組織は血を尊び、それを絶やすまいと、不幸を、呪いを生み続けるのです。祖母だけじゃない。椿も、黒髪――マリエさんもそうでした。そしてそんな思いをしている者たちがいたからこそ、駿河もあそこまで――それは、この『鎮護国禍』と言う組織がある限り変わらない」

 核心が近い――。

「じゃあ、樹里亜先輩のやりたいことって……」

 緊張に、背に力を込める晶を、樹里亜はまっすぐ見つめ、

「私は、この『鎮護国禍』という存在を無くしたい」

 そう言った。

「皆は今、『英血の器』を悪魔のように思っています。そして全ての『器』を討たねばならないとも――知っての通り、私がそう仕向けました。どの道、彼ら『器』がいなくならない限り、この東京での〝狩り〟は終わらない。ならば、私はこの機に懸けることにしたんです」

 樹里亜が立ち上がる。

「この戦いで皆の怨嗟が高まり、『英血の器』が国賊として認められ、それが討伐された暁に、『鎮護国禍』の頭首であり、その象徴たる私もまた――『器』であることを明かします」

「やっぱり……先輩もそうだったんだ」

 樹里亜もまた、「英血の器」である――薄々そうではないかとは思っていた。しかしこうして直接聞くと、晶は驚きを隠せなかった。

「組織にとって、これ以上の痛手はないでしょう――もはや存続は許されない。この企てに味方はいません。ですから、それを確実なものとするために、『器』であることを私に教え、接触してきた『教会』と手を結びました」

「そんな……」

 樹里亜の自らを省みぬ覚悟に、晶は顔を歪める。

「利己的だと思っています。世に混乱をもたらしかねない、大きな罪を背負う行為だとも――でもどうしても、この〝呪い〟をここで断ち切りたかった……それが、私の〝想い〟です」

 晶が頭を垂れ、

「私を討ちますか? 原吹さん。それでも私は止まらない。全力でお相手します」

 その晶を、樹里亜が強い覚悟の瞳で見つめる。

 しかし晶は頭を上げると、

「――いいえ。どの道周りは敵だらけですもん」

 立ち上がり、

「でも手も貸しません。ただ、わたしは先輩の近くで、最後までその想いを見守ります」

 そう、決意の瞳を返した。

「――そうですか」

 一言、そう答えた樹里亜は、晶に背を向けると、いつもの凛とした声で告げた。

「『教会』から得た情報を元に、明日、私たちは掃討作戦を決行します。目標は残りの『英血の器』が集う『AVAL科学財団研究所本部』――あなたには、それに同行してもらいます」

「はい」

 晶も姿勢を正し、それに応える。

「表で待っている衛士たちに部屋を用意させています。今日はそこで休んでください」

 樹里亜が肩越しに目を向けつつそう告げると、晶は頭を下げ、背を向けて教会から出ていった。

 樹里亜は、そのまま閉まる扉を見つめ、

「……ありがとう、原吹さん――」

 そして再び祭壇を見上げた。

「知っていてくれる人がいるって、救われるものなのね。お婆様がそれを教えてくれていたのに、どうして思い出せなかったんだろう……もっとはやく、気付ければよかったな」

 そう、一人呟いた。

 今、彼女は何を、誰のことを思っているのだろう――自分の罪を? これまでの、そしてこれから出るであろう無垢なる犠牲者たちを? それとも――。

 そして樹里亜は、その場でもう一度だけ祈りを捧げ、教会をあとにした。


    * * * *


 今から起こるであろう戦いの激しさを予感させるように、雲がどんよりと重く立ち込めている。そんな灰色の空の下、銀座から日本橋へ向けて、中央通りを黒々とした群衆が移動していた。

 黒い法衣を身に纏い、『破魔菱』の旗を掲げるその一団は、日本国を悪鬼妖異から守る呪術組織『鎮護国家』の衛士たちであった。その先頭を行く装甲車の上部ハッチには、白い法衣に身を包んだ一条樹里亜が立ち、その傍には原吹晶が控えている。

 行軍が、丁度銀座七丁目交差点の付近にさしかかろうとしたとき、樹里亜が片手を上げた。それを確認した指揮通信担当より、全隊に一斉に合図の念が送られ、緩やかに行軍が止まる。

 樹里亜は目を細め、通りの奥を見つめる。

 数ブロック先の道路に、なにやらうっすらと紅い霧がかかって見える。それは次第に濃さを増してゆき、やがて向こう側が見通せないほどの濃度となる。

 それを確認した樹里亜が、

「来ます! 前列、呪壁隊合唱!」

 指示を飛ばすと、すぐさま最前列の衛士たちが一斉に独鈷鈴を鳴らして呪言を唱えた。すると、薄い白銀の膜が広がり、部隊の前面を覆っていく――。

 その時だった。霧の奥がオレンジ色に眩く瞬いたかと思うと、そこから複数の光の束が飛び出した。光は弧を描いて鎮護国禍部隊の一角に降り注いだが、先んじて覆われていた膜に衝突すると、激しいプラズマ光を迸らせて拡散する。

 光が収まり、白く飛んだ視界が回復する――部隊は無事だ。しかし、視界の奥、紅い霧の中からは、先程の攻撃を放った異形の者たちが姿を現し、群れを成して部隊の行く先を塞いでいた。

 中央に二体立つ大きなシルエットは、鉱物のような球状装甲のボディにバツ字の目を光らせ、右の巨大な腕にオレンジ色の光を纏わせる異界の兵器――〝ミラ〟。その手前には、それをひと回り小さくしたような一つ目の青い個体〝リゲル〟が、前面に構えたレーザーソーを回転させつつ、通りいっぱい、一列横隊に並んでいた。

 すかさず樹里亜が指示を出す。

「招来合唱! 〝一〟の使鬼、前へ!」

 合わせて再び衛士たちの呪言が響く。

 すると今度は、部隊前面の道路に巨大な八卦陣が広がり、その中より、ズズゥと巨大な〝四角〟がせり上がっていく。そしてそれは、次第にサイズを増していき、五車線の道路に跨るまでの大きさになると、最後にその側面から人の腕と皮の翼、さらに縦に裂けた口を現し、複数の獣や人が一斉に雄叫びを上げたような咆哮を轟かせた。

「〝破戒神〟、前進!」

 樹里亜の号令と共に、衛士たちの召喚した使鬼・破戒神が身を引きずり、街灯をなぎ倒してゆっくり前進していく。そして、その後ろを追随し、鎮護国禍部隊が進軍する。

 当然、向こうも黙ってはいない。新たに現れた〝敵〟に対し、二体のミラが再び光線を放った。しかし、破戒神の四角い見た目にそぐわぬぶよぶよとした体は、それらをすべて急襲し、まるで衝撃を受けることもなく前進していく。

 そうして部隊がリゲルたちとぶつかる二十メートル手前まで迫ったところで、もう一度樹里亜が指示を出した。

「「招来合唱! 〝二〟の使鬼!」

 すると、今度はリゲルたちの頭上に八卦陣が広がり、そこからなんと、体長十メートル近いまっ赤な獣が召喚されたではないか。

 巨大な熊のようなその獣は、着地と同時に数体のリゲルを圧し潰すと、

「急急如律令――祓い給え、〝キムンカムイ〟!」

 そう叫んだ樹里亜の紅輝を受け、背の黒い斑模様と赤毛を雄々しく逆立たせ、さらに倍ほどの大きさに膨れ上がる。

 自身の体高の五倍はある相手を前に、さすがに不利を悟ったか、二体のミラは、獣に次々と粉砕されて行くリゲルたちを残して後退していく。

 そうして暫く破壊が続いたのち、

『敵先遣隊、鎮圧確認!』

 別の索敵車両より連絡が入った。

 そこで樹里亜は少しだけ肩から力を抜くと、振り返り、後ろで固唾を飲んで事態を見守っていた晶に話しかけた。

「原吹さん、大丈夫ですか?」

「はい。一応、いろいろ見て来ましたから」

 そう力強く答える晶に樹里亜はうなずくと、

「今の妖異たちは〝はぐれ〟ではありません。しっかりと、人の意志で操られています。敵は、確実にこちらに気付いています」

 そう言って、遠方上空に目を向けた。

 そこには、襲撃者の情報を確認した相手が新たに送り出した敵、空を駆る猛獣――グリフォンの群が、六枚の翼を広げこちらに向かってきていた。

 樹里亜は指揮車から地面に降りると、マイクロヘッドセットの通話をオンにし、

『全隊へ! ここからが本番です! 目標は直進前方二キロ! 日本橋「龍天」地下、「AVAL科学財団研究所本部」! 勝利は我らが紅輝と共に! 全隊、前進‼』

 そう、凛と檄を飛ばした。


 * * * *


 実験ドームに咆哮を響かせ、〝ラドン〟の凶爪が振り下ろされる。

 青黒い甲殻の巨人――〝ガレアード〟はそれを剣で受け、力任せに跳ね上げると、空いた体に巨大な背中の角を突き立てようと突進する――が、巨体に似合わず身軽な竜は、横っ飛びに距離をとり、それを躱してみせる。

 勢い余ったガレアードはそのまま壁に激突し、深々と角を突き立ててしまうが、力任せにそれを引き抜くと、振り向き、再びこちらをねめつけているラドンと睨み合う――。

 そんな激しい戦いの傍で、さらに二つの戦いが見えぬ火花を散らしていた。

 一つは、実験ドーム中央。そこに設置された巨大な結晶体――『賢者の石』に取り込まれつつある咲山小梅を救おうと、石を沈黙させるためのプログラムを組み上げようとするチユの戦い。

 そしてもう一つは、ドーム二階のコントロールルーム。白木・A・グラマンと白木優羽莉――心が触れ合うことのなかった、父と娘の戦い――。


 衝動的に、優羽莉は血晶のローブを纏い、その手に剣を構えていた。

 切っ先の向く先は、今、目の前で人工の腕からアルカナの力を〝ラドン〟というクリーチャーに向けているグラマンだった。

 当然、優羽莉は父親にこのような激情をむけたことは無かった。幼くして母を亡くし、兄妹もおらず、この世に肉親は彼しかいない。その彼に、ずっと教えられてきたのだ、自分が何をすべきかを――自分の、命の意味を。

 ひたすらそれに応えてきた。自分の使命と信じようと努力し、一度も違えることなく彼の言葉に従ってきた。

 今も、こんなことをしている自分が信じられない。

 しかし、そうせざるを得なかった。

 なぜなら彼は認めたのだ、優羽莉が父の為にしてきたこと全てが、他人である、〝竹谷三月〟の為であったということを。

「本当に、何もかも三月さんの為だったっていうの……? 私たちや、東京の人たちの犠牲は……世界を救うためじゃないの……?」

そう訊いてみた。しかし、どういう答えが欲しいのか――それを認めて欲しいのか、嘘でも否定して欲しいのか――自分の気持ちがわからなかった。それでも訊くしかできなくて、答えて欲しくて、その為だけに握られてしまった剣は、やはり頼りなく揺れていた。

 グラマンは、そんな優羽莉の様子を横目でちらりと見て取り、

「――どのようにとらえてもらっても構わないよ」

 落ち着いた声でそう言った。

「私の目的がどうあれ、誰かが・・・『英血の器』を消滅させるだろうということは変わらない。そもそもこの計画は、『教会』――つまり『混沌』の手により、何百年とかけて企てられてきたものだ。オレたちはその最後の実行者にすぎない」

 このような状況にも関わらず、淡々といつもの調子で語られる言葉たち――これが優羽莉の聞きたかった言葉ではないのだろう。しかし、低く、よく響くその声は、そんな彼女の意志など関係なしに、聞かねばならぬものとして耳に強引に押し入ってくる。

「確かに、全てが終われば、『混沌』の興味はこの世界から逸れて、暫くは安泰かもしれないな。さらに言うなら、君も知る通り、彼らは人の持つ倫理感など到底持ち合わせない存在だ。にも拘わらず、世界中に非常に強い影響力を持っている。つまりこの計画は誰が実行者になってもおかしくなかった。そういう意味では、我々だったからこそ、この程度の犠牲で済んだとも言えるかもしれない」

 グラマンの言葉は続く、その淀みなく吐き出される言葉に気持ちが飲み込まれていく。優羽莉は焦る。何でもいい、何かを言わなければ――と。

「それでも――」

「そもそも君は、世界を本当に救いたいなどと思っていたのかな?」

 ぎくりと、ただでさえぎりぎりだった思考が止まった。

「オレは、君をそのようにつくってはいない。それは、君にとっては〝大義〟でしかないはずだ」

 図星であった。このことは以前、龍道で神名千尋にも指摘されていた。確かにその通りで、優羽莉は本心からそのようなことを考えたことはない。「世界を救う」などという言葉は、彼女がただグラマンの言葉に従い、人々を犠牲にしてきたその行為に、意味のある形を与えるものでしかなかった。

「オレは、君から極力意思を奪い、ただ与えた使命をまっとうするようにつくったはずだ」

(私を……〝つくった〟……)

 それもまた、優羽莉が自らよく口にしていた言葉だった。しかしそれを、こうしてグラマンの口から直接聞かされたことはなかった。優羽莉の心が自然とそう理解し、思わず口にしていたそれと同じ言葉を、彼が偶然口にしたのだ。

 そして皮肉なことに、そうした言葉たちは、なぜか先程までグラマンが語っていた言葉に比べすぅっと心に入り、優羽莉に冷静さを取り戻させた。

「――今お父さんは、私がこういう行動をとったことをどう思ってるの?」

 優羽莉は訊ねる。

 剣の震えが、止まっていた。

 グラマンは落ち着いたその声を聞き、初めてしっかり優羽莉の顔を見た。

「――当然のことだと思っているよ。それだけのことをしてきた自覚はある。一般的な道徳観念からいって、とうに自分がおかしくなっていることもね」

 そう言った。

「俺は三月君と違って、君が生まれる前から君をそう使うつもりだった。だからでき得る限りそういう・・・・感情を持ちにくくしたつもりだ。君の母親・・・・も含めて。結果が同じなら、下手にわかり合うよりこの方がずっといい――君にとってもね」

 恐ろしいほどに冷たい言葉だった。彼は最初から親子であることを捨てていたというのだ。それどころか、家族を持つということさえも――しかし、その全てに納得がいく。そうなのだ、彼の言葉には――。

「世界は、どうするんですか?」

「なるようになるだろう。私はもはや、この世界に興味はない」

「――お父さんは?」

「三月君を迎えにいく」

 優羽莉の問いに、グラマンが淀みなく答えていく。

「死んでいるかもしれないわ」

「生きているよ――」

 ただそのときだけは、グラマンは優羽莉から目を逸らし、自身の義手を見て、

「失ったはずの腕が感じている・・・・・――そこが、俺の世界だ」

 少し遅れてそう言った。

 そして優羽莉は、このとても冷たく悲しい会話を、

(こんなに長く、話したことなかったな……)

 そんな風に感じ、続けていた。

「もうひとつ聞かせてください――なぜ、チユなの?」

 グラマンは再び優羽莉に視線を戻す。

「あの子は、三月と私の細胞から作った個体だ。アルカナ因子は、性質の近い者同士ほど強く引き合う 彼女こそが、三月を探す〝道標〟となる」

「そう――」

 そこまで聞いて、優羽莉は胸がすっと軽くなっていることに気付いた。

(そうなんだ――この人の言葉には〝嘘〟がない)

 改めて、優羽莉はグラマンの色素の薄い、エメラルドグリーンの瞳を見つめる。

(――初めから、一つも。私はずっと、ちゃんとこの人の剥き出しの心に触れてきたんだ。それを、私が――)

 グラマンは時計を目にし、次いで、階下で必死にプログラムを組むチユをちらりと見た。そしてさらに、結晶体に浮かぶ〝図形〟を見てから、ラドンの様子を確認する。

 まだ無事ではあるが、相性が悪かったらしく随分とやられているようだった。それでも相手のガレアードも甲殻に多くのヒビが入っており、善戦したことは窺える。

 そしてグラマンは、

「――やめよう。時間がもったいない。今、上でも・・・対処しなければならないことが起きているんだ」

 そう言って、空いている手で義手を覆う袖をめくり、

「これは俺のミスだ。それをカバーするために最後の手を使う」

 その下にあるボタンを幾つか押して、何かを確認するように義手の指を動かした。

「それが失敗したら、あとは君の好きにするといい」

 その提案をどう受け止めたのか、優羽莉はそっと剣を下ろした。

 優羽莉の表情は、もうすっかり落ち着いていた。

「私には、お父さんが世界だったわ」

「君がそのような未練や感情を持たないように手を尽くしてきたつもりだったのだがね。難しいものだな、血の繋がりというものは」

「私は――」

 優羽莉は一度、目を閉じてからグラマンに向けて――、


「あなたに、ちゃんと抱きしめてもらいたかったです」

 そう、穏やかに微笑みかけた。


「すまないな。俺は子供を抱くのが苦手なんだ」

 グラマンは、ただ淡々とそう答えた。


「それじゃ、お父さん――」

 同時に、グラマンがくいと義手の指を引いた。

 ガンッと強い衝撃に部屋が揺れた。

 見ると割れた窓に、下にいたはずのラドンの顔があった。片手で壁に取り付いたラドンは、もう片方の腕の爪先を、優羽莉に狙いをつけて大きく引き絞る。

 しかし、優羽莉はその場を動かず、

「――私も、私の世界を探します」

 そう言って、ラドンの突き出された腕に消えた。

 その一瞬、グラマンは、彼女が両の手をそっと前に組み、静かに頭を下げる姿を見た気がした。

 だが、よく見ると、その腕は狙いを逸らし、優羽莉とグラマンの間を突いていた。そしてコントロールルームが凄まじい衝撃に揺れ、ラドンが悲鳴のような咆哮を上げた。

 

 外側から見ると、ラドンの背にはガレアードがぶら下がり、今度こそ、深々とその角を突き立てていた。つまりガレアードはそのままの状態で、角から振動波を放ったのである。そしてその強烈な振動は、ラドンの腕を通してコントロールルームにも伝わり、室内の天井や壁諸共に破壊し、瓦礫に埋もれさせてしまっていた。

 振動が収まると、ラドンは瓦礫に片手を突っ込んだままぐったりとして、青い燐光を立ち昇らせながら消えていった。

 ガレアードは、部屋から飛び出していた優羽莉を片手に抱えており、ドームの床へ飛び降りると、そっと彼女を下ろしてから、自ら血晶と化して去った。

 優羽莉はコントロールルームを見上げる。窓の向こうはすっかり瓦礫で塞がっており、そこにグラマンの姿は見えない。

 そして優羽莉は歩き出すと、必死にコードを打ち込んでいるチユの傍に立った。

「……パパは?」

 手を休めることなく、チユが訊ねた。

「さっきのクリーチャーに守らせていたのが見えたわ。多分、無事だと思う」

「……そう。よかった」

 そのあとは沈黙が落ち、結晶体が発する共振音だけがドームを満たしていた。

 しかしそれを、ズズンと響く重い音と、鈍い揺れが遮った。

 地震のそれではない。それに合わせ、『賢者の石』もまた、強く明滅を繰り返しているように見える。これは、先程グラマンが言っていた、「対処しなければならないこと」の影響なのだろうか。

「私が行くわ」

「いいの?」

「咲山さんを助けたいんでしょう?」

「……うん」

「――あなたも、前に進んでるのね」

 優羽莉がチユに背を向け、開いたシャッターへと歩き出し、ふと脚を止めると、

「わたしもね、やっと新しいものを見つけようって思えた」

 背を向けたままそう言った。

「そっか」

 手を動かしながら、チユもまた、その背に返す。

「パパとっちゃったのに――ありがとう。チユはね、ユーリとも仲良くしたかったよ」

「あなたの所為じゃないわ。あの人は、初めからそう決めてたんだって」

 優羽莉は少し寂し気な声でそう言ったが、

「――それじゃあ、私も今度、ゲーム教えてもらおうかな」

「うん」

 そう二人は背中越しに言葉を交わし、まだ続くお互いの戦いに戻っていった


    * * * *


 東京の中央を横切り東に流れる神田川、その派川である日本橋川には、それと同じ名の橋が架かっている。橋には東京の栄華を守護するという四体の麒麟像があり、さらにそれらの中央には、日本中に広がる全ての国道の始点となる天元が存在する。

 そここそが、東京の地下を縦横に貫いて走る『龍道』結節点にして、あらゆる地脈が集まる場所――『龍天』であった。

 今、鎮護国禍部隊が目指す『AVAL科学財団研究所本部』は、その下、地下鉄よりもさらに深い、地下五十メートルの位置に存在していた。


 鎮護国禍の衛士たちは、「龍天」を包囲するように方々に散開し、各所でAVAL側が放った怪物たちと戦闘を繰り広げていた。そんな中、「龍天」まであと一キロメートルの地点まで迫り停止した一条樹里亜は、十数名の衛士と原吹晶をのみを連れ、捜索部隊からの連絡を待っていた。

 樹里亜が耳に嵌めたヘッドセットの受信ランプが赤く点滅し、コール音を鳴らした。

「――樹里亜です」

『こちら庚申隊。日本橋周辺の白木系列ビルより 複数の地下入り口を――――』

「………っ⁉」

 ブブッというノイズと共に、通信が途絶した。

 樹里亜はすぐさま印を組むと、目を閉じて精神を集中し、紅輝の網を周囲に広げる。そして、何かを見つけたのか、数十メートル先のビルの下に険しい目を向けた。

 そこには、風に長い黒髪をたなびかせた、白い服の女が立っていた。

「あの人って……」

 晶は、彼女に見覚えがあった。舞浜の龍道に落ちたとき、千尋たちと共にいた〝白木優羽莉〟という女だった。

 すると樹里亜が、指に鈴の付いた組紐を絡め、

「あれは『英血の器』、それも歴戦の――数ではありません。私がやります」

 そう言って前に進み出た。

 優羽莉もまた、まるで隠れる様子もなく、まっすぐこちらに歩いてくる。そして声の届く距離まで近づくと、樹里亜に目を留めて立ち止まった。

「あなたがリーダー? 話には聞いてたけど、若いのね。なぜここを攻撃するの?」

「『鎮護国禍』が頭首、一条樹里亜です――逆に訊きます。あなた方は私たちが近づいただけで迎撃してきました。それはやましいことがあるからではありませんか? 例えば――」

 樹里亜は、初めから話す気などないとでもいう風に、印を組んだ。

「あなたと同じ、『英血の器』を匿っているとか」

「それを知ってるってことは、あなた、『教会』と――」

 優羽莉が眉をひそめて身構える。

「好きに想像してください」

 樹里亜は肩越しに振り向くと、不安そうに見つめる晶にうなずきかける。晶もまた、その視線を受けてうなずき返すと、

「皆、下がってください!」

 樹里亜が鈴を鳴らして血晶の帝衣を纏った。そのまますかさず五印を切り、念を込める。

「急急如律令――出でませい――〝ガブリエル〟」

 すると樹里亜の頭上に大きな血晶体が出現し、それが弾け、白銀の鎧を纏った六枚の翼の天使が降臨した。天使はゆっくりと優羽莉の前に降り立つと、

「私がお相手致しましょう」

 と、慇懃に頭を下げた。

 しかし優羽莉は、天使を見上げつつも血晶を纏わない。

「ここを攻めないでくれるなら、少なくとも私は抵抗しないわ。やる気が収まらないあなたの主人にそう伝えてくれないかしら?」

「申し訳ない。あなたを含め、全て・・を消滅させることが、彼女と私の望みなのです」

「どうしても……?」

「主に誓って――」

「そう……『教会』と手を組むことだけあるわね」

 そう言うと、優羽莉は数歩下がってから血晶のローブを纏い、ゆらりと上げた右手を上から下に下げた。その動きに呼応するように、宙に血晶体が現れ、紅い光を纏って〝狩魔威〟が姿を現した。しかしその服装はいつもの執事服ではなく、繊細な市松模様の描かれた和装を身に着けている。

 狩魔威は優羽莉の前に立ち、切れ長の細い目をさらに細くして、樹里亜の法衣に描かれた『破魔菱』の紋を見た。

「あれは……柳田と三矢澤みやざわの……因果だな」

「狩魔威?」

「いえ、問題ありません、お嬢様――行きます」

 そう言ったかと思うと、既にそこには狩魔威の姿がない。

 樹里亜も見失ったようで、周囲を警戒しつつ身構えた、その瞬間、バチィンと背後で何かが激しく炸裂した。

 振り向くと、狩魔威が紅く鋭い爪を伸ばした手を押さえて、凄まじい威力で弾き飛ばされたかのように足を踏ん張りずり退がっている。

 いったい、何に攻撃されたというのか――いや、これ・・か――気付くと、樹里亜の周囲に薄く金色に輝く羽根がふわりと舞っている。

「真っ先にロードを狙いましたか。やはり魔に連なるもの。やり方が姑息ですね」

 その羽根を仕掛けた当人であろうガブリエルが、初めに立った場所から一歩も動かず、首だけ向けてそう言った。

「上等だ」

 普段慇懃な口調で話すものの実はこうしやすい狩魔威だが、その和装といい、何か心境の変化があったか、妖然とした鬼気を浮かべつつも、至極冷静な表情で再び駆けた。

 その動きは、常人の目に見えはしない。だが見るものが見れば、それは若草色の風の糸を美しい弧なりに引いて、今度は相手の視界の広さを試すように、ガブリエルへと向かっていた。

 一方ガブリエルは、腕を胸で組んだままやはり動かずにいる――が、ちらりと片目を細めると、六枚の翼の内、一番上の一枚だけを羽ばたかせた。

 すると黄金の輝きと共に羽根が舞い上がり、その上空で、またもや激しく光が炸裂し――ドサリ、と再び狩魔威を地面に弾き落とした。

「無駄ですよ。私はしゅより天軍を預かる大天使が一人――あなたのような魔に後れを取るものではありません。ですので、もうこの辺で――」

 ガブリエルが片手をかざすと、その掌から眩い聖光が放たれ、横たわる狩魔威を包み込む。

「ぐっ……」

 するとその体から、内で炎が燻るような煙が立ち昇る。正しき者に祝福を与えるその光は、妖なるものを魔と断じ、滅するというのか。

「……っ!」

 優羽莉が思わず一歩踏み出すが、顔をしかめつつも一瞬、狩魔威が優羽莉に向けた目を見てぐっと踏みとどまる。

 すると狩魔威はぐぐっと身を起こしつつ片手でアスファルトを叩き割ると、そのまま腕を振って大風を起こし、砂塵を巻き上げた。

 濃い砂塵はガブリエルの光を遮る。その隙に、狩魔威はその場から転がるように飛び退って距離をとった。

「確かにすごいな。あなたのような大物と契約できるとは、そのお嬢さんはずいぶん強い力を持っているようだ。だが、〝ロード〟同士の戦いは、力の強さが全てじゃない――」

 そう言うと、

「――ひと風、奏上つかまつる」

 つむじ風が狩魔威をつつむように吹き上がり、その姿をすっかり覆ってしまう。そしてそれが晴れたあとには――誰もいない。

「………」

 ガブリエルは再び樹里亜に守護の羽根を纏わせると、全ての翼を大きく広げて目を閉じた。その翼で、風を感じているのか――だとすると、今の狩魔威の速度は、ガブリエルにすらも捉えられていないということか。

 すると、中段右の翼がふわりと揺れ、ガブリエルはその方向に黄金の羽根を散らばらせた。

 しかし羽根はすぅっと流れるだけで、そこには何の変化もない。

 続けて下段左の羽根が――同じように羽根を放つが、今度もそよりと羽根は宙を滑るだけだ。そこでガブリエルはそのまま糸人形を繰るように腕を交差させると、舞う羽根たちを動かし、自身の周囲全てを覆うように展開させた。すると、その内の一枚が、ほんの少し不自然に沈んだ。

 それを見逃さなかったガブリエルは、そこに向けて一気に全ての羽根を送りこんだ。

 やはりそこにいたか――迫る羽根に抗するように吹いた大風が、黄金の羽根たちを絡め捕って空中に大渦を作り出す。その中心には、柔らかな若草色の体毛に包まれた美しい風の獣が浮いていた。

 狩魔威の正体であるその獣は、そのまま風で羽根を吹き飛ばそうとしたが、そう簡単に済めばここまで追い込まれはしない。光持つ羽根たちは、それぞれが意思を持っているかの如く風が吹く方向に羽軸を向け、風を斬り裂いて獣へと迫った。

 だが、なんということだろう、獣はすぅっと身を細めると、細く狭い羽々の間を、流麗なうねる生きた風のようにすり抜けてガブリエルへと迫り、紅い爪の軌跡を走らせる。

 そこで初めて、ガブリエルはほんの少しだけ表情を硬くすると、両の掌を前面に向け、聖光を放った。

 果たしてこの速度であれば、狩魔威の爪は魔を滅する光の盾をも貫けるのか――。

「ぬぅ――‼」

 呻いたのは、ガブリエルの方だった。

 しかしその呻きは、痛みよりも驚きの方が大きかった。ガブリエルの目が、狩魔威ではなくそのロードである優羽莉を見る。

 彼女の手は、ゆらりと前にかざされていた。

 一方、狩魔威は直前で身をひるがえして聖光を避け、少し離れた場所に降り立っている。

 つまり、ガブリエルが衝撃を受けたのは背後から――見ると、上段の翼の内一枚が、光の粒子を漏らして折れかかっていた。そしてその傷をつけた者は――。

「へっへ~んだ! ぐ~ず天使ぃ~!」

 天使の背後で、白髪のざんばら髪に紅い飾り紐を下げ、大きな市松模様の和装を着た少年が、長く伸びた紅い爪をカチカチと鳴らしながら笑った。

 だがそこに、

「うわっと!」

 横から鋭い銀光が走り、少年は慌てて逆に横っ飛んで躱す。そしてそのままつむじ風に乗って一気に狩魔威の傍まで飛び退いた。

「大丈夫か、太刀たち

「うん。でもあんちゃん、あれ」

 その少年――狩魔威の弟・〝威太刀〟は、ガブリエルの後方を睨みつけていた。

 そこには、威風堂々と立つ獅子頭の戦士が威太刀の視線を撃ち返していた。その諸手に光る〝ジャマダハル〟が、先の銀光の正体であろう。

「すみません、サポート遅れました。捺羅僧伽ならしんは様、あの妖は素早い。油断なきよう」

 優羽莉と狩魔威、そしてガブリエルを結ぶ同軸上に立ち、全員の視線から身を隠していた樹里亜が、呼び出した獅子頭の戦士〝ナラシンハ〟の後ろから現れる。

「いいえ。こちらこそ、少し相手の力量を見誤ったようです」

 そう言ったガブリエルの前にナラシンハが立ち、ガブリエルはそれを援護するように黄金の羽根を展開する。

「一条さん、といったわね。対応が早いのね」

 優羽莉が樹里亜に右手をかざしたまま語りかける。

「あなたのことは聞いていましたよ、〝白木優羽莉〟さん――二匹で一組のあやかしを使うのですってね。警戒していたのですが、さすがのコンビネーションです。追いつきませんでした」

 樹里亜も負けじと優羽莉に印を向け返す。

「褒めてくれてありがとう。でもあなたの方は使い魔に頼りすぎね。少し経験が足りないのじゃないかしら」

「否定はしません。今、この場で学ばせていただきます」

 その強気な態度に獣の狩魔威が鼻を鳴らし、威太刀が、

「うわぁ、真面目っ子だぁ……」

 と場の空気にそぐわぬ呟きを漏らす。

 そして気付けば両陣、二体の使い魔に一人のロード、きれいに一線を境に分かれて互いに睨み合う。

「白木さん、確かに経験はあなたが上でしょう。しかし使鬼単体の強さであればこちらの方が上と見ました。しかも私はこれからの戦いに備え力を温存しています。それに比べ、あなたの紅輝はすでにずいぶんと疲弊している様子――それでも、まだやりますか?」

 樹里亜がさらに言葉を繋ぐ。言葉通り、この戦いを手打ちにしようというのか、それとも次に切り結ぶタイミングを計っているのか――。

「これだけあれば十分よ。私こそ、あなたがここから先に進むというのであれば躊躇しない。私の手は既に汚れきっているもの――それでもこの先には、私の新しい世界になるかもしれないものがある」

 優羽莉の視線が鋭さを増す。だが、

「あなたは――この東京にこれだけのことをしておいて、まだ守りたいものがあるのですか? そんなもの、私にはとっくにありません――」

 その言葉が逆に樹里亜に火をつけたか、

「だから、全部捨てきってみせます」

 その語気に、より強い決意を燃え立たせた。

 初めて自分の手に、自分の何かをつかもうと足掻く者。

 守れなかった者たちの為に、全てを捨て去ろうという者。

 二人の心と視線が火花を散らしてぶつかり合う。

 先に動いたのは、樹里亜だった。

「ゆらゆらとふるべ!」

 練られた樹里亜の紅輝が放たれると同時に、ナラシンハが駆けた。そしてその体を黄金の羽根で包みこみながらガブリエルが飛ぶ。何物をも貫く獅子聖王の刃に、鉄壁の防御を誇る大天使の翼、もはやそこに隙は無い。

「狩魔威、威太刀!」

 しかし、優羽莉もまた叫ぶ。

 獣の狩魔威が身を沈め、

狩魔かま太刀たち、〝壱之風〟――参る」

 鋭い風となり、身をうねらせてガブリエルの羽根をすり抜けナラシンハへと絡みつく。

 ナラシンハの聖剣は、魔性を宿す者であれば触れただけでも傷を負う。両の腕から凄まじい速さで繰り出されるそれを、狩魔威は数センチ単位の至近距離で躱してみせ、攻撃の機会を窺う。しかしナラシンハもさるもので、次第にその誤差が一センチ、数ミリと縮まっていく。

 次第に苦しくなってきたか、狩魔威は少し距離を取ろうとするが、気付くとガブリエルの羽根が数を増しており、いくら狩魔威といえどもすり抜けられる隙間がまるでない。これは、うまく誘い込まれたということか――。

 そしてさらに、

「陰――急急如律令‼」

 樹里亜が紅輝を炸裂させた。

 するとガブリエルの六枚の翼が輝き、ナラシンハ諸共、広範囲を聖光で包みこんだ。当然、ダメージを受けるのは魔性を持つ狩魔威だけだ。

 しかし、

「〝参之風〟――あんちゃん、お待たせ!」

 遠巻きに風を練っていた威太刀が、緑色の風玉を放った。

 それは聖光の中で焼けようとしていた狩魔威を包み、負っていた傷を全て癒してしまう。勢いを取り戻した狩魔威はその隙を突き、ナラシンハに風の鎌を浴びせかける。

「樹里亜!」

 ガブリエルが叫んだ。

「わかってます!」

 樹里亜はさらに紅輝を練り放つ。

 同時にガブリエルの翼がさらなる輝きを放ち、威太刀の癒しの風が、威力を増した聖光に削られて小さくなっていく。対抗するには、優羽莉もまた、より強いアルカナを放出するしかない。だが今、優羽莉にそれほどの力は残っているのか――。

「お嬢‼」

 威太刀が叫び、優羽莉が左手をかざした。

 そして、

「クリエイト――」

 樹里亜の背後に、紅い血晶が浮かんだ。

「〝弐之風〟――斬るよ」

 優羽莉が、その名を召喚んでいた。

「――〝〟」

 空中に現れた、白髪に桃色が差した長い前髪を横に分け、裃の着物を纏った少年が、一筋の紅い光を樹里亜に振り下ろした。

「そんな……三体目・・・……⁉」

 倒れ込みつつ、樹里亜が驚きに目を見開く。

「いけません樹里亜! 力を癒しに回してください!」

 即座にガブリエルが自ら血晶と化し、ナラシンハもそれに続く。

「くっ……ううっ……‼」

 樹里亜が大きく斬り裂かれた背を丸めて地面にうずくまりつつ、必死に印を組み紅輝で傷を癒そうとする。しかし傷は深く、血が止まっただけですぐに塞がりはしない。

 そんな樹里亜を、傍に立つ魔威太が見下ろした。

「あんたさ、あの『鎮護国禍』なんだってね……斬ってやってもいいけどさ、あんたも亥乃いのみたいに無理矢理戦わされてるのかもしれない。もうしそうなら言ってよ。もう、斬らないから」

 何かを思い、そう寂しげに告げた魔威太の頭に手が置かれる。振り向くと、それは人の姿に戻った狩魔威の手だった。狩魔威は仄かに笑みつつそのまま魔威太に下がるように促し、魔威太は恥ずかしそうに頭に乗せられた手を避けながら、威太刀の傍へと下がる。

 そして代わりに、優羽莉がその傍へと立った。

「一条さん、どうする? 想いは必要よ。でも、想いだけでも勝てない。続けるなら、私は最後までやるわ」

 その問いに樹里亜は返事をせず、身を震わせて下を向いている。


「樹里亜先輩‼」


 叫んだのは、遠巻きに戦いを見守っていた晶だった。そのまま晶は堪らずに駆け出した――が、すぐにその足が止まった。

 うずくまる樹里亜が、その目を晶に向けていたのだ。

 来てくれるな、と。

 立ち止まってしまったが、晶はそれでも、〝その先〟に行かないようにと手をのばした。

 その手を見た樹里亜は、弱々しくすまなそうな微笑みを返すと、

「やめませんよ……」

 再び立ち上がった。

「やめない……やめるもんか……たった一人になっても、私は、絶対に……‼」

 樹里亜が渾身の紅輝を振り絞り、大きく鈴を鳴らした。

 思えば、いつか樹里亜はこんな夢を見た気がする――想いの為に全てを失って、一人になって、それでも最後まで貫いて――。

 その強く、悲しく響いた鈴の音は、樹里亜からありったけの紅い光を引き出す。その光は少女の体を紅く包み、そして、変えていく。

 晶はがくんとその場に崩れ落ち、血が滲む程に強く拳を握って天を見上げた。

 その瞳には、彼女のみ三度目にすることになった、そそりたつ〝魔神〟の姿が映っていた。


    * * * *


 もう、どれくらい時間が経ったろうか。

 チユは必死に指を動かし、携帯端末にコードを打ち続ける。既に頭の中でプログラムは組み上がっている。あとはそれをただなぞるだけだ。せめてタブレットかフルキーボードがあれば倍以上の速度で打ち込めるのに、そんなものは当然ここにはない。この隔離ブロックにそれを届けてくれる者もいない。

 チユは時間を惜しみつつも、どうしても気になり、ちらりと目線を上げた。

 紅く、冷たい結晶体――『賢者の石』が、鈍く明滅を繰り返しながら変わらずそこにそそり立っている。

(光……さっきよりも少し強い?)

 しかし、この程度ならば問題ないだろう。それよりも――。

 チユはおそるおそるその下を見た。

(……よかった、まだ……)

 結晶体に取り込まれた咲山小梅は、今、首から右頬にかけて結晶に浸かっており、胸部はもう左の胸のふくらみが見えるくらいしか外に出ていなかった。そこが僅かに上下している。意識はないが息はしているのだ。

 あとどれだけ持つのだろう? 左腕はまるまる外に出ているが、どこまで取り込まれれば〝終わり〟なのか、それがわからない。心臓はとうの昔に浸かってしまっている。やはり脳が沈めば、それが最後か。

 ズン、と部屋が揺れる。

 白木優羽莉がこの実験ドームを去ってからけっこう経つ。断続的に続いている揺れはどんどん激しくなっている気がする。

(ユーリ……苦戦してるのかな)

 ズズン、大きめな揺れに、ディスプレイを叩く指が滑りミスタッチをする。

 バックスペースキーを連打するが、気が焦り、戻し過ぎて、打ったことのない舌を打つ。

 やるべきことは、活性化して小梅を取り込もうとする結晶体に、強化したジャマーを放射して沈静化させること。

 間に合うだろうか――間に合ったとして、本当に結晶体から救い出せるのだろうか。

 どうやら今、この研究所は攻撃を受けているらしい。コントロールルームも潰れた。電気は生きているので大丈夫だと思うが、どこで配線が切れているかもわからない。ジャマーは、動かないかもしれない――。

(状況、最悪だな……)

 なのにどうしてこんなに必死になっているのだろうと、自分でも不思議に思う。

 チユは人造人間であるが、そのスペックは一般の人間とそん色ない。それどころか、IQ、身体能力で言えばそれ以上である。感情やその表現は少し薄い面もあるが、一通りの自発的感情も持ち合わせている。しかし、これ程強い衝動に駆られたのは今が初めてだった。

 小梅を、どうしても助けたい――。

 舞浜で小梅を拾い上げたのは、ただの興味本位だった。全て処理されたはずの自身のクローン体が、〝外〟で、しかも一般の人間たちと行動を共にしていることに驚き、強い興味をもっただけだ。しかしこの数週間、小梅と共に過ごしてその気持ちが変化した。

 彼女に竹谷三月の面影を見たのも確かだった。

 チユは三月とグラマンの細胞から生まれている。ならば、そのクローンである小梅に、三月の遺伝的特徴が色濃く出るのもうなずけた――でも、それだけなのだろうか。

 そこまではチユも自覚していた。しかし、それ以上の何かが胸の奥にあるようにも感じていた。それがなにかはわからない。ただ、もっと一緒にいたい。もっと一緒にいれば、それがわかるのかもしれない――。

 ドンッと、今までにない大きな揺れが起こった。衝撃で天井に設置されていた照明が外れ、チユのすぐ傍に落ちる。それでもチユは動かない。

(あと少し……もう少し……もっと早く、正確に……)

 代わりに指を動かす。早く、より早く。

 額にぽつぽつと汗の玉が浮かび、それが流れ落ち――。

「ん……お、チユだ……」

 その声に、チユの指が止まった。

 思わずディスプレイから顔を上げる。

 見ると、口の右端の辺りまで血晶に沈んだ小梅が、にへらと笑いながら「よぉ」と左手を振っていた。

「コウメちゃん……意識あるの?」

「ん? ああ、うん。そうみてぇだな。あるある」

 小梅は残った左手で結晶体をぺたぺたと触りつつ、自身の状態を確認する。

「あはは、なんかすごいことになってんな……チユは、なにしてんだ?」

「今そこから出してあげる。待ってて」

 チユはそう言うと、再びコードを打ち始める。

 希望が湧いたか、その指はさっきよりも軽快だ。

 だがさらにひどい揺れが起こり、少し離れた場所に再び別の照明が落下する。

「うぉっ、あぶね! チユ、なんかヤバそうだし、逃げた方がいいんじゃねぇか? さっきも言ったけど、あたしならいいからさ……」

「……よくない」

「でもよ、ほら、怪我しちまったらあれだろ?」

「知ってるでしょ。そんなのすぐ治る」

「………」

 頑なにその場を去ろうとしないチユを、小梅はじっと見つめて、

「……なんで、そんなにしてくれんだよ」

 そう訊いた。

「わかんない。でもそうしたい」

 指を動かしたまま、チユがそう答える。

「あたし、失敗作だぞ?」

「そんなの関係ないよ――」

 チユの指が少しだけ遅くなり、

「ただ、チユはコウメちゃんと一緒にいたいだけ」

 それを聞いた小梅はきょとんとした顔をしたが、すぐに口元が緩み、

「へへ、なんか……嬉しいな」

 そう鼻を掻こうとして、コツンと指が結晶に当たった。

 するとそのまま横目で結晶体を見て、コツコツそれをつつくと、何かを考えるように上を向き、

「――でも、やっぱもういいよ、チユ」

 穏やかな顔で、そう言った。

「……なんで?」

 チユはその顔を見ていない。しかし頭には、黒々とした嫌な予感が渦を巻いていた。

「う~ん」

 小梅はすぐに答えず、

「ほらよ、そもそも、クローンはみんな処理されんだしさ」

「コウメちゃんは処理なんかさせない」

「でもよ――」

「急いでるの。黙って」

 小梅は口をつぐみ、そして少し間をおいてから、

「――無いんだよ」

「………」

 その言葉を、チユは恐れていた。可能性は充分あるのに訊かなかったし、それだけは、考えないようにしていたのかもしれない。

 チユは指を止めて小梅を見上げる。

「たぶん、こっから先が無い・・

 小梅はすまなそうにそう笑って、結晶体をコツコツと指で叩いた。

 チユの端末を持つ手が僅かに震える。

 それでも、チユは――。

「……そんなの、生きてる・・・・ならチユがなんとかする」

 再びコードを打ち、

「チユは完璧だから……きっとできる!」

 そう言って、力強く端末のエンターキーを押した。

 とうとうプログラムが完成したのか、ディスプレイには、ジャマーシステムのスターティングメッセージが点滅する。

 しかし同時に、にわかに結晶体の輝きが増し、小梅の体が結晶体に沈み込む速度が増す。

 小梅は残る体に力を入れて、できる限り首を左に倒し顎を上げるが、口を残し、顔の右半分が埋まってしまう。

 その直後だった。ヴゥゥゥンと、低く、空気を震わすような音が流れた。その発生源は、結晶体を囲うようにドーム壁面に据え付けられたECM波動照射装置――ジャマーが起動したのだ。

「……動いた」

 チユが結晶体を見る。

 明滅した光がにわかに弱まっていき、結晶体に沈みこもうとする小梅の動きが止まった。

 しかし、止まっただけだ。浮かび上がってはこない。

「………?」

 それどころか、暫く後に、再び沈み始めてしまったではないか。

「………っ⁉」

 チユは急ぎ端末のステータスモニターを確認する。挙動に問題はない。出力もしっかり元の十倍近く出ている。

「なんで……」

 もう一度結晶体を見上げて、チユは気づいた。

 違うのは、結晶体の方だった。その輝きが、いつの間にか想定よりもはるかに強くなっている。

(なんで……さっきまでこんなじゃなかったのに……)

 いったい何が起きているのか――小梅は完全に〝同化〟していないから、まだ〝起動〟はしていないはずだ。つまりは外的要因――〝何か〟に反応しているのだとしたら――。

 チユは天井を見上げた。

(上で起きてる、何か……でも……!)

 チユは端末を投げ捨て、小梅の腕を掴んで引っぱった。

 しかし小梅の手には、

「チユ、もういいって」

 もう、力が入っていない。

「なんで、さっきからそんなことばかり……」

 それでもチユは腕を引っ張るのをやめない。

 小梅はそんなチユを残った左目で優しく見つめ、

「だってさ――あたしもうすぐ〝寿命〟だから」

 そう笑った。

「……知ってたの?」

「そーりゃ知ってるさ それが最大の〝失敗作〟の理由だもんな。こんなに感情豊かさんなのによ、もったいねぇよなぁ」

 小梅の腕を取るチユの指に、力が入る。

「さっきも言ったけどさ、お前といるの楽しかったんだ。それこそじーちゃんと並んで、今までで一番くらい。知ってるか? 楽しいってのは〝人として一番大切〟なことなんだぞ? お前はその一番の一番をゲットってわけだ。もっと長生きして、お前といっぱいゲラゲラ笑いたかったけどよ……」

「じゃあ寿命もチユがなんとかする……チユはまだそのゲラゲラやれてないもん」

「無茶いうなよ……それにな、わかってねぇかもしんねぇけど、お前もここ最近でずいぶん成長したんだぞ?」

「してない」

「したさ、このあたしが教えてやったんだからな。まだちょぴっとだけど、見た目にわかるくらい、笑って、悔しがって、怒るようになった」

 小梅がにかりと笑いかける。

 その笑顔に、チユの胸の奥が熱くなる。

「じゃあもっと練習する……もっと一番になるよ。だから、チユと一緒にいて……もっとチユに教えてよ」

(あ……)

 そこでチユは、はたと気付いた。 

 チユには好きな人たちがいた。

 ママとパパ――二人はチユに、温かな目で一緒にいようと言ってくれた。他にそんな人はいなくて、だから二人を好きになった。そんな二人を喜ばせたくて、もっと何かしてあげたい、できるように変わりたい、いつもそう思っていた。

 けれど二人は、一緒にはいてくれても、完璧なチユに変わることを望まなかった。

 チユは、本当はもっと〝人〟になって、もっと一緒にいて、ちゃんと好きな人を、相手が思う以上に喜ばせたかったのに。その人たちは、それをチユに求めなかったのだ。

 しかし小梅は違った。チユと共に過ごしながらも、自然とチユに沢山のことを望んでくれた。チユにはそれが、堪らなく嬉しかったのだ。

 チユは今の気持ちを表に出したかったが、やはり、どうのように顔を動かせばいいかわからなかった。だからじっと小梅の顔を見て、ただただその腕を強く握った。

「いてて、んじゃあわかったよ。残り時間は笑う練習だな。ほれ、やってみろ」

「やだよ……」

「こうな、〝あっはっはー!〟」

「やれない……」

「ほれ、〝あっはっはー!〟」

「……できないよ」

「なんだよ、ほーれ〝あっはっはっはー!〟」

「できないって! ばか!」

 チユが、ほんの小さな声だったが、それでも声を荒げてみせた。

 小梅はそれに目を丸くし、笑ってやろうとしたが、同時に頭が結晶体に引っ張られて、首に力を込めるので精一杯になってしまった。

「……今の……すごいじゃん。でもあともう少しだなぁ」

「そうしたいよ……チユだって思い切り表現して、伝えたい……」

 チユが顔を伏せる。

「今の気持ちを出したい……チユも大声で泣きたいよ。アニメとか、マンガみたいにしてみたいよ。でも泣けない――コウメちゃんみたいに、泣けない」

「あたしみたいに……?」

 そこで小梅は、初めて自分の頬を伝う〝何か〟に気付いた。

 冷たいそれが、何度も目から溢れ、流れ落ちていく。

「あれ……これってさ……」

 それは、彼女がこの世に生まれて、初めて流す涙だった。

「これが……〝悲しい〟なんだ」

 小梅が、チユの腕を握り返す。

「……そっか。こんな風にあたしに構ってくれんの、じーちゃんだけだったもんな。感情って、たくさんもらうと、たくさん返せるんだなぁ。やっぱ、お前ってすごいんだな」

「……すごくなくていい……チユはコウメちゃんみたいになりたい」

 チユもさらに指に力を込める。

「あはは、むしろあたしはお前になりたいよ。完成品になって、長生きしてさ……もっと時間があれば、もっと教えてやれたのに……ああ、そうか……じーちゃんも、あんときこんな気持ちだったのかもな……でも……やっと〝悲しい〟できたけど、こりゃひどいや。じーちゃんが〝悲しい〟教えないわけだ……こんなんだったら、あたしは感情なんか……いらなかったや」

 そういって、泣きながら笑った。

 しかし――。

「こんなのやだ……」

「チユ……?」

「やだ……許さない」

 様子が――おかしい。

 小梅の腕を掴む指に、その皮膚を貫かんばかりに力が込められていく。

「つっ……おい、どうしたよ⁉」

 チユの昂ぶりに反応するように、結晶体が紅い輝きを増していく。

「チユ!」

「……許さない……こんなの許さない、許さない!」

 突然、チユの体に変化が起こる。肌が浅黒くなり、体のいたる所に赤い筋が走り始める。この昂ぶりは、紅い光は、その禍々しさは――チユもまた、魔神に変わろうというのか。

 しかしそこで、

「あはははは!」

 小梅が、笑った。

 とても大きな口を開けて。

 変じていくチユが、それに一瞬気を取られる。

「なーんだその顔! やめてくれよ! 最後にそんなん見せんのさぁ」

 そして震える左手で、チユの右目に浮かんだほんの小さな涙の粒を拭うと――アルカナを吸う結晶体の力を利用しているのだろうか――そこから紅い光を吸い取っていく。そうするうちに、チユの昂ぶりが抑えられ、包む光もだんだんと弱まっていき――。

「ふぃー、これが、限界かな……ちっとヘンテコ・・・・になっちまったけど……少しはマシになったよ。へへ、その方がかわいいぞ」

 小梅はそう笑ってチユの頭を撫で、力を抜いた瞬間に、とぷんと、一気に結晶体に飲み込まれてしまった。

「あぁ……」

 チユの指が、掴んでいたはずの腕を探して宙をまさぐる。

「う……」

 そして、もう既にそこに掴めるものはないと気づき、

「ううぅ……」

 肩を怒らせて力強く指を握り込む。

「ふぅううううううう……!」

 そして人が泣くような、人で無いものが唸るような、そんな呻きが響き渡った。

 やがてその呻きは、再び紅い光となって爆発し、結晶体の放つ輝きと混ざり合って、ドームを濃い真紅に染めた。


    * * * *


 大地が鳴動し、大気が轟と唸りを上げて吹き荒ぶ。

 荒れている。荒れ狂っている。今この街は、凄まじい怒りと嘆きに満たされた〝想い〟の嵐に吹き晒されていた。悲しみをもたらすあらゆる〝力〟、それら全てを滅せんと望むその嵐は、異形の姿を成してそこに現れた。

「アアアアアアアアアア!」

 〝力〟ある者を壊せ、滅ぼせと、激しく泣くように咆え上げるそれは、〝魔神〟――紅き力を持つ者に潜む、〝想い〟の化身――。

 それが足を踏み出せばその地は溶け、腕を振れば当たるものは全て砂と化した。それほどまでに憎いか、それほどまでに悲しいか、どうして許せぬのか、そう言葉を交わせるものなどもういない。だから魔神は咆える。物、人、神魔霊獣、なんであろうと、〝力〟に加担する者は滅ぼせと――。


 一条樹里亜が変わり果てたその姿を、原吹晶はただ、愕然と見上げることしかできなかった。同じく直接それを目にした衛士たちは、自分たちが目にしたものを現実と受け止めることができず、ある者はその場に座り込んで項垂れ、ある者は何やらブツブツと呟き出し、ただ呆けたようにその場をうろつくことしかできないでいた。無理もなかろう、自分たちが人生を懸け、正道と信じて歩んできた道の先に立つその象徴が、倒すべき破壊の権化であると知ったのだから。

 離れた場所で状況を知った衛士たちは、遠方に見える巨大なそれに目を疑いつつも、『一十』の異変を伝え広げ、それを聞いた者たちは皆、大義を見失い、正義と信じた拳を力なく下ろした。

 こうして樹里亜の想いは成った。しかしその為に、自らに課した罰があの姿だというのならば、それは悲し過ぎた。あの年若き可憐な少女をそこまで追い詰めた怨嗟の念は、やはり、長き人の歴史が澱み溜めてきた呪いであるとしか思えなかった。


 僅かに右にカーブした中央通りの先に、咆哮を上げる巨大な魔神の姿が見える。

 白木優羽莉は、残りの力で魔神に抗するのは不可能と悟り、狩魔威たちの風に運ばれて日本橋川の手前まで後退していた。周りに使い魔はおらず、既に血晶も解いている。実験ドームから続く連戦により力は尽き、もはや血晶を纏うことすらできないのだ。ピルケースから〝抑制剤〟を取り出す彼女の手は、その激しい疲労から震えている。しかしそれには、今目にしているあの魔神への恐怖も含まれていた。

(……やっぱり、彼女も『器』だったんだ)

 その姿は間違いなく、舞浜で水上晴が変異した魔神そのものだった。

 その状態を、グラマンは〝暴走〟と呼んでいた。体内のアルカナ因子を過剰に活性化させ過ぎると、自身と異界の記憶とが混ざりあって自我が崩壊し、アルカナ因子がもたらす〝情報〟に細胞が支配され、変質してしまう――そう聞かされていた。そうなった場合、たいていの人間は、何かしら共鳴した波動と同位相の『クリーチャー』へと変異するのだが、彼女たち『英血の器』だけは、どうやら皆ああいった姿に変異するようだった。

 なのでそうならぬよう、AVALの『器』たちは抑制剤を投与して共鳴侵度を抑えたり、キャンセラーで共鳴波をシャットアウトするなどして暴走を抑えていた。しかしそれにも限界があり、何度も〝力〟を揮いアルカナ因子を活性化させすぎると、体内の因子が増殖してゆき、いつかは同じ状態になる、というのが現状だった。

 仲間たちの中で一番〝力〟を使う頻度が多かった葵順は、誰よりも早くそうなってしまった。優羽莉ももう、いつ変異が起きてもおかしくはない状態であり、慎重に力を使う必要があった。

 そういった意味で気になるのは樹里亜の暴走だ。戦ってみたところ、樹里亜は優羽莉たちほど実戦的に〝力〟を酷使してきているようには見えなかった。『鎮護国禍』の術士ということであれば、修行などが影響しているのかもしれないが、もしかすると、変異のメカニズムには、優羽莉たちも知らない何かがあるのかもしれない。

(私も、いつああなるか……)

 不安はある。だが、前に進むと決めた今、躊躇してもいられない。

 優羽莉は取り出した抑制剤を飲み込みつつ、改めて魔神の動向を窺った。

 その視線は、まっすぐこちらを向いている。しかし優羽莉を探し、追っているようには見えない。暴走状態であれば、既に元の意識はないはずなのだ。しかし優羽莉は、あの魔神に、ああなる前の少女と同じ強い〝想い〟のようなものを感じてならなかった。

 魔神はいったい何を見ているのか――樹里亜と同じく、その〝想い〟を向けるべき何かが、ここにあるというのか――。

 そのとき、大地が大きく跳ねた。

 優羽莉は魔神が何かしたのかと思い目を凝らしたが、むしろ、後ろに強い〝力〟を感じ、振り向いた。

 その視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 いや、歪んでいるのは視界ではない。目に映る風景そのものだ。日本橋川の上を走る高速道路が下から持ち上げられ、熱を当てた飴細工のように歪み、盛り上がっているのだ。やがてその強度にも限界がきてボコンと音を立てて道路が割れ、その原因となったものが姿を現した。

 そこには、高さ十メートルはあろうかという、巨大な赤い結晶体が浮かんでいた。

「‶賢者の……石〟……?」

 それは研究所地下実験ドームに設置されていた、あの結晶体――『賢者の石』であった。それが、強い輝きを放ちつつ、地下より五十メートルという厚さの地面を溶かし進んで、ここまで浮上してきたのである。

 グラマンは、『賢者の石』に咲山小梅を同化させ、〝起動〟させると言っていた。あれがその状態なのだとすれば、果たして、そこにいた小梅やチユは――。


 一方、魔神は遠くに浮かび上がった結晶体をじっと見つめると、身を震わせ、

「アアアアアアアアアア‼」

 大きく咆えて駆け出した。

 結晶体もまた、その咆哮に反応するように光り輝いた。

 そしてその輝きは徐々に光量を増していき――その一部が、いっそう眩く紅い光の爆発を見せたかと思うと、そこから何かを吐き出した。

 速い――凄まじい速度で轟々と音を引き魔神へと飛ぶそれは、〝火球〟だろうか――魔神はそれを身を捻って躱すと、火球がそのまま真っ直ぐ背後の街へと吸い込まれていく。

 そしてその瞬間――それを目にしていた者たち全ての視界が真っ白に染まり、後れて耳をつんざくような轟音が街全体を震わせた。

 視界が戻ると、空に巨大な対流雲が立ち昇っており、その下、数百メートル四方の街が一瞬で消え失せていた。

 恐ろしいまでの破壊、これを行った者とはいったい――。

 その者は、結晶体の前で輝く紅い光より姿を現した。

 ごつごつと鉱物のような皮膚に覆われた体――猛々しく太く捻じれた角――全てを灰燼と化さんとする意志を、まま現したような、赤き翼――。

 その姿は、まさしく竜――しかもただのそれではなく、竜たちの皇を思わせる風格を湛え、そこに存在していた。

 

「……〝バハムート〟……」

 頭上に現れた竜を見上げ、優羽莉はそう呟いた。

(だとしたら……)

 優羽莉は目を凝らす。

(――いた!)

 『賢者の石』とともに突如現れた竜皇バハムート、その手の上に、人の姿があった。

 それはチユだった。しかしその様子はどこかおかしい。感じる〝力〟の強さもそうなのだが、それよりも――。

(どう……なってるの……?)

 優羽莉の目に映る彼女の姿は、サイズこそ人のそれであったが、その左半身が、まさに遠くに佇む魔神を思わせる姿に変異していた。


 黒々とした曇天の下、威風堂々と空中に佇むバハムートの手の上で、チユは魔神を見下ろした。

 そして冷たく目を細めると、

「――君の所為・・なんだね」

 そう言って、髪に隠れた右の瞳に紅い輝きを湛えた。

「バハムート――〝メガフレア〟」

 アルカナを秘めたその言葉を受けてバハムートの胸が大きく膨らむと、そこに蓄えられた熱エネルギーが長い首を伝って昇って行き、口元まで達したところで一気に吐き出された。

 まさに先程と同じ火球が魔神へと迫る。

 しかし魔神はその火球をしっかと見据えたまま、

「ゥゥゥァァアアアア」

 巨大な爪を備えた手に紅い光を蓄えると、火球が当たる直前にそれをブンと振ってはたき飛ばした。それにより九十度進行ベクトルを変えられた火球は、落ちたその先でまたもや大爆発を起こす。しかし魔神はその爆発には目もくれず、すぐさまもう片方の手をぐぅっと振り上げると、そこにも光を蓄え思い切り振り下ろした。

 爪先が音速を超えたか、バウンッと空気を斬り裂く破裂音が響き、蓄えた光が衝撃波となってバハムートへと飛んだ。

 チユはそれをまともに受けるのはまずいと断じ、

「飛んで」

 バハムートに指示を出す。一気に翼を広げたバハムートは、なんとたった一度の羽ばたきでトップスピードに乗り、同時に届いた衝撃波を見事避けきった。

 しかし、魔神はまだ攻撃の手を休めてはいない。先程腕を振り下ろす合間に、火球をはじいた腕にまたもや光を蓄え、上空で減速するバハムート目がけてさらに続けて衝撃波を放つ。バハムートの広い視野はそれをしっかり収めていたか、衝撃波が来る直前で尾と翼を傾けて体を捻り、それをまたもや避けてみせ、さらに羽ばたいて速度を上げた。

「アアアアア‼」

 魔神はそれでも止まらない。両手に光を蓄えると、それを何度も振り回し、下から降りそそぐ豪雨のようにバハムートに衝撃波を打ち続ける。

 だが、

「もっと、速く!」

 チユの瞳が真紅に染まり、そのアルカナを受けたバハムートはチユを握り込むと、亜音速を維持したまま、縦横無尽に宙を翔けまわり、その全てを避けきってみせた。そして、

「――今!」

 どういう原理か、翼を広げて魔神の直上で急停止すると、三たび口腔の奥に星核の熱エネルギーを集積し始めた。

「アアアアアアア‼」

 撃ってみろととばかりに魔人が上空に向かい咆えあげる。

 ならば喰らえと重低音を響かせて、火球が撃ち降ろされる。

 魔神は上体を屈めて両腕を引き絞るとその爪にさらなる光を蓄え、相打ち覚悟で何かを撃ち出そうとし――そこで、何を思ったか、溜めた片方の手の光を拡散させ、もう片方の手で降って来た火球をただはたき返した。

 その視線は、地面の何かをちらりと見たか。確か、元々そのあたりには鎮護国禍の衛士たちと、そしてもう一人、晶が――。

 だが、上空の竜皇にそのようなことは関係しない。バハムートは、火球が駄目ならこれはどうだと、口腔内で火球を噛み砕き、細い熱エネルギーの雨を降らせる。確かに、これであれば魔神といえど弾くことはできまい。

 魔神はすかさず腕をクロスさせて防御姿勢をとり、降り注ぐフレアの雨に耐えた。

 バハムートはこれを好機ととらえたか、同じ攻撃をさらに二度、三度、四度と繰り返す。

 魔神は動かず、その場でやはり身を守り続ける。

 確かに一発ごとの威力は小さい。しかしこう重ねられては、身は削れ、次第に守る腕も焼けただれ、いつかは膝を突くことになるだろう。ならばその場を動けばよいのだが、魔神は、何かを守り続けているかのようにじっとその場で耐え続けていた。

 このまま押し切れるか――チユは、フレアの出力を上げようと、体内のアルカナを燃え立たせ――いや、違う。爆ぜる爆炎でよく見えていなかったのだが、よく見ると、身を守る魔神の腕の片方が、いつの間にか煌々と紅く染まっていた。

「駄目だ……バハムート!」

 チユはその狙いを察し、バハムートに指示を出す。するとバハムートはなぜか爆撃をやめ、そのままドンと空気を蹴って一気に横に加速した。

 その向かう先は、『賢者の石』か――。

 同時に、魔人が紅い結晶体に向かって衝撃波を放った。

 究極の破壊者同士のぶつかり合いと思われたその戦いは、意外にもそこで、あっさりと決着がついた。

 『賢者の石』に届こうとした衝撃波は、そこにぎりぎり身を滑り込ませたバハムートによって防がれた。

 しかし、バハムートの体は大きく斬り裂かれ、血晶に戻りながら落下し、地面に激突すると共に、粉々に砕けた。

 

 上空より落下して砕け散ったバハムートの血晶片の中を、優羽莉が駆ける。

 左右を何度も見回し、誰かを探しているのか――するとその目が一点に止まった。

 そこには、チユが横たわっていた。

 優羽莉は急ぎ傍に駆け寄り、その体を抱きかかえる。

「チユ……しっかり!」

 チユの体は衝撃波のあおりを受け、胸から腿にかけて大きくざくりと削られていた。

 彼女なら、それほどの傷であっても普段であれば塞がるのだが、あの魔神が『英血の器』であった以上、それは〝アルカナの力〟によりつけられた傷である。不死身に近い生命力でなんとか息を繋いではいるものの、その呼吸は短く、浅く、明らかに厳しい状態に見えた。

「……ユーリだ……失敗しちゃった」

 チユが薄く目を開けた。その様子からして、見た目は魔神化していても、意識はちゃんとチユのままのようだった。

「……さっきのやつは?」

 魔神のことだろうと、優羽莉は遠くに屈むそれの様子を見る。

「ダメージがあるみたい。まだ屈んでじっとしているわ」

 チユは少し安堵したように息を吐くと、頭上に浮かぶ『賢者の石』を見上げた。

「ユーリ、あの石を守って……あれにね、コウメちゃんが……」

 その一言で優羽莉は、浮上した『賢者の石』と、チユのこの姿の理由を瞬時に察した。

「……そうなのね」

 チユのことを思えば、できればその想いを叶えてやりたい。

 しかし、もうすでに優羽莉の力も尽きているのだ。

「ごめんなさい、チユ……もう私も――」

 そう言いかけたところに、目の端で不吉な影が動いた。

 優羽莉が顔を上げると、もう回復したのか、魔神がゆらりと再び立ち上がっていた。

 その垂らした両腕にはすでに紅い光が蓄えられており、それがぐぅっと力を込めて振り上げられる。そして魔神の目が結晶体を捉え、衝撃波を放とうと胸をそらしたそのとき――。

 その胸、足、腕、様々な個所から紫色の炎が噴き上がったかと思うと、魔神は、一度身を震わせてからがくんと膝を突き、前のめりに倒れ込んだ。


 大きく地面が揺れたことにより、近くの脆くなっていたビルの壁面が崩れ、晶は思わず頭を抱え、目をつぶってしゃがみ込んだ。あちこちで瓦礫が落ち、砕ける音はしたが、運よく自分には当たらなかった。晶は少しだけ安堵しつつも、自分を叱咤した。まだ緊張を解くことはできない。彼女はこの戦いを――樹里亜の覚悟と想いの行く末を見守らねばならないのだ。

 凄まじい戦闘だった。しかしその結末は意外なもので、最後は押していたように見えた竜が、魔神の放った苦し紛れの攻撃をなぜか自ら受けにいき、墜落してしまった。

 そして、傷を回復させて再び立ち上がった魔神は、相手にとどめを刺そうというのか、腕を振り上げ衝撃波を放とうとして――その続きを確認しようと、晶はおそるおそる瞼を開いた。

 目を疑った。

 さきほど立ち上がり、攻撃を放とうとしていた魔神が、なぜか突っ伏して倒れているのだ。しかも体の各所からは、めらめらと紫の炎が噴き上がっている。

(なに……なんなの⁉)

 そのとき、悍ましい気配が背筋を舐め、晶は魔神の後ろに目をむけた。

 そこに、黒々とした闇が蠢いていた。闇は次第に形を成していき、やがて巨大な〝何か〟になった。

 竜のような、人のような。神のような。魔のような。石像のように硬質な口から紫の炎をちろちろと覗かせる、見るも禍々しいそれを何と呼ぶべきか。樹里亜が変異したあれを〝魔神〟と呼ぶのなら、それを言い表すには〝邪神〟というのがしっくりくる。

「はい! 〝アフラ・マズダ〟先生、ご苦労さんです!」

 突然、場の空気にそぐわぬ陽気な声が聞こえた。

 晶は瓦礫に身を隠し、声のする方を覗いた。

 見ると、邪神の脚の間から妙にゆらゆらと体を揺らしながら男が歩いてくる。そのフードを被った男は、倒れ込んだ魔神の傍によると、

「お前、やりすぎー」

 と指さした。

「いやさ、チユ倒してくれるとか、いい仕事したとは思うよ? 正直、あいつが一番やっかいだと思ってたんだよねぇ。でもよぉ、〝あの石〟壊しちゃだめだろぉ? 『要石』と共鳴させりゃ、『大共鳴』まで起こせる優れものよ? あれはオレらで再利用させてもらうんだからよぉ。そもそもこっちゃその為に技術提供したんだし。まぁなんだ、とにかくお疲れぇ……さんっ!」

 そう言って思い切り魔神の巨大な足の裏を蹴ると、その体が紅い光を帯びていき、端の方から消滅していく。そして最後に、小さな血晶の欠片が残った。

 男はそれを見ると、「うほっ」と手をすり合わせて笑みを浮かべ、血晶に近寄っていく。

 その様子を見ていた晶は、

(なんだ……あいつ……)

 猛烈な怒りがこみ上げた。

 その男が何者で、樹里亜とどういう関係なのかはわからない。しかし、樹里亜の想いと命を懸けた生きざまを、先程のように笑い、侮辱することは絶対に許せなかった。

 鼻歌交じりに軽くステップを踏んで歩く男が立ち止まり、足元に転がる血晶に手を伸ばそうとした、そのとき、

「それは渡さない!」

 男の後ろから猛然と駆け入ってきた晶が、先に血晶に手を伸ばした。そしてその血晶を掴んだところで、

「ぅぐうっ!」

 晶は腹に強い衝撃を受け、その場に転がった。

 見上げると、男が冷めた目で、しかし口元はニヤついた笑みを浮かべ、見下ろしていた。

「見てたのー? はっずかしいなぁ。ま、気付いてたけど」

 そして晶のショルダーバッグに手を伸ばし、

「はーい、所持品検査しまーす」

 と奪い取りファスナーを開く。中には、複数の〝血晶〟が入っていた。

「おほー。ざっくざくじゃねぇの! いやー儲けた儲けた」

 そう言って、晶の手からむしり取った樹里亜の血晶と、懐から取り出した血晶をまとめてリュックに放り込む。

「正直、こっちは《器》を一個でもがめることさえできりゃいいんだけどよ、〝保険〟は多いに越したこたねぇ安全主義ちゃんなんだ、オレは」

「返……せよ」

 腹を押さえ横たわる晶が、顔を歪めて男に言った。

「はい?」

「返せ――ぐぅ!」

 恨めし気に睨みつけるその頭を、男は無慈悲にも黙れとばかりに無言で踏みつける。

 そしてそのまま、人差し指と親指で輪を作ると、それを覗き込んで結晶体の方を見た。

「あー、いたいた。ユーリとチユだわあれ。そんじゃ頼んますわ旦那! 細っこいのでいいんで、あいつら軽ーくぶち抜いちゃってください!」

 そう上を向いて大声で話しかけると、邪神――アフラ・マズダはゆっくりと結晶体へと頭を向け、その黒い石の翼に禍々しい紫怨の焔を灯した。


 突如崩れ落ちた魔神、そしてその奥から現れた新手に、優羽莉は目を見張った。

 巨大なあの怪物が何かはわからない。しかしその禍々しさは、決して味方などではないと彼女の勘が告げていた。

 それに、優羽莉はああいう雰囲気をもった存在に何度も会ったことがある。

(――あれはきっと、『混沌』の何かだ)

 優羽莉の頬に冷や汗が流れる。

 そしてその流れた汗を意味のあるものにしてやろうとばかりに、怪物の背に広がる黒い翼に紫の光が灯った。

 光は次第に輝きを増していく。明らかに攻撃の力を溜めているのだ。

 しかし優羽莉には、それを防げるだけのアルカナも、チユを抱えてここを離れる体力もない。もはや今できることはこれだけと、優羽莉は抱きかかえるチユに覆いかぶさった。

 然して暗黒の翼より、邪悪の焔は放たれた。

 周囲に激しい炸裂音が響き、閉じた瞼の上からも、眩しい光が視界を徐々に白く染めていく――しかし、

「……無事……なの?」

 体には何の衝撃も感じなかった。

 ゆっくりと目を開ける。やはり、自分たちの周囲に破壊の跡はない。ただ、暗い曇天の下にもかかわらず、辺りがとても明るかった。

 優羽莉が顔を上げる。

 すると目の前に、巨大な盾を構えた白銀の巨人が、二人に背を向け立っていた。

 そして、

「――ありがとう、〝イージス〟」

 すぐ後ろから、よく知る青年の声がした。


    * * * *


(くっそ、こいつっ……!)

 晶は自身の頭を踏みつける男の足を振り解こうともがく。くさっても晶は全国で戦えるほどのトップアスリートだ。筋トレだってしっかりしている。なのに、巨漢というほどでもない男の脚はビクともしなかった。

 それでも諦めず、もう一度気合いを込めて力を入れようとした、そのとき、ふっとその腕から力が抜けた。

 誰かが、晶に何かをしたわけではない。

 晶の目に映ったのだ。

 遠くに突如現れた、白銀の巨人が。

 その巨人に晶は見覚えがあった。その〝使い魔〟は、少しの間であったが、共に東京をさまよい、戦った仲間のものだった。

(間違いない……〝千尋さん〟だ!)

 同じく巨人を見たフードの男――バン・ドレイルは、腕を振ってあからさまな悪態をついた。

「おいおいなんだあれ! どっから湧いて出てきたよ! あーうぜぇ! あーやってしれっと途中から出てきて全弾防いじゃう奴とはマジお友だちになれねぇわ! 先生、きっとあれ相性ぐんばつっすから、とろっとろに溶かしちゃってください!」

 それに合わせて晶を踏みつける足も動くので、ぐりぐりと地面に押し付けられてかなり痛い。だがその分、男の意識は完全に遠くに現れた標的に向いていた。

(今なら……)

 晶はまず、辿り着くべき目標――千尋がそこにいるであろう〝イージス〟までの距離を目測で測る。

(直線……約千メートル、障害多数……)

 そしてできるだけ目を横に動かして、邪神の翼に再度灯った紫の炎を見る。

「おーら、よーく狙って狙ってぇ~」

 次いで敵に夢中になっているバン・ドレイルを確認し、膨らみ始めた炎に目を戻す。

(ゲットセット、レディ――)

 炎は揺らめき、輝いた。

「撃ておらーーー‼」

「ゴーーーーーー‼」

 バン・ドレイルが興奮して足が浮いたその一瞬、さっと頭を抜いた晶は、手に持っていたバッグをひったくり思い切り駆け出した。

「ああああ! てんめぇ! ドロボおおお!」

 背後でバン・ドレイルがふざけた叫びを上げている。

 だが、絶対に油断はならない。言葉は緩く不真面目な感じの男ではあるが、その心は恐ろしく冷たい。あれはただ〝フリ〟をしているだけで、そこには一片の感情もないと思えてならない。

(……あいつはヤバい)

 だから、

(止まるな! 全力でゴールまで走り切る!)

 晶は渾身の力で地を蹴った。


 一方、バン・ドレイルは、空になってしまった手を見つめ、フードの上から頭を掻いた。

「あー、やっべーなぁ……こーんなお粗末なの、ババアとポーに知られたらまーた何言われっか……」

 そうぶつくさと呟いてからアフラ・マズダを見上げると、

「あのー、アフラ先生はそのままあそこの巨大ロボ攻撃しててくださーい。オレ、ちょっと諸事情あってー、あっちのちっこいのやりますわ」

 そう言って、既に小さくなりつつある晶を睨みながら虚空をまさぐり、そこから魔導書グリモアを取り出した。


 中央通りを京橋交差点から永代通りまで、まっすぐ、一気に走る。

 だが、これはスポーツレースではない。命を奪いかねない妨害が平気で起こる〝戦い〟なのだ。ならば、やれることは全てやらねばならない。

 晶は走りながら、人差し指を噛んで血晶の狩装しゅそうを纏った

 そしてそのまま、腕を横に降って指から流れ出る血晶を空中に飛ばすと、

「〝ヤガ〟ちゃん!」

 空中に血晶体を作り出し、ロック鳥のヤガを召喚する。

 ヤガは高度を落として晶と並走し、頃合いを見計らって晶がその背に飛び乗った。

「急いで!」

 ヤガは大きく羽ばたいてそのまま一気に百メートル程進んだが、急に体を傾けた。

「うわっ!」

 思わぬ動きにバランスを崩して落ちそうになり、晶は必死にしがみ付くが、その視界の端を光弾がすり抜けた。

(……もう来た!)

 当然予想はしていた。キッと後ろを振り返り〝そいつ〟を睨みつける。

 バン・ドレイルが、手前に魔法陣のようなものを展開していた。そこからこちらを狙い撃とうというのだ。

 見ている内に、魔法陣が二回瞬き、さらに二発の光弾が晶たちに迫る。

 ヤガは再び体を傾けて先に来た光弾を躱したが、二発目はその動きに合わせてくくくとヤガを追尾し、その翼をぞりっと焼いてしまう。

 ヤガの悲痛な叫びが木霊し、それでもヤガは姿勢を保とうとするが、

「ヤガちゃん、無理しないで! ありがとね!」

 晶はそう言って飛行しているその背から飛び降り、ヤガを血晶に戻す。

 傷ついた使い魔を気遣うのはいい。だがそれほど高い高度でないとはいえ、この速度で地面に叩きつけられればそれこそ怪我では済まないだろう。いったいそれをどうやって――。

 すると晶は、落ちていく途中で再び使い魔を召喚した。

「〝ボロル〟! 〝ムムメメ〟!」

 放った血晶が地面すれすれを走ったかと思うと、地に激突する寸前に重なり合い、体長三メートル近い灰色の狼と、それに乗った亜人の少女を生み出した。

 狼――ボロルは空から落ちてくる晶を確認すると、軸を合わせつつ速度をあげる。そして背に乗る亜人の少女――ムムメメが上体を起こして手を伸ばす。

「アキラーー‼」

「ムムメメ‼」

 晶は丁度落下地点に走り込んできたムムメメの手を掴むと、そのままボロルの背に乗り込んだ。

「アキラ、どうするの?」

「このまま真っ直ぐ!」

「だって、ボロル」

 ムムメメがボロルの耳にそう告げると、ボロルはさらに加速した。

 だが、ムムメメは髪の下に隠れた小さな耳をひくくと動かすと、

「アキラ!」

 と後ろを振り返った。

 再びいくつもの光弾が迫ってきていた。

「しつこい!」

 晶は血晶の短剣を三本作り出し、振り向きざまにそれを投げる。

 しかし、アルカナの力で身体能力が上がっているとはいえ、コントロールは別物だ。何とか一つは光弾に当たって消滅させられたものの、残りの二本はあえなく的を外し飛んでいってしまう。

 そこでボロルは状況を察知したか、ちらりと後ろを向くと、ふんすと鼻から息を吐き、凄まじい速度でジグザグに走行して全ての光弾を躱してみせる。

「やった! ボロル偉い!」

 晶は後ろを振り向き、今の光弾がすべて消滅したのを確認しつつ、ボロルの胴を撫でたが、

「アキラ、前前‼」

「今度は何⁉」

 イージスに向け放ち続けられているアフラ・マズダの紫焔に当たったのか、なんと、数十メートル先でビルが倒壊し、倒れ込んできていた。タイミング的に下敷きになることはなさそうだが、道が塞がれるのは避けられない。

「どうする?」

 ムムメメが不安げな顔で訊ねたが、

「飛んで」

 晶は躊躇なくそう答えた。

「ボロルでも無理だよ……」

 ムムメメがそう言うのは無理もない。倒壊したビルはそれほど大きなものではないが、横倒しになったとしてもその幅は十五メートル以上はある。

「いいから!」

 しかし晶は引かない。

「んもう、知らないよ! ボロル!」

 ムムメメが叫び、ボロルは速度を落とすことなくビルの壁に向かって飛んだ。

 かなり高さは出たと思うが、やはり飛び越えるには四メートル近く足りない。

 しかし、晶はボロルの背の上に立つと、

「トライアスリート、なめんなあああ‼」

 そう叫び、さらにそこからジャンプした。

 そしてなんとか体を打ちつけながらも、壁の縁にしがみつき、上へよじ登る。

 その瞬間、

「っつあ!」

 脇腹に焼きごてを当てられたような熱さが走った。

 動きが止まったところを、バン・ドレイルの光弾に狙い撃ちされたのである。

 それでも晶は、

「いったいなぁ……」

 すぐに立ち上がるとアルカナの力で傷を塞ぎ、ビルの上を駆け、斜めになっている個所を探して向こう側へと駆け下りていった。


「か~~、よっく避けんなあいつ。ぴょんぴょこぴょんぴょこ、ノミかってんだ。痒くなってきちまうっての」

 バン・ドレイルがいらいらした様子でグリモアのページを次々めくる。

 そして、その途中で指を止めると、 

「お、あったあった。いちいちページとか覚えてねぇからよぉ、ホント人間みてぇに電子化して欲しいぜぇ」

 そんなことを呟きながら、新たな魔法陣を空中に描きだす。

「そーんなに逃げ回るんならよ、オレもちょこっーと頭つかわねぇとだな――〝イーラ・フロル・ブレウィス・エスト……〟」

 描かれた魔法陣が紫に色に光り、筒のような形に展開すると、ズズッと地面に潜っていく。

 それを見届けたバン・ドレイルは満足そうに、

「おっしゃ! 仕込みよし! そんじゃ、もうちょっとがんばっちゃうぞー」

 と、ぐるぐる肩を回し、さらなる光弾を天へと放った。


 晶は全力で走り続けていた。

 初めのヤガに随分距離を稼いでもらったはずだから、もうとっくに半分は過ぎていると思う。しかし、ゴールであるイージスが巨大な為か、まったく近づいている気がしない。

(きっついなぁ……)

 レースのスプリントゾーンでもここまでのハイペースは経験がなかった。

 肺と心臓が破裂せんばかりに悲鳴を上げている。脚の筋線維が千切れそうだ。それでもこの体は死ぬことはないはずだ。全力を超えた全力を出せるはずなのだ。

(ここでそれを出せないなら、〝あいつ〟が報われない――‼)

 晶は目前に瓦礫のない平坦な道を目にし、大きく息を吸い込むと、息を止めてさらにスプリントをかけた。

 ぐんと速度が上がり、髪が激しく後ろになびく。

 しかし、また・・だ。またすぐ後ろに、あの嫌な感じが近づいてくるのを感じる。きっとあの光弾に違いない。しかも今度は今までとは比べ物にならない数の気配を感じた。

 このまま走り続けるにしても、アルカナの力は必要だ。しかし、今は――‼

「〝プリエル〟! 〝ママリリ〟! お願い!」

 晶はスプリントのフォームを崩すことなく、背後に二体の使い魔を召喚してみせた。

「はい!」

 見目麗しくも無垢な乙女を感じさせる天使――プリエルと、

「やっほ!」

 野生美溢れる亜人の女戦士――ママリリが地に降り立つ。

 そして晶はそのまま速度を落とすことなく走り去った。

「お願いって、何をですかね?」

 プリエルが首をかしげると、

「あれじゃないかな♪」

 ママリリは手に持つ巨大なブーメランで宙を指した。

 プリエルはその方向に顔を向けると。

「う~わわわわ!」

 遥か上空から、数十と言いう数の光弾が、一気に降り注いでくるではないか。

「あれ、ぜーんぶ狩る・・よ!」

「ほんとに? ほんとに~~⁉ 神様ああああ」

 プリエルが叫ぶように祈りを捧げると天輪が輝き、空一面に光の波紋が広がって光弾の雨を防いでいく。しかし光弾は降りやまず、どんどんプリエルに圧力をかけていく。

 すると、

「ママリリのブーメランは友だちを守る! い~~~っや‼」

 ママリリが体を回転させて思い切り巨大な骨のブーメランを真横に投げた。それは弧を描いて光の波紋を避けて飛び。波紋の上に出ると次々光弾を撃ち落としていく。

 そしてママリリは後ろを振り向くと、

「アーキラーー、うしろはまかせろーーー‼」

 と大声で叫んだ。

 その声は、果たして晶に届いたか、晶は振り向かず、なおも走り続ける。

 ここまでずいぶんアルカナを消費してしまった。おそらく、使い魔はあと一回呼ぶのが限界だろう。できれば肉体のアシストに回したいところだが――。

(まだ……着かないの?)

 ゴールまでの距離が縮まらない感覚に気が焦る。

 そこに、またもや前方の上空で爆発が起きた――しかも、今度は左右二か所、いっぺんに。紫の炎がビルに当たったようには見えなかった。では、一体なぜ――。

 だがそんなことを考えている余裕はない。左右から二棟のビルが、狙いすましたように晶の上へと倒れかかってきているのだ。

 晶は拳を握り、最後のアルカナをその手に込めた。

「〝ミミララああああ〟‼」

 叫びに応じ、背後に大きな血晶が浮かび上がる。そしてそれが弾けると、一対の巨大なブーメランを手にした美しき女戦士がザンと大地に降り立った。

「あはは! 私が来たからには安心するんだぞ!」

 ミミララ・レイアは、ぐぐっと三枚羽のブーメランを二つ同時に振りかぶると、

「これがアマゾネス――〝女王の狩り〟だ!」

 それを思い切り倒れかかる左右のビルに投げつける。

 だが、相手は〝ビル〟だ。いくら巨大なブーメランとはいえ、そのようなもので――しかし、ブーメランは高速で回転しながら、刃の腹を当てるようにビルにぶつかると、ガリガリとミキサーのように破壊の渦を広げていき、二棟のビルを粉々に粉砕してみせた。

 晶は背後に崩れ落ちる大量の瓦礫の音を聞きながら、

「……ありがとう、みんな」

 と呟き、必死に腕を振り、脚を動かし続けた。

 とうとう、日本橋川が見えてきた。その手前の五差路に立つイージスの足元が見える。

おそらく、距離にして三百メートル、しかし、とうとうアルカナ尽きてきたか、晶の脇腹からは赤いものが滲んでいる。

(走るよ……絶対に走り切る――‼)


「いや、すげ~すげ~‼ でも、無駄だぜ?」


 聞き覚えのある声がした。

 それも、から。

「え……」

 見るといつの間にか、目の前の道路に、あのフードの男・・・・・が立っていた。

 だが、なぜ――今の今まで光弾は背後から撃たれていた。逆走しているはずはない。なぜなら、イージスゴールはその男の向こうに立っているのだから。

「ごめんな、オレってば、いっぱいいんのよ」

 バン・ドレイルはそう笑うと、グリモアを片手に右手を差し出す。

(だからって……‼)

 しかし晶は脚を止めない。

 バン・ドレイルの右手が輝き、

「ぅあうっ‼」

 晶が走る速度のまま激しく転倒した。

(それでも‼)

 晶はすぐに立ち上がろうとする――が、上手く立つことができない。

 何かがおかしい。体が支えられないのだ。

 何ということもなく、ただ反射的に自分の体を見た。

 やっぱりおかしかった。

 そこにあるはずの、晶の右脚が――。

「嘘……あたしの……」

 次第にその光景が現実味を帯びてきて、目を見開いた。

 この脚と、ずっと一緒に戦ってきた。それは支えであり、夢であり、人生の目標でもあった。でも知ってしまった。それを叶えるには、あってはならない力が身に宿っていることを――幼馴染はそのことに苦しみ、それを知ってからの晶もまた――でも、それでも、今までの〝想い〟を捨てられるはずもなく、けれどまさか、このような形で――。


「あああああああああああ‼」


 後れてきた体と、心の痛みに絶叫し、目から、鼻から、ぼとぼとと何かがこぼれ落ちていく。脚を押さえ、叫び、転げまわり――そこで、〝カシャン〟とたくさんのガラスがぶつかり合うような音がした。

 それは、晶のショルダーバッグからだった。

 晶はバッグを必死に手繰り寄せ、両手で抱いた。

(そうだ……そうなんだ)

 そして砕けるのではないかと思うほど強く歯を食いしばり、

「ぅぅ……うおおおお!」

 体内に残ったアルカナを燃やし、右の膝から下に、〝血晶の脚〟を創り出した。

「おー、すっげぇ根性」

 バン・ドレイルがそれを冷たくせせら笑う。

 晶はふぅふぅと周囲に響くほど荒く息を繰り返し、一気に身を起こすと、一度息を止めて屈みこんだ。

 そして両手を地に着き、瓦礫をスターティングブロック代わりに〝クラウチングスタート〟の姿勢をとる。

「……わたしは、〝想い〟を受け取ってる。それを繋ぐんだ……それを……」

 そして、

「守るんだ‼」

 バン・ドレイルへと突っ込んだ。


    * * * 


 日本に広がる、あらゆる道の始まりであり、そしてあらゆる道を繋げ、帰る場所――その『龍天』に、紅く輝く石が浮かぶ。

 その石は、一体なぜ存在しているのか。一人の男の妄念によるものか、それとも、人知を超えた運命の道標としてなのか――そして今、紅蓮の運命に囚われた者たちの全ての想いが、それぞれの道を辿り、この石の元へと集結しようとしていた。


 咄嗟に呼び出した白銀の盾イージス越しに、止むことなく降り注ぎ続ける紫焔の雨を眺めながら、神名千尋は奇妙な感覚を覚えていた。

(なんだろう……こんなこと、なかったな)

 アルカナの力がみなぎっている。実際、不思議なことに、これ程巨大な使い魔を呼び出して力を送り続けているのに、力の消費を感じるどころか、溢れていっているようにすら感じていた。力を放出する媒介となるはずの血晶を、こうして一片も纏う必要もないのだ。だからといって別段高揚があるわけでもなく、むしろ心は静かで、とても落ち着いていた。

 とてもそんな状況ではないはずだった。近辺の街は破壊され、見渡す限り瓦礫の山が広がっている。そして目の前には戦いに傷ついた二人の女性が膝を突き、横たわっていた。

 一人は白木優羽莉――力を使い果たしたように地面に座り込み、ただ為す術なく降り注ぐ紫炎の雨を見つめている。

 彼女とは奇妙な縁で結ばれていた。幼い頃に出会い、この『英血の器』を巡る戦いにおいて何度も命のやり取りをし、時には必要に迫られて力を合わせることもあった。そんな彼女の危機を見かけ、自然と「守らなければ」と思い、今、そうしている。

 そしてもう一人、彼女の名は知らない。横たわり、優羽莉の膝の上で目を閉じる彼女は、その半身が異形の姿へと変じていた。しかし、人のままでいる方の顔には見覚えがあった。確か舞浜で、竜の使い魔と共に現れた女性ではないだろうか。いや、それだけでは無いような気もする――そんなはずはないと思うだが、いつだったか、ずっと昔――。

(全部、この光の所為……なのかな)

 千尋は上空に輝く巨大な紅い結晶体を見上げる。おそらく、周囲に紅い光を発し続けているあれが、カーク・鏑木の言っていた〝八つめの石〟なのだろう。

 千尋は、彼との戦いのあと、その末期の言葉に従い一人この場所を目指した。

 カークはこの場所で「運命を見た」と言った。とても抽象的な表現だし、行ったところで千尋にとって意味のあるものではないかもしれなかった。だが敵ながら、柿原一心の〝想い〟を真正面から受け止めたその様と、命を賭して果たした彼自身の〝想い〟を目の当たりにしたとき、そこに嘘はないと感じてしまったのも確かだった。

 それにこの場所は、千尋がもう一度会ってみようと思う母親が、かつていた場所でもあった。そのことをカーク自身は知らなかったと思うのだが、そういった意味では、確かに〝運命〟というものを感じてしまったのかもしれない。実際はそのように大げさなものではなく、行く場所も、道も見失った旅人が、放浪の果てにふと見かけた光に吸い寄せられているのと同じだけなのかもしれないが。

 光――この近辺に辿り着いたとき、既に辺りは戦場と化していた。普通であればそのような危険な場所へは踏み入らないし、踏み入るとしても事態が収まるまで待つだろう。しかしなぜか、あの光を目にした千尋は、それに引き寄せられるようにここまで来てしまった。

 そしてふと気になり、ポケットに忍ばせていた虎鉄と椿のものだという血晶を見る。それらもまた、あの光に反応するように輝いており――。

「千尋君……?」

 優羽莉の呼びかけで、我に返った。

「その……助けてくれてありがとう」

「……うん」

「でも、どうしてここに?」

 千尋はカークに渡された端末を優羽莉に見せた。

「それ、カークさんの……?」

「あの人にこの場所を聞いたんだ。ここに行ってみろって――その人は?」

 千尋はイージスに手をかざしながら、視線で横たわる女性を指した。

「チユよ。この子も同じ『英血の器』」

「……そうなんだ」

 彼女の異形と化した半身は、水上晴が変異した姿に似ていたので、納得するところではあった。今、彼女は意識を失っているようだが、彼女もAVALの「器」なのだとすると、目覚めたら千尋に襲い掛かってくる可能性は十分ある。しかし――それがなぜなのかはわからないのだが――今の千尋には、そうならないのでは、と思えてならなかった。

「相手はこないだの?」

「たぶんそう……『教会』だと思う。正直追い詰められちゃってる。千尋君が来なかったら終わってたし、いなくなっちゃったら為す術はないかな」

 優羽莉はそう、困ったように笑ってみせた。千尋はその表情に違和感を覚えた。悪い意味ではないのだが、以前の彼女ならこのような表情は見せなかったと思う。彼女もまた、千尋のように、だんだんと心が落ち着いてきているのかもしれない。

「やっぱりこの光、変だな。あの石のせい? この周りだけ怪物もいなかったし」

「え……?」

 言われて、優羽莉ははたと気付いた。未だ街の各所に炎や煙は上がっているのだが、確かにこの周囲だけは妙に静かだった。そして周囲を見渡し、

「千尋君、あれ!」

 優羽莉が指さす道路に、誰かがいた。

 ゆっくりとこちらに近づいてくるのだが、怪我をしているようで、脚を引きずっている。

 それを見た千尋が明らかに動揺を見せた。

「原吹さん……⁉」

 そこにいたのは、原吹晶であった。しかしその状態はひどいあり様で、全身の至るところに傷を負い――いや、それどころではない。普通の人間であれば重傷としかいえない状態であった。とくにその血晶に覆われた右脚は――それにもかかわらず、晶は歯を食いしばりながらも自らしっかりと立ち、いつものようにまっすぐ前を向いて歩いていた。

 千尋は、一度イージスの様子を確認すると、急ぎ晶に駆け寄った。

 その姿を目にした晶は目を見開いたあと、安堵したようにして立ち止まり、その場に膝をついてしまう。

「原吹さん、その怪我――」

「千尋さん、お久しぶりっす――えへへ、遠くからあのロボットみたいの見えたんで、ここにいると思って、頑張っちゃいました」

 晶はそう笑うと、どうしてそこまで、と眉を寄せる千尋に、

「これ、渡したくて」

 と、肩に掛けていたぼろぼろのショルダーバッグを下ろし、中を開いて見せた。

 そこには、いくつもの紅い血晶が入っていた。

「これを……」

「みんなの〝想い〟です。さっきすっごくヤなやつがいて、これ奪おうとするからぶっとばしてやりましたよ――いっつ!」

 気が抜けて痛みがぶり返したのか、晶が身を抱えて顔を歪める。

 千尋は晶の体を支え、

「無理しないで、楽にしてよ」

「……すみません。そうさせてもらいます」

 晶はその場でゆっくりと仰向けに体を横たえた。そしてそのまま、上空に浮かぶ紅い結晶体を見上げる。

「――なんかこの紅い光、不思議ですね。遠くからじゃわかんなかったけど、なんだか、すぅーって、ざわざわしてたのがなくなる」

「うん……」

 晶は光の力をより深く感じようとするように目を閉じた。

「三輪ちゃん――覚えてます? 私の師匠で神様の、冗談みたいな人……あの人がこれを、わたしが信じられると思った人に渡せって」

 晶は穏やかな顔でそう話す。しかし彼女から感じられるアルカナは、その灯がもう長くないことを伝えていた。

「僕を――どうしてそう思ったの?」

「うーん……」

 晶は眉を寄せて考える風にしたが、

「えへへ、実はあんまり考えてません――勘、かな。わたし自分の勘信じてるんで。でも、わたしの勘、結構当たるんですよ?」

 そしてもう一度、遠くを見るように目を細め、空に浮かぶ結晶体を見つめる。

「……何かに悩んで、みんな苦しんで、でも一生懸命生きてました。千尋さんってクールなんだけど、なんかそんなのの〝代表〟みたいな雰囲気あって……ごめんなさい。やっぱり……上手く言えないです」

 次第に、晶の言葉から力が無くなっていく――。

「――そう」

「けど、やっぱり千尋さんかなって……これはみんなの〝想い〟です。これをどうするかわかんないけど、わたしも連れてってください……晴や、みんなと一緒に……」

 そして晶は眠るように目を閉じると、紅い光に溶けていくように光の粒となって消え去った。

 千尋はあとに残った晶の血晶を拾うと、受け取ったバッグの中にそっと加える。

 千尋の目に涙はなく、その表情を例えていうなら、静か――だろうか。

 決して悲しくないわけではない。ただ千尋には、こうなることが、ごく自然なことのようにも感じられていた。もしかしたら、何度も繰り返されるこの光景に慣れてしまっているのかもしれない。しかし託された血晶からは、そういった感じ方に違和感を抱かせない、何か確かな〝存在〟のようなものが感じられてならなかった。

 そして千尋は立ち上がり、優羽莉たちの元へと戻った。

 離れてその様子を見守っていた優羽莉もまた、とても静かな表情で千尋を迎えた。

「――彼女も、《器》になったのね」

「うん――これも、全部」

 そう言って、静かにショルダーバッグを下ろし、

「僕の持っているのも加えると、ここに十三個あることになる」

 その中に千尋の持つ二つの血晶も加えた。

「それじゃあ、私たちを合わせれば十六――どうして、ここに集まったんだろう」

 優羽莉が血晶を手に取り、優しく撫でる。

「……さぁね」

 千尋は空を見上げた。

 ちぐはぐな光景である。上空では、未だ絶え間なく破壊を運ぶ光が雲を紫色に染めており、白銀の巨人は巨大な盾を構え、ただじっとそれを防ぎ続けている。しかしその下では、そういった状況に恐怖することもなく、ただ静かに佇み、座り、体を横たえる三人がいる。今も目の前で悲しいことが起きたばかりだ。なのに、紅い光に包まれたこの空間だけは、まるで別の時間が流れているかのように穏やかな空気に満ちていた。

「これから、どうしよっか」

 優羽莉が、自然に千尋に問いかけた。

 すると千尋は、

「あそこに行ってみようかな」

 やはり自然にそう答えた。

 その目は紅い結晶体を見つめている。よく見ると、その美しく輝く石の中に、何か緑色に輝く模様のようなものが浮かんで見えていた。

「でも、どうやって?」

「昇ってさ――〝セルディッド〟」

 千尋は手を前に出すと血晶体を作り出し、赤い衣を纏ったエルフの少女を呼び出した。

 幾度か刃を交えたことのある彼女を見て、優羽莉は少し緊張した様子を見せたが、セルディッドはそんな優羽莉を見ると、

「大丈夫よ、わかってる。もう戦わないんだよね、白木優羽莉さん」

 そうにこりと首を傾けて微笑みかける。優羽莉はそれに、少しぎこちなく頭をさげて挨拶を返した。セルディッドももう一度だけそれに首を傾けると、優羽莉の膝の上に眠るチユに一度目を向けてから、浮かぶ結晶体を見上げて、

「……うん、あれならもう大丈夫そうかな――あそこまで行くんでしょ?」

 と訳知り顔で千尋に訊いた。

 その言い回しに、当然違和感を覚えた千尋は、

「何か知ってるの?」

 と訊ねたが、彼女は、

「うん、知ってるよ。〝終わり〟が近いの――ここはそういう場所」

「……行けばわかるってこと?」

「そうかもね」

 と、笑みは浮かべているものの、伏し目がちにそう答えるのみだった。

 そしてセルディッドは手近な瓦礫に腰を掛けると、手に持つ竪琴をつま弾いた。優雅に踊る指先と震える糸から流れ出た美しい音色が、薄く紅色に染まる空間を満たしていく。すると、ぽこり、ぽこりとアスファルトが盛り上がり、そこから植物の芽が顔を出した。それらは次から次へと生えていき、太く伸び、絡み合い、やがて深緑のカーペットを作り出す。

「それじゃ優羽莉さんこれに乗って。千尋はその子を乗せてくれる?」

 そう言ったとき、

「チ……ヒロ?」

 優羽莉の膝の上で、チユがうっすらと目を覚ました。

「チユ、大丈夫なの?」

「うん……」

 優羽莉の問いかけに答えるも、チユはぼんやりとした様子で千尋の顔をじっと見上げている。

 千尋はチユの前に屈みこんで訊ねた。

「上に行こうと思うんだけど、君はどうする?」

「上……?」

 チユは一瞬なんのことかわからなかったようだが、すぐに、

「……チユも連れてって。コウメちゃんに会いたい」

 そういって、紅く輝く結晶体を見上げた。


 セルディッドの奏でる透き通った旋律に包まれ、蔦のカーペットが四人をゆっくり上方に押し上げていく。

 千尋はその端に立って地上を見下ろしてみた。気が付くと、それなりの高さになっていた。既に地面は遠く、前を向けば、揺らめく紅いカーテン越しに辺り一帯が見渡せた。

 ここに来るまで見てきてはいたが、見渡す限り、どこも破壊の色で塗り尽くされ、酷いありさまだった。ドゥクスは〝生き延びるために世界を壊せ〟と言っていた。しかしこのような景色を目にすると、自分がそうしようとしまいと、結局は同じ結果なのではないかと思えてしまう。

 誰かが、何かの想いを貫こうとして生まれた破壊――それは、いったいどのような想いなのか。きっと、前向きなものではないのだろう。何かを失うのが怖くて、拘り続け、そのために破壊を選択する――想いを持ち続けるのは大切かもしれないが、それを向けるべき方向も同じく大切なのではないだろうか。それを間違えると、想いの摩擦は汚泥のように澱み溜まって、こうして世界に広がっていくのかもしれない。

 正直、千尋は初めからこの街を守ろうなどという気持ちを持ち合わせてはいなかったし、世界を憎んでさえいた。しかし、いざこうして目にしてしまうと、心寂うらさびしいものだなと、そう思えて――。

「――君、チヒロっていうんだよね?」

 不意に、自分の名を口にされて思考から呼び戻された。

 見ると、チユが蔦の枕に頭を乗せたままこちらを向いていた。

「……そうだけど」

「そっか。君がそうだったんだ。やっとちゃんと会えた」

 気になる言い方をする、そう思った。「ちゃんと」とはどういう意味だろうか。舞浜で、ほんの一瞬お互いを見たときのことを言っているのだとは想像できる。しかし、もしかしたら、先程千尋が感じた既視感を、彼女ももっているのかもしれない――そう考え、

「ずっと前に、僕と会ったことある?」

 と訊ねてみると、

「ないよ」

 とあっさりと答えられてしまった。

 そこに優羽莉が、心配そうに口を挟む。

「チユ、そんなに話して大丈夫なの?」

「うん、なんかあれに近づくほど体が楽になる。コウメちゃんのお陰かな」

 そんなことを言って結晶体を見てから、やはりすぐに千尋に視線を戻し、じっと顔を見つめてきた。千尋は、いったいなんなのだろうと怪訝に思っていると、

「チヒロはチェリーパイ好き? チユはママのチェリーパイ大好きだったけど」

 今度はそう訊いてきた。

 千尋はさらに困惑して眉根を寄せる。

「でも、本とかは好きそう。ママも好きだったな、紙の本。髪の感じもちがうけど……あ、目は似てるかも」

 そこで初めて、千尋はチユの言わんとしていることを察した。

「――その〝ママ〟って、母さん・・・のこと?」

 そう訊くと、チユは少しだけ身を前に起こして、

「うん、チユのママは、チヒロのママだよ」

 薄い表情に仄かに笑みを浮かべて、そう答えた。

「チユはね、チヒロのママとユーリのパパの細胞から作ってもらったの。だからチユのママはチヒロのママ。ママにはチユの他に、ちゃんと産んだ子供がいるっていうのも聞いてた。だからチヒロのことも知ってたよ」

 そう、なのか――まずは、突然語られたそれに戸惑った。当然驚きもあったが、同時に本当だろうか、とも思ってしまう。何しろ不意であったし、ここでそのような話を聞くとは思わなかった。「作られた人」というのには思い当たるふしがある。同じAVALにいたという咲山小梅も同じようなことを言っていた。しかし、よりによって、千尋の母親の細胞から作られたというのは――そこまで考えて、はたと優羽莉を見た。話を聞いていた優羽莉は、黙って千尋にうなずいた。それを見て、

「……そうなんだ」

 千尋はそのことを素直に受け入れてしまった。

 その返事に安心したように、チユは再び体を楽にして枕にもたれた。

「研究所には来たことある?」

「あるけど、あそこは怖い場所だったから好きじゃなかったな」

 チユは、そう顔を曇らせた千尋に何かを察したか。

「チヒロは、ママのこと嫌い?」

「そんなの当然――」

 当然、なんだろう――〝嫌い〟と言うべきところなのだが、なぜかすぐに言葉が出なかった。間違いなく憎いと思っていたはずである。しかし改めてこう問われると、一番ぴたりと当てはまる言葉ではないような気がした。

「どこが嫌いなの?」

「どうかな――」

 千尋は少し考え、

「嫌いなところを言えるほど、会ってないよ」

 結局、そう答えた。

「そっか。チユは大好きだけどな」

 チユも何か考えるように上を向く。

「あの人のどこがいいの?」

「すごくステキだよ。大きな口で楽しそうに笑って。優しくて、料理やオシャレはできないけど――」

「それでもさ、あの人は僕らを捨てたんだ」

 千尋はそう吐き捨てた。そうなのだ。それだけは変わらない。だから、彼は母親を、世界を嫌悪し続けてきたのだから。

 しかしチユは、瞬きなくキョトンとした風に千尋を見つめ、

「それは違うかな」

 そう言った。

「違うわけないよ。その所為で、父さんは僕を連れて山小屋で――」

「それも違うと思う」

 さらにはっきりとそう否定する。

(いったい、何を言って――)

 さすがに心が騒めいた。しかし、やはり紅い光の所為なのだろうか、すぐに波立つ心が静まっていく。

「――なんでそう思うの?」

「だって、チヒロはママに愛されてたもん」

 まただ――以前、優羽莉にもそんなことを言われた。

「僕にそんな記憶はないよ。どうしてそんなことがわかるのさ」

「わかるよ。だって、チヒロは〝チヒロ〟っていうんでしょ?」

 言っている意味がわからない。話していて分かったのだが、彼女は一足飛びに辿り着いた結論を口にするきらいがあるようだった。その思考の幅が広すぎて、ついていけないのである。なので、千尋は丁寧に訊いてみることにした。

「……僕の名前が、それに関係あるってこと?」

「うん」

 正しい解釈だったようで、チユは仄かに満足そうにした。

「ママが言ってたの。君の名前はママが付けたんだって。大好きな人の名前に似せて」

「父さん……かな」

 千尋の父親は「大千だいち」といった。他には思いつかない。

「それもあるけど、もう一人。チユと同じ名前の人」

(もう一人……?)

「チユの名前はね、いなくなった君のお姉さんからもらったんだ」

「僕の……姉さん……?」

 予想外の言葉に千尋は思わず身を前にする。

「数の『千』に、悠久の『悠』って書くんだって。お姉さんの名前は大好きなチヒロのパパから取って、チヒロの名前は、大好きなその二人と同じにしたんだ、ってママが言ってた。大好きじゃなかったら、そんな名前つけないでしょ? ママが大好きな人の名前をつけてくれたから、チユもこの名前が好き」

 さすがに動揺した。姉がいたなど、そのような話は聞いたことが無かった。

「でも、そんな話……それに〝いなくなった〟って」

「パパが教えてくれたの。チヒロのお姉さんはね、赤ちゃんのときにいなくなっちゃったんだって。お姉さんは生まれながらにアルカナ因子をたくさんもってたから、その所為で転位現象に巻き込まれたんだと思う」

 そう言うと、チユはだんだんと近づき、大きくなってきた結晶体を見つめた。

「ママはそれを最後まで教えてくれなかった。〝前に進む勇気が出たら教えてくれる〟って言ってたけど、その前にママも消えちゃった。ママはお姉さんに会いたがってて、その為に研究を続けてたから、その想いが繋がって、また転位を呼びせちゃったんじゃないかな」

 生来のものなのだろうか、チユは表情の変化が薄い。しかしそう語る、まだ人のままの方の瞳はしっとりと悲しみに濡れているように見えた。

「でもね、ママ、チヒロのことはチユに教えてくれたんだよ。会いたいな、ってよく言ってた。けどチヒロにもアルカナ因子がいっぱいあるから、研究所に呼んだら危ないって悲しそうにしてた」

「でも、それならなんで父さんは……」

 そうだ。そうだとしても、あの死は、あの山小屋の悪夢は――。

「きっと君を『財団』から守ろうとしたじゃないかな。パパもママに会いたくてその手掛かりを探すのに必死だったから。でもああやってチヒロが有名になっちゃえば、『財団』も手が出しにくいもんね」

「そんな――」

 正直、感情が追いつかなかった。

 今チユが語っていることが真実かどうかはわからない。今ここで、それを証明できる方法などないのだ。それに真実だったとして、彼が今まで歩いてきた辛い過去は変わらない。そう、変わらないのだが――。

「悩んじゃった? でもいいんじゃないかな。それもチヒロなんだから」

「……どういうこと?」

 そう訊ねる千尋は、まるで不安におびえる幼い子供のようだった。

「ママがよく言ってくれたの。『そのままでいい』って。前は、チユは変わらなくていいってことだと思ってた。でもね、つい最近変わることを応援してくれる人に会って、あれは〝自分のままで変わればいい〟ってことなのかな、って今は思えてる。チユの話は、チヒロがチヒロなりに、チヒロのままで受け止めて、うまく付き合っていければいいんじゃないかな。真実には、意味なんてないんだから」

(……真実の意味……)

 そう言えば以前、柿原一心も、同じようなことを言っていた。〝真実に何かを求めるな〟、と。

 千尋はずっと過去に拘ってきた。過去に苦しみ、それから抜け出せないでいた。だから、抜け出すために、過去と向き合ってその真実を知ろうとした。そこから出口を見つけようとしたのだ。そして、どうあがいても辿りつけない真実から、未来を見失ってしまっていた――。

 チユから聞いた話は、ずっと探してきたその真実なのかもしれなかった。衝撃ではあった。だが確かに、それを聞いたところで千尋の今が変わり、何かを決定づけられるものでもない。大事なのはそれをどう受け止めるのか、そういった過去に、どういう意味を見つけてこれからを歩むかなのだ。そして今、そこに千尋が見るものは――。

「君は、見た目より大人なんだね」

 千尋がなんとも複雑な表情でそう言うと、

「でしょ、チユは完璧だし、名前的にはチヒロのお姉さんだもん」

 チユはそう誇らしげに言ってから、喋りすぎて疲れたのか、そっと目を閉じた。

 千尋もまた目を閉じて今までの話を咀嚼し、考えに耽る。傍で話を聞いていた優羽莉もまた、何か思うところがあったのか、どこを見るともなく、遠くなっていく破壊で覆われた街にじっと顔を向けていた。

 そうこうするうちに、蔦の上昇速度がさらにゆっくりになった。

「そろそろ着くわよ」

 セルディッドが竪琴を弾き終えると、蔦は静かにその成長を止める。

 そこはもう、結晶体の目の前だった。

 千尋は、ぴたりと結晶体に接して止まった蔦の上を歩き、それに近づいてみる。

 近くで見ると地上で見るより遥かに大きい。なんとも不思議な結晶で、発光しているのに眩しくはなく、透明感があるのに、濃い紅色で満たされていて中は見えない。それにもかかわらず、結晶体の中心には、煌々と緑色に輝く図形のようなものが浮かんで見えた。

 何度か遠目に見えていた模様はこれだったのだろう。それは例えるならば、何かの設計図――いや、それよりは抽象化された〝樹〟のような――。

 すると、チユが身を起こして立ち上がろうとしたので、慌てて優羽莉が駆け寄り、肩を貸した。

「チユ、何するつもり?」

「この中に入るの」

 チユが当たり前のように言うので、優羽莉はそうなのか、と一瞬納得してしまったのだが、すぐに、

「そんな!」

 とチユの腕を掴んだ。無理もない、地下の実験ドームでこの結晶に取り込まれた咲山小梅を助けようと、二人はあれだけ必死に戦ったのだから。

 しかしチユは、

「あのときは違ったけど、これはもう怖いものじゃないよ。コウメちゃんが、そうしてくれたの。チユは半分こうなっちゃったけど、そのときこの石に触れて、それがわかったんだ」

 そう言って、足を引きずり歩き出そうとする。

 優羽莉は、そんなはずは――と頭では思ったのだが、この不思議と心穏やかになる紅い光を知った今、チユの言葉こそが本当なのだろうと感じられてしまい、結局その手を放した。

 千尋も同じことを感じたようで、黙って彼女を見送る。セルディッドはこうなることを知っていてここまで連れて来たのか、少し離れて寂しそうにその様子を見守っていた。

「ママにも会えるかな。パパも一緒ならよかったけど」

 言いながら、チユはちょんと指先で結晶体に触れてみる。

 コツと爪の当たる音と同時に、リーンと美しい音の波紋が広がった。

「うん、大丈夫」

 そして千尋たちに振り向くと、

「今度は一緒にいられるといいね。ユーリにはまだゲーム教えてないし、チヒロともいっぱいお話ししたいし」

「今度って――」

「触れてみればわかるよ。じゃあね」

 言いかけた千尋に、チユはそう小さく微笑み、背中を預けるように結晶体に倒れ込んだ。

 するとその表面が波打ち、中から生き物のような結晶の手が伸びて、チユを優しく抱きとめる。そしてゆっくりその体を取り込んでいき、それが完全に見えなくなったとき――。

 突然、千尋と優羽莉は眩い光に包まれた。

 光は激しく、まるで視界が利かない。しかしそれはとても温かく、そしてとても紅く、紅く――。

 

 暫くして気が付くと、二人は元通り結晶体の前にいた。

 外から見ると時間にして数秒程度のことだったのだが、二人は何か長い時間、遠いどこかを旅してきたような、そんな感覚を覚えていた。

「今のって」

「……うん」

 思わず顔を見合わせた二人は、いったい何を見たというのか。

「どうする?」

 千尋が訊ねると、

「行ってみたい」

 優羽莉が即座にそう答える。そして千尋は一度、血晶の入ったバッグを見てから、

「僕も、そう思った」

 そう言った。

 千尋は少し興奮している自分を抑えようと、軽く深呼吸をする。そして結晶体をまっすぐ見つめ、なにか決意を新たにしたような表情をすると、同じ思いに至った優羽莉を改めて見た。

「ユウちゃん、なんか雰囲気変わったね」

「そう……うん、私変わった。千尋君くんはよくわからないけど」

 優羽莉はそうくすりと笑うと、前に出て結晶体に触れてみようと手を伸ばす。

 すると表面に触れるか触れないかのところで、結晶の手がにゅっと生えてきたので、一瞬びくっと手を引っ込めたが、やはり思い直し、おそるおそるその手を掴んだ。

 結晶体はそれを快く迎えるように鈍い光を放ち、それを見た優羽莉は、千尋に振り向いて笑顔を見せた。

 セルディッドは、そんな二人を嬉しそうな、寂しそうな、そんな複雑な笑みを浮かべ見つめていた。その視線に気づいた千尋が、セルディッドに訊いた。

「セルディッドは、こうなる・・・・って知ってたの?」

「うん」

 セルディッドは結晶体に浮かぶ模様を見上げ、その視線に釣られるように千尋たちも見上げる。

「あれは『運命の樹』――あらゆる世界の運命を描いた図面。『混沌』はそれを書き換えようとし、私たち〝守護者〟はそれを守るために戦った」

「結局、守れたの?」

「お陰様で、大事なところはね。でもある人にそそのかされて、ちょっぴり変えちゃった」

 そう、いたずらっ子そうに笑い、もう一度樹系図を見る。

「そしてあれはあなたたちの運命――でも、あなたたちが生きて、考えて、しっかりと決めた運命――」

 そして、セルディッドは改めて千尋たちに向き直ると、その目をしっかと見つめた。

「行くんだね」

「うん」

 千尋がうなずき、優羽莉もまたそれに続く。

 それを見たセルディッドは、安心したように目を閉じると、

「私は行けないけれど、はなむけにうたを送るわ」

「詩?」

「こう見えてもね、私はそこそこ名の知れた吟遊詩人だったんだよ?」

 そう言って、蔓の椅子を作り出して腰を掛け、竪琴をつま弾き始めた。


〝紅い月に誘われて あなたはそっと森を出る

旅立つ先はわからぬが 確かなことは一つだけ

あなたはきっと行かねばならぬ 森の外へと行かねばならぬ


森の詩人はその背見て 共に行けぬと涙をこぼす

森の詩人は森にあり 森の外へと行けぬから


だから詩人は歌うのだ 紅い月見て唄うのだ

所詮全ては暇つぶし 悲しむことなどありはしない

そうしてあなたの夢を見て 風に唄えばそれでよい


あなたが風に逢えますように

あなたの風に逢えますように〟


 美しい声と旋律が風に乗って流れる。

 千尋と優羽莉はそれを、目を閉じて聴き入っていた。

 そうして最後の一音が空気に溶けきったところで、セルディッドはそっと竪琴から指を降ろした。

 すると千尋が、

「お返しって程じゃないけど……じゃあ、僕も」

 

〝今や私の魔法は全て破られた。私に残るのは私という僅かな力ばかり。

 この舞台に私を留めようと、あの過去という暗闇に送り戻そうと、それは皆様のお気持ち次第。

 今、過去はわが手に戻り、こうして世界の裏切りを赦したからには、どうか私をこの孤島へ残す魔法をかけてくださいますな。

 どうか、みなさまの喝采で、私を縛るこの縄をお切りください。

 そしてどうか、皆様の優しい祝福で、この船の帆を膨らませてくださいますよう〟


 そう、朗々と語り上げ、小さく頭を下げた。

 なにかの戯曲の一説だろうか、優羽莉とセルディッドは驚いたように目を丸くし、千尋は少しだけ恥ずかしそうに鼻をかいた。

 優羽莉はそんな千尋の顔を覗き込み、

「シェイクスピアでしょ? 『テンペスト』だっけ?」

 と訊いた。

「うん」

「それじゃ、〝プロスペロー〟の気持ちはわかったの?」

「そうだね――」

 千尋は蔦のカーペットの上を少し歩き、破壊された街を見下ろした。白銀の巨人や紫焔を吐く邪神を含め、未だ各所で破壊の炎は燃え上がっている。しかしそれらは、もはや古い過去で、別世界の出来事のように見えた。

「人間賛歌であるって解釈は理解できてるんだ。でも僕は、どうしてもそれをリアルに感じられなかった。それは今でも変わらない。でも想像くらいはできたかな」

『テンペスト』――国にも、肉親にも裏切られ、孤島に流された魔法使いが、最後に世界を赦す物語――。

「――きっと、彼は赦したんじゃない。過去は過去で、それをなかったことにはできない。悲しみを一時忘れることができても、それはどこかにずっと残り続けてる。けど彼は、それに縛られて立ち止まることをやめたんだと思う。だから〝それ〟を探すために島を出て、船に乗ったんじゃないかな」

 それを聞いた優羽莉は、至極納得したようにうなずいた。

「それじゃあ、私たちと同じってことね」

「これでいいのかはわからないけど、それを見つけにいこうと思う」

 セルディッドもまたうなずき、二人を結晶体の前へと導いた。

「あなたがそう決めたのなら、信じて進むといいわ。あなたのパトスは〝正義ラメド〟、あなたが決めたことが、そうなのだから」

 千尋が血晶の入ったバッグを拾い、しっかりと抱えて結晶体の前に立つ。

 優羽莉もまた、確かな足取りでその横に立った。

 そして二人共に、石へと手を伸ばそうとした、そのとき、

「そうだ」

 後ろからセルディッドが声を掛けた。

「千尋、その顔、もう難しい事考えてないでしょ」

 その問いに、千尋は少し考える風にすると、肩越しに振り向き、

「そうだね」

 そう言って、笑った。


    * * * 


 『龍天』より少し離れたビルの屋上で、バン・ドレイルはその縁に胡坐をかいて肘をつき、ひどく不機嫌そうに、紅い結晶体を守る白銀の巨人を眺めていた。

「いいかげん硬すぎんだろ……相性ガン無視どころの騒ぎじゃねぇぞ。ぅおーい、どんだけここでこうしてりゃいいんですかーーい…………かぁぁ、ありゃぜってぇおかしいぜぇ。なーんか仕込んでやがんなぁ。アフラの旦那もよう、ばんばか撃ちまくってばっかいねぇで、少しは工夫ってもんしてくんねぇと……」

 特に何をするでもなく、そうブツブツと呟いていたか思うと、

「はぁ~~~、それよか『器』だよなぁ……丸っとかっぱらわれるとか、まっさかあんな小娘に大事なオレちゃんがよぉ……」

 今度は盛大にため息を吐いて項垂れてみる。さらに暫くすると、突然怒鳴りあげたり、また落ち込んでみたり、そんなことを一人延々と繰り返していたのだが、

「………お?」

 突然、巨人が紅い光に包まれたかと思うと、血晶と化して消え失せた。

 それを見たバン・ドレイルは勢い込んでがばっと立ち上がる。

「おーーー‼ やっとか‼ そんじゃこっから気合い入れて攻め――」

 しかし、次いで後ろの結晶体が今までにない強い輝きを放ち始め、

「あれ……ちょっと待って……」

 その光は収まらず、さらに強く、どんどん広範囲に広がり街を飲みこんでいく。

「えっと、あの光ってさぁ………………嘘だろ……聞いてねぇぞ‼ ありゃ〝疑似アルカナ〟なはずだよなぁ⁉ 〝八個目〟なんてのはぜってぇありえねぇ‼ だーーれだこんなん仕掛けやがったのは‼ こんなん馬鹿も休み休みどころか毎日御礼皆勤賞もんじゃ――」

 バン・ドレイルはそうじたばたと一人暴れていたが、ふと、急にその場に力なく座り込むと、

「〝創世の光〟とかよ――くそったれ、さすがにこりゃ無理だぜ」

 そう呟いて、紅い光に飲み込まれていった。


    * * * 


 紅い光が広がっていく。

 人も、獣も、神も、魔も、この街にある、ありとあらゆるものを覆い隠さんとするようにどこまでも広がり、全てを包み込む。

 そうしてどれくらい経っただろうか、光がやっと収まったあとには、誰もいない街が残った。あれほど跳梁していた怪物たちも、それと戦い、あるいは隠れ、逃げ惑っていた人間たちも、動物も、虫も、あらゆる息吹を感じない。彼らはいったいどこに消えたのか。それはこの街だけのことなのか、それともより広く、東京中に広がっていることなのか――それを知るものは、おそらく、街の真ん中に静かに立つ、この〝紅い石〟だけなのだろう。

 『賢者の石』と呼ばれていたこの石は、先の光を発したあと、その様相が元と異なっていた。相変わらず紅く輝いてはいるものの、その光からは優しさや穏やかさというものが消え、ただ純粋で、ともすれば近寄りがたいほどの高潔な〝別の存在〟へと変化しているように感じられた。

 だがその異変を感じ取れるものはもう――いや、いた。

 ただ一人、石の傍に立つ男がいる。

 その男は、常人であればそのきよらかさに目を覆うであろう石の輝きを直視し、ただじっと、石に魅せられたように佇んでいた。

 不意に、その傍らに、文字通りどこからともなく少女が降り立った。

 少女は男の横を通り過ぎると、石に近づいて見上げる。

「――『運命の樹』は……うん、ちゃんと予定通りね」

 そしてくるりと男へと振り返り、

「おめでとう。あなたが勝者よ、グラマン」

 そう言った。

 男――白木・A・グラマンは、石から少女に視線を移すと、

「それは、君もだろう? ドゥクス」

 そう少女を呼んだ。

 少女は首を傾けてにこりと微笑んだが、

「どうかしら? 今回のゲームの所為で、私はこれからものすごく忙しくなっちゃうのだもの。それこそ、お茶を飲む時間が三分の一に減ってしまうくらい。それってとっても不幸なことだと思わない?」

 そう言ってお気に入りの日傘を開いて肩に乗せ、グラマンに背を向け、再び石を見上げる。

「とにかくこれで、あなたの言う〝ゲート〟は開かれたわ。あなたは望み通り、かの世界へ行けるでしょう。今回はこの世界に隠されたこの『運命の樹アルカナセフィーロ』を、私たちが先に見つけられたのが勝因よね。勝ち筋がしっかり見えているのだもの。実際目の当たりにすると、本当にこれでいいのかしらと思うことも多かったけど、結局その通りになったし」

「――こちらの〝案内人〟となるはずのチユを失ったのは誤算だったがね。いつから樹系図はそのように変わったのかな?」

 グラマンの冷たい視線を背に受け、ドゥクスは肩越しに振り返ってくすくすと笑う。

「あら、結構細かいことを気にするのね。言ってなかったかしら、〝そういう風に変える〟のがこちらの予定でしてよ? でもいいじゃない。あなたみたいなただの人間が、神族でもうらやむ〝パトス〟なんてものを手に入れることができたのだから」

 そしてドゥクスは、「よいしょ」と可愛らしくつま先立ちで開いた日傘を石へと突き出して、くるりと回す。すると、回した傘に巻き取られるように、石の中から次々と結晶のようなものが取り出された。

 その数は、全部で十六――それは透明で、『英血の器』たちがその消滅と共に落としていった、あの紅い〝血晶〟によく似ていた。

「それは?」

 グラマンが訊ねる。

「あなたもご存知の《器》よ。もう〝中身〟は入ってないけれど」

 ドゥクスはその一つをつまんで、空に透かして眺めた。

「これはね、紅蓮の王が持つ〝真の創世主の力アルカナ〟を満たすことができる器なの。運命を動かす〝経路パトス〟を持ったあの子たちが、定められた図形に従って、その〝想い〟を果たすことができたときだけ生まれるのよ。最後は千尋の元に集まるとわかっていたけれど、少し図形を描き換えちゃったぶん、あの子にとっての正義がちゃんとそれを選択するか、見ていてはらはらしたわ。だって、正義っていつも、幸せとは限らないのだもの」

 そう言って、全ての《器》を傘の内側に放り込むと、それらはいずこかへと消えてしまう。

「何にせよ、これで『紅蓮の子ら』は産まれることができるわ。紅蓮の魂を受け入れるには、レムギア人の肉体なんかじゃ耐えられないもの。そりゃ本当なら生まれない〝死せるはずの魂〟になっちゃうわよね? 死と再生を司る私からしたら、欠陥品もいいところ。でもね、その所為であの子たちは、『英血の器』となった子たちの〝想い〟と〝原罪〟を引き継いで生まれてくる――」

 口調はいつも通り飄々としているのだが、そう語るドゥクスの背からは、何か秘めた想いのようなもの感じられた。

「それでも、それは必要なことだから《器》は私が責任をもってあちらの世界に届けておくわ」

 グラマンはドゥクスの話に黙って耳を傾けていたが、そこで小さく息を吐いた。

「すまないが、君の言葉は我々人類には難しいようだ」

 ドゥクスは振り向くと、

「あら、ご不満? そうと分かって言っていたのだけれど。そういうものではなくて? 神話マイソロジーというものは」

 そう言って再びにこりと微笑む。

「とりえず、人間が理解できる範疇では、〝ひどい話〟ということはわかったよ。俺が言うのもなんだがね」

「そうね。でもそれが世界の運行には必要なの。私もそれが趣味じゃない・・・・・・からこの計画に乗ったのだけれど――とにかく、《器》から抜け出したあの子たちの魂は、これでやっとちゃんと生きることができるようになるわ。あとは自由よ。〝新しい世界〟で幸せを探すのも、この世界に舞い戻ってもう一度抗うのもね」

 すると、にわかに紅い石が明滅し始めた。それを感じたドゥクスが日傘を閉じる。

「まあいいわ。このような〝世界にあってはならないもの〟が生まれたのだから、もうすぐ〝ここ〟はこの世界からはじき出されるわ。そうすればこの世界の〝ことわり〟は壊れる。仕方ないわよね、これもまたこの世界の人間たちが選択した結果なんだもの。それじゃ、私もそろそろいかなくちゃ――後悔はない?」

 ドゥクスがそう首を傾けて聞くと、

「それが望みだったからね。私は彼女に会いに行く。世話になった」

 グラマンはそう、静かに答えた。

「――そう」

 すると、ドゥクスが徐に目を覆う仮面に手を伸ばし、それを外した。 

「では、白木・アルド・グラマン。手向けに、あなたに一つ予言をしましょう」

 その碧色の瞳が、じっとグラマンを見つめる。

「――このあとあなたは、文明がそれほど発達していない、剣と魔法の時代へと飛ぶでしょう。そこであなたは、科学という自身の力を存分に揮い、王となる。その国は、〝この街〟を首都として領土を広げ、大陸に名を轟かせる程の繁栄を手に入れるわ。この街の新しい名は『アヴァラン』。〝強欲〟の定めを持つその国の名は『アヴァリシア』――そしてあなたは最期に、惨めで、人が考え得る限り最悪と言える非業の死を迎えるでしょう」

 そしてドゥクスはグラマンに背を向け、

「巻き込んでおいて勝手な話だけど、私はあなたを許さない」

 仮面を投げ捨てた。


「呪われなさい――アルド一世」


 その言葉と同時に、大地が、大気が鳴動した。

 輝きと共に紅い石が再び宙に浮かび上がり、それに目覚めさせられたかのように、東京の地下に眠る七つの『要石』が浮上する。

 東京を覆うように散らばった八つの石は、そのまま自身を繋ぎとめていた大地を引き連れ、上へ上へと浮上した。

 その光景は、見れば誰もが目を疑ったであろう。

 浮いているのだ。大地を離れ――『東京』が。


 そうして多くの想いを飲み込んだこの街は、虚空へと消えた。