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LORD of VERMILION IV小説 LORD of VERMILION IV‐ O Brave New World ‐

write : 浅尾祥正

第5章

魔神

 どうして自分は人と違うのか、子供の頃の真鶴椿は、そんなことばかり考えていた。

 自分にはとても強い力があるらしい。それは普通の人には無い〝力〟で――椿にとっては、少なからず誰もが持っているもののように見えていたのだが、みんなそれの使い方がよくわかっていないようで――周囲の誰もが「すごいすごい」と褒めそやし、「えらいえらい」とおだて上げ、「ずるいずるい」と妬み嫉んだ。

 だから、椿は「すごくない」になりたかった。「えらくない」「ずるくない」になりたかった。「すごい」も、「えらい」も、「ずるい」も、椿が欲しいものは何もくれない。椿に「すごい」を望む人たちは、〝あいつは今誰より上にいるのか〟ということを気にするばかりだったし、椿より「すごくない」人たちは、〝あいつには凡人の気持ちはわからない〟と昏い目を向けるだけだった。誰と知り合っても、友だちになっても、いつしか皆遠巻きに椿に「すごい」を期待するか、「すごくない」になって妬まれるかのどちらかしかなかった。

 要するに、人より優れているということは、椿に冷たい孤独しか運んでこなかったのである。彼女はただ、好きな人たちと楽しく笑って過ごしたかっただけなのに――。

 なので、椿は隠すことにした――自分の本当の力を、才能を、想いを。

 一族に伝わる護法童子の技も、あえて愚作と蔵に封じられているものを手にとり、変わり者だとそしられてやった。同じような悩みを抱えて家に反抗していた黒髪マリエに近づき、思うまま放蕩を尽くした。人の話を聞かず、はぐらかし、まともに向き合わず、そうしている内に、次第に周囲の期待が薄まり、諦めに変わっていくのが実感できた。

 心地よかった。「優れている」より何倍も楽しかった。みな自分に期待しないし、昏い目を向けられることもない。気の合う人だけが同じ目線で本心を語ってくれる。家族には距離を置かれたが、代わりに信頼できる仲間が出来た。

 けれど、〝隠す〟ということは〝無くなっていない〟ということだ。見えていないだけで、〝そこに在る〟という事実は変わらない。だから、気楽さや心地よさを感じた分、いつか隠したものが誰かに見つかってしまうのではないかと恐れるようになり、より強く隠すようになった。

 なのに、〝見て〟しまった。

 あの日、なんであんなところに行ってしまったのか――覗いてしまったのか――後悔が胸の奥に重く沈み、広がった。

 〝見る〟ということは〝見られる〟ということだ。きっと、見つかってしまっている。〝見た〟ことを知られてしまっている――あいつに――。だからもっと逃げなきゃと思った。温かい場所を壊さぬように。どこまでも逃げて、隠れていられるように。それなのに――。


 目の端から流れる冷たいものを感じ、椿は目を覚ました。節電の為か天井は暗く、樹脂張りの床に反射する誘導灯の緑色だけが廊下を寂し気に照らしている。

 ここは上恵大学附属病院の廊下で、椿はそこに置かれたソファーの上に寝ていた。ソファーといっても、やけに四角くて固い、待合い用としてよく置かれているあれだ。

 今、この無人病院には、昨日の四谷奪還作戦で出た負傷者たちが収容されていた。作戦自体はなんとか成功に終わったが、その犠牲となったものも少なくなかった。よって、ここの病室のベッドはそれらの負傷者で満杯であり、比較的傷の浅い椿は仕方なくここに寝かされていたというわけである。

 椿は横になったまま腕のガーゼを剥がし、傷の様子を見た。

 じくじくとしてまだ乾いていない。普段であれば紅輝の力ですぐ治るのに、こういったのは久しぶりだった。椿にこんな傷を与えられる者などそうはいない。そんなことができるのは、同じように紅輝を操る人間か、紅輝と近しく、高い霊性を持つ神や妖異と呼ばれる存在くらいだ。そしてこの傷をつけたのは後者の方だった。

(あのにやけガンマン……ワイアット――なんて言ったっけ……?)

 昨日、作戦中に偶然出くわしたその妖異は、仲間の〝仇〟に違いなかった。

 『大共鳴』後、街のチンピラや不良グループなどが相次いで何者かに襲われる事件が発生し、椿の率いるレディースチーム『朱夏しゅか』もその標的にされた。一時は、当時巷を騒がせていた『狼男』の仕業かと疑ったが、その後、幸運にも入院していた仲間の一人が一命を取り留め、意識が戻ったことで、真犯人の手掛かりを得た。

 それは実に不思議な情報だった。そいつの姿は〝まったく見えなかった〟そうだ。にもかかわらず、〝そこにいる〟のは間違いないと感じたらしい。なぜそう感じたのかというと、すぐ傍でチャカチャカと何か金属の機械を弄る音が聞こえ、いやに〝悪党〟を敵視した言葉を耳元で囁かれたというのだ。

 明らかに、妖異絡みだった。だとしたら、これは自分の所為なのかもしれない――椿はそう思った。稀にあるのだ。そういう、〝引き寄せて〟しまうことが。

(〝あんとき〟もそうだったよな……今ならマリッピーの気持ちもわかるわ)

 気が滅入った。いくら隠していても、強すぎる〝力〟を察知して妖異どもは寄ってくる。力ある者を喰らい、その力を我がものにしようと近付いてくるのだ。自分だけならまだいい、その結果、こうして周囲の者が巻き込まれ、危害を加えられる。それでなくとも『大共鳴』以降、ああいった妖異、怪異が街に溢れているのだ。このままだと、当然同じようなことが起きかねない――。

 強い苛立ちを感じた。それは現在の状況に対してか、自分自身に対してか――そしてその苛立ちもあってか、昨日は柄にもなく熱くなってしまい、あと一歩というところで敵を逃がしてしまった。

「くっそ、今度会ったらぜってぇ潰す……」

 暗い天井に、あの妖異のにやけ面を思い浮かべて拳を突き上げ――、

「わっ!」

 突然、そこに飛び込んできた別の顔に当たりそうになり、慌てて手を引っ込めた。

「コテっちゃん……?」

「大丈夫? 椿ちゃん……て、結構元気そうだね」

 飛び込んできたのは、道明寺虎鉄の顔だった。その顔はいつものように笑っているのだが、あまり眠れていないのだろうか、目の下のクマが気になった。

「食事、持ってきた。昨日と同じあんパンとスープだけど……」

 虎鉄はそう言って、食事の乗ったトレーをソファーの空いたスペースに置いた。

 この青年は、なんだかいつも自分に気を使ってくれる。けれどそれには、椿に取り入ろうだとか、逆に距離を置こうだとかといった卑屈なものがなく、あたりまえに受け入れられる自然さがあった。なぜそう感じるのかはわからない。ただ純粋に優しいだけなのかもしれないし、他人と自分を比べることを無意味と思う程に、自分を諦めているだけなのかもしれない。しかし何にせよ、椿には彼のそんな空気感が心地よかった。

 椿は「よっこいせ」と身を起こすと、

「マリッピーはこれ嫌いなんだよね」

 あんパンの袋をつまみ、ゆらゆらと揺らしてから開ける。

「そうなんだ。甘いの苦手なのかな……椿ちゃんは?」

「あたしはたい焼きの親戚だから好き」

 そう言ってひと口かじる。

 パンが口の中の傷に触れてなかなかの痛みが走ったが、

「う~ん、甘いうま~い!」

 と、笑顔で咀嚼してみせる。

 しかし虎鉄はその様子を見つめ、

「……ごめん、間に合わなくて」

 と、申し訳なさそうに眉根を寄せた。

 口の痛みはうまく隠したと思ったのだが、

(たまに、妙にするどいとこあるよなぁ)

 そう思った。彼が気にしているのは、昨日の戦いのことだろう。彼は「すぐに戻る」と言って友人を探しにいった。だがその結果は椿の怪我が物語る通りだ。しかしそう仕向けたのは椿の方なのだし、彼が気に病むことなどまったくない。

(ああ、でも『頼りにしてるよ』とか、余計なこと言っちゃったもんな……)

 椿は食事についてきたパックの牛乳を一口飲んで口内のパンを流し込むと、にかりと笑い、

「ぜーんぜん! あんにゃろとはタイマンかましたかったしねん♪ それよりさ、コテっつんは友だち君に会えたの?」

 と訊ねた。

 すると虎鉄は俯いて考え込むようなそぶりを見せたので、

「……あのさ――」

 椿は、まずい、つっこんだことを聞いてしまったか、とその言葉の続きに身構えたのだが、

「〝つん〟と〝ちゃん〟で、どうしてときどきちがうの?」

 と、ひどく悩まし気な様子で訊ねてきた。

 そのあまりに思いがけない問いに、

「ぷっ、あははは!」

 椿は堪らず吹き出してしまった。

「愉快だねぇ〝コテっちゃん〟は」

 本当にそう思う。彼は、素直にそう思って口にしたのだろう。椿の質問に答えがないのは、きっと〝そういう〟ことなのだ。目のクマもそうだし、友だちを探しに行った結果について、もう考えたくないほど、口にしたくないほどに色々と考えたのだろう。でもその上で、瞬時に浮かんだ言葉がそれというのが、なんとも言えず安寧な思考で可笑しかった。

 椿は涙を浮かべて一通り笑うと、笑い過ぎて痛む横腹を押さえながら、

「いひひ……それはそのまま楽しくいてくれたら、いずれときどき教えてあげよう」

「え、そうなの……? そのまま、ときどき……」

 虎鉄はその適当な言葉の意味を真面目に考えている。それもまた可笑しい。そうしていると、今度は妙に神妙な顔になって、

「そのまま……か。オレら、このままずっと生きてられるのかな?」

 そう言った。

「どゆこと?」

「うん……」

 虎鉄が食事のトレーを挟んで椿の一つ横に座る。

「オレたち『英血の器』ってさ、なんだかすごい存在みたいじゃない? オレ、自分のことそんな風に思ったことないし、今も実感はないけど、でもそのせいで命を狙われてるんだ、ってドゥクスちゃんも、駿河君も言ってた……それって、多分本当のことなんだと思う」

 口調はいつもの虎鉄だが、そう語る横顔はやはりひどく疲れて見えた。なのに、口の端にはまだ笑みを浮かべている。

「そうなのかもねぇ」

 それを見て椿もまた、神妙な空気を煽るでもなく、穏やかに微笑みながら返す。

「そのせいで、東京がこんなになっちゃったなんて、申しわけないよなぁって……」

「コテっちゃんの所為じゃないでしょ」

「そうなんだけどさ……でも本当にそうなら、誰も知らないところに逃げちゃいたいよ」

「………」

 逃げたい――こんな人でもそう思うんだ、と思った。やわらかくて、誰にでも好かれそうで、臆病なのに、友だちのためには体を張れるいいやつで、それでも、逃げたくなるんだ――自分と、同じなんだ、と。こんな状況になれば誰もがそう思ってあたりまえなのかも知れないが、椿にはなんだかそれがとても嬉しく思えて、そして――。

「――いいんじゃね?」

「え?」

「逃げちゃおうよ、東京からさ。一緒に大脱出だ! あたしもね、いい加減こんなの飽き飽きだったんだ」

 意外な返事だったか、虎鉄は明らかな動揺を見せたが、

「そしたらどこいく?」

 流れに任せてそう訊くと、

「え……ああ、う~ん……」

 すぐに腕を組んで真剣に考え始めた。そして暫くそうしたのち、

「どこか……遠い国? できれば受験がないとこがいいなぁ」

「あはは!」

 これが偽らざる彼の本心なのだろう。悪戯に隠すこともなく、そう言ってのける素直さが嬉しく、羨ましい。

「いいね、〝遠い国〟! 椿ちゃんは天才だからさ、行っちまえば先のことはどうとでもなるっしょ!」

「はは、頼もしいなぁ」

 しかし、そこで沈黙が落ちた。

 それはそうだろう。何度か死線を共にはしたが、二人は出会ってそれほど長いわけでもない。お互い知らないことだらけだ。なのに、その沈黙に椿の心は逸った。

 そして、虎鉄は言った。

「ホントに……行く?」

 椿は少し黙ってから返した。

「行くよ……ホントに」

 目が合った。お互いの目は真剣そのものだった。ともすれば、それは敗北者の目なのかもしれない。疲れて何もかも捨て、忘れて、隠れて、逃げることを選んだ負け犬の目なのかもしれない。それでもよかった。ずっとそうやってきたのだ。これからもそれでいい。特別な才能や力を持つ者が、それを行使しないことは罪だという者もいるだろう。しかしもう、知ったことではなかった。

「ぃよし! そうと決まれば善くんはスーパー急げじゃ! 出発は今日の二十三時! 東門前集合!」

「今日⁉」

「夜中は警戒厳しいからね、むしろそのほうが見つかんないと思って。嫌?」

 虎鉄は目を閉じると笑みを浮かべて首を振り、

「ううん。わかった」

 そう微笑んだ。

「そんじゃ、腹ごしらえはしっかりせんとだにゃん♪」

 椿は急いで残りのパンとスープを口にかき込んだ。虎鉄は笑みを浮かべたままその様子を見守り、食べ終えると空のトレーを手に、

「じゃ、あとで」

 と、もう一度微笑みかけて去って行った。

 一人廊下に残った椿は、

「ふあ~、電波戻ったらみんなに連絡しなきゃなー。『朱夏』ちん三代目は誰がいいかなぁ……やっぱあゆむか? でも最近あいつ出席悪ぃしなぁ……」

 などと呟いてみる。なんだか、興奮していた。こんなことになるとは今朝まで思ってもみなかった。逃げるというのなら、今までもずっとそうしてきた。でも、今回のは違う気がする。そこには、椿が久しく忘れていた高揚があったから。


    * * * *


 すっかり暗くなった上恵大学の運動場に、ここ数日見ることのなかった明かりが灯っている。それらはグラウンドの照明ではなく、いくつもの小さなガスランプの光であり、傍には光とセットでテントやタープが張られていた。

 天幕に描かれた『破魔菱』の紋から、それらは鎮護国禍のものだということがわかる。つまり、無事四谷を取り戻した彼らは、ここを前線基地として、さらなる『要石』の奪還を目指そうとしているのだった。

 テントは主に食料班のもののようで、あちこちから湯気とスープの香りが漂っており、係の衛士たちがあくせくと宿舎代わりの校舎に食事を運び込んでいる。その中心に、忙しく動き回りながら指示を飛ばす十文字駿河の姿があった。


 周囲を見渡して、一旦作業が落ち着いたことを確認した駿河は腕時計を見た。

(もうこんな……まいったな)

 時計の針は二十二時を回っていた。食事は全て行き渡ったようだが、予定より一時間以上も押してしまっている。しかしこれからやらなければいけないことは多い。元老院である大老会への報告書を作成し、政府への定時連絡も済ませなければならない。それから明日の計画を再確認しつつ、全隊の就寝確認と共に周囲に張った結界の状況確認も必要だ。それに――、

(あれは、いつ切り出すか……)

 取り戻した「要石」の扱いについて、樹里亜と話をつけなければならなかった。

 四谷の鎮守杜である加須賀神社からは地下を走る龍道に降りることができる。そしてそこを辿れば、丁度今いる上恵大学のすぐ脇、外堀の下あたりに安置されている要石に至ることができた。そこでこの要石を〝破壊すべき〟とする駿河と、〝維持し、利用すべき〟という樹里亜で真っ向から意見が割れていたのである。

 樹里亜の気持ちは――正直、わからなくもない。

 「要石」は霊的な首都防衛の要であると同時に、鎮護国禍の要でもあった。古くより、呪術による悠久の安寧を求め研鑽を重ねてきた先達たちは、千六百年頃、遠く西洋で完成した錬金術の技法を自分たちの呪術体系に取り込むことで「要石」を作り出した。そうして組み上げられた『東京結界』は妖異を鎮め、術師に多大な加護を与える結界装置の完成形と称賛され、以降数百年、衛士の呪術は「要石」の力と共にさらなる高みへと昇ってきたのである。つまりそれを失うということは、衛士たちの力を減衰させ、その技を数百年分退行させることを意味していた。

 越えなければならない障壁はもう一つ――それは、「要石」に対する樹里亜個人の想いだった。

 

 確かに、「要石」による結界はかつてない安寧を首都にもたらした。しかしそれは完璧ではなく、星行に伴い数十年の周期で効力が弱まるという弱点を持っていた。その隙を突かれ、大正、昭和にはそれぞれ一度ずつ、大きな災禍を許してしまったこともある。しかし平成の世、鎮護国禍はそれを補完し、より完璧なものへと昇華させることに成功した。

 それを成し遂げたのは、一代前の『一十が十』――駿河の祖父である十文字道長と、二代前の『一十が一』――樹里亜の祖父、一条大君だいくんであった。

 大君は「要石」のルーツが西洋錬金術にあることに立ち返り、その安定を図る為に西洋魔術の血を欲した。その提案に同意した道長は、ヨーロッパ周遊の際にドイツより一人の女性を連れ帰る。彼女こそ、駿河と樹里亜の祖母――〝エリンの魔女〟の血を引くという、クリスティアーネ・メトキオールであった。

 大君はクリスティアーネを一条家に迎え入れると、生まれた男女の双子それぞれに手ずから呪術を叩き込み、要石の補修を行わせた。果たして『一十』と『魔女』、それぞれの血が混ざり合った力はかつてない呪力を発揮し、「要石」の力を安定させたのである。

 その功績は、もちろん称賛をもって受け入れられた。しかしそれは『一十』の血を引く〝双子〟と〝結果〟に対してのみで、クリスティアーネには向かなかった。

 双子の一人――一条から十文字に嫁いだ母から聞いた話によると、祖母はとても肩身の狭い思いをしていたらしい。それも無理からぬことで、以前より国粋主義の強い鎮護国禍において、大君が強引に進めたこの婚姻は異策中の異策だった。当然反対する者は多く、純粋な大和人の系譜たる『一十』の血統に異国の血が混ざることを許せぬ輩たちは、ことにつけて祖母に辛く当たっていたようだった。大君もまた、そんな祖母を、事が済めば用済みと守ることなく、祖母は故郷から遠く離れたこの国で、不幸の内に亡くなったと聞いている――。

 

 祖母によく懐いていた樹里亜が、そんな彼女の犠牲をもって作り上げられた「要石」を守りたいと思うのも当然のことなのだろう。だが事態は既に、そのような個人的な感傷に左右されていられない状況に至っている。駿河とて、祖母の犠牲を必要なものと割り切ることはできていない。しかし、ならばこそ、要石無しでも国を守れることを証明しなければならないのではないか――そしてもう二度と、そんな不幸を強いられる者が現れぬよう、この組織を改革したい――駿河はそう考えていた。

 そうなのだ――この組織は長い間、血に束縛され、血を受け継いだものに多くの使命を強いてきた。

 駿河は強く思う――そうであってはいけない、と。安寧を守る者たちこそ、安寧を知らねばならない。決してその顔が苦渋のみに満ちていてはならないのだ。その想いは、樹里亜もきっと同じはずだ。だからこそ、駿河は自ら――。


「お疲れさまです!」


 突然聞こえた明るい声が、駿河の思考を遮った。顔を上げると、目の前に食事のトレーを持った原吹晶が立っていた。

「はい、先輩。ご飯まだでしょ?」

 晶がスープとパンの乗ったトレーを差し出す。思えば、現場を取り仕切るのに必死で自分の食事はまだであった。

「すまないがそこに置いといてくれ、後で適当に食べる」

 そう言って机に置いたタブレットを手に取ると、改めてこの後のスケジュールを確認する。

(そう言えば、こいつのことを忘れていたな)

 オオモノヌシに言われて仕方なく連れて来たが、晶は守らねばならない『英血の器』である。ではその晶がなぜこうして衛士に紛れて働いているのかと言うと、それはひとえに駿河が〝根負けした〟に過ぎない。初めは宿舎でおとなしくしていたのだが、それにも飽きてしまい、しつこく何か手伝わせろと言うので仕方なく配給の手伝いをさせていた。それが今や歴戦の衛士たちにもすっかり解け込んで、旧知の仲のように笑顔で皆と触れ合っているのだから大した順応力である。

「えーダメですよ、片付かないじゃないですか! 非常時なんだし、お皿一枚、スプーン一本足りなくなったって痛手なんですからね!」

 そしてこれである。高校で「部活連の後輩」という間柄でしかなかった頃は、駿河にここまでフランクな口を利くことはなかったと思う。それなのにたった一日で今やこの大隊の台所番といった風体だ。しかし言っていることは至極もっともであったため、駿河は仕方なく、

「わかったよ」

 と、保温容器とスプーンを手に取り、スープだけは飲むことにした。

 晶はうんうんとうなずくと、それで満足したのか、自分のタブレットを片手に食料在庫のチェックを始めた。駿河は立ったままスープを口にしながら、

(よく赤点補修受けていたが、こういうところはまともなんだな……)

 などと思いつつ晶の働きぶりを眺める。すると晶が、

「しっかし駿河先輩って、学校でもこっちでもやってること一緒なんですね」

「どういう意味だ?」

 何が一緒だというのだろうか? 確かに部活連会頭の仕事も、鎮護国禍の仕事も分け隔てなく真剣に取り組んでいる。しかしその業務内容は乖離しており、同じということはまったくない。

「いやほら、あちこち気にして、自分のことは後回しで動き回ってさ。ついつい人のやってることに手を出しちゃったり――あと、なんかずっと不機嫌そうにしてるとことか」

 不機嫌そう――そう見えるのだろうか。機嫌が悪いことはないし、威圧しているつもりもない――ないのだが、無駄や失敗を無くそうと集中していると、ついつい厳しい目線や口調になってしまうのはそうかもしれない。

「――そう見えていたというならすまない。僕は、人に無理に何かを強いたりするというのが好きではないんだ。だから自分で動いてしまうのかもしれない」

 若くして鎮護国禍の長となった駿河は、自分の力不足をはっきりと自覚していた。だからその分、やれることも、やれる以上のことも全てやり、できるだけはやく周囲を納得させる力を身に付けねばならないと思っていた。そうしなければ、血の力に頼らず組織を変えることなどできやしないだろう。

「えー、そんなの変ですよ」

 晶が言った。

(変……どこがだ?) 

 そのあけすけな一言が妙にひっかかり、思わずスプーンを止めて考えてしまった。

「………」

「頼めばいいじゃないですか。お願いしますって。お願いされるのってそんなに嫌じゃないですよ? 助けになりたいと思ってる人もいるし、その人はそう言ってくれるのを待ってるかもしれないもん。それに何も言ってくれないと、頼りにならないと思われてるみたいで悲しいじゃないですか」

 そういう考えもあるものか――しかし立場や相手の状況もあるだろう。すぐに納得はできなかったものの、腑に落ちるところも無くはなかった。何にせよ、晶には晶なりのしっかりした考えがあるようで、そこは部活連会頭として嬉しいことだった。

「なるほど、留意しよう。このまま無事日常が戻れば来年はお前も三年だ。ことによると部活連役員としてより大きな組織を運営していく立場になるかもしれんのだから、その調子でお前のやり方をつきつめ――」

「あー、すんません。そういう難しいのは苦手なんで」

「難しいって、お前主将だろう……」

 後輩の成長を喜んだ矢先の落胆に、駿河は眉根を寄せた。そしてふいに何かを思いついたようにすると、空になった容器を置き、段ボール箱から新しい容器を取り出して

「では、これを頼む」

 と晶に手渡した。

「はい?」

「その、〝お願い〟だ。これを樹里亜に持っていってくれ。どうせ、あいつも食べてない」

「……ふーん」

 なぜか晶は、その言葉ににんまりとした笑みを浮かべた。

「よく見てるんですね。自分で持っていったらどうですか?」

「僕は忙しいんだ。お願いしろと言ったのはお前だろう?」

「はいはい、そうですか」

 晶は容器を受け取ると、まだスープが温かいかを確認してから容器によそい始める。

「なんか、駿河先輩の印象変わっちゃったなぁ。先輩、いっつも眉間に皺寄せてるから、みんなに『にがり王子』って呼ばれてるんですよ? またみんなに会えたら教えてあげなきゃ。にがりの中身は、いろいろ複雑な頑張り屋さんだったって」

(「にがり」にそういう意味はないだろう……)

 駿河は再び眉根を寄せたが、何やら含むその物言いに、さらに眉間の皺を濃くして彼女が言わんとする意味に思考を及ばせる。しかしすぐに我に返り、

(……いかん、こいつと話しているとどうにも緊張が途切れる)

 晶が丁度トレーにパンと牛乳をセットしたところで、とっとと送り出すことにした。

「余計なことは言わなくていい。僕らのことは国家機密なんだぞ? 準備ができたのならさっさと行け」

「はーい」

 返事と共に晶が走り去っていく――が、ふとひとつ気になり、その背に声を掛けた。

「原吹――」

「はい?」

 晶が足を止める。

「――樹里亜は、苦手か?」

「うーん」

 その問いに、晶は上を向いて言葉を探したあと、片手にトレーを持ち換え、器用に首にぶら下げた巾着から何かを取り出して眺めた。

「憧れちゃう人だけど、ちょっと怖いかな……」

 それは、水上晴の《器》だった。

「でも仲良くなれたら嬉しいし、ちゃんと話してみます! わたし、いろいろ気にして話さないのとかやめたんです。前もそういうの黙ってて失敗しちゃったから……。せっかく頑張ってるんだし、先輩も素直にそうしてみればいいと思うよ! 一条――樹里亜先輩もそういうの待ってるかもだし!」

 そう言うと背を向け、再び軽快なリズムで走っていく。

「素直に……?」

 やはり、晶の言っていることはよく理解できなかった。樹里亜が何を待っているというのだろうか? しかしその言葉は、駿河の中になんとももやもやとしたものを残した――のだが、そこで駿河はまたしても考え始めようとしている自分に気付き、そんなことよりも今はやるべきことを片付けなければ、と自身を叱咤する。

(素直もなにも、やれることもやれないことも、すべてやるが僕の信条だからな)

 そして、夜食にとっておこうと避けておいたパンを手に取ると、大きく口を開け齧り付いた。


 * * * *


 上恵大学の東門にあるたった一つの街灯が音もなく消え、あたりが暗闇に包まれる。その暗闇に光が浮かび上がらないよう、真鶴椿は慎重にスマートフォンのディスプレイを手で覆いながら表示された時計を見た。

 時間は丁度、二十二時――虎鉄との待ち合わせまではあと一時間もある。しかし早すぎるということはない。先に済ませておくことは山ほどあるのだ。ここの街灯を落としておくのもそうだが、あちこちに仕掛けられているだろう警鐘用の呪陣、呪符を解除しておかねばならない。物憑きたちの侵入を警戒して用意したものなら、たっぷり一キロメートル先までは張り巡らされているだろう。

 椿は周辺を巡って剥がし集めた呪符をポケットから取り出すと、念を込めて指を滑らせる。

(やっぱり……)

 札に仕込まれていたその検知対象は妖異だけでなく、〝人〟も含まれていた。

(「全員敷地外に出るな」とか、おかしいと思ったんだ)

 この呪符は霊波により警鐘を鳴らすだけでなく、ある程度の殺傷力も秘めている。誤って人が引っかかったとしても怪我は免れない。つまり相手は、〝そういう結果〟も辞さない覚悟がある輩ということだ。いくら不死身とは言え、素人の虎鉄を連れて行く以上慎重に慎重を重ねるに越したことはない。

 椿は照射口を極限まで絞ったペンライトを口に咥えると、手にしたペンで呪符に念を込めつつ何かを書き加える。そして肩にかけていたボストンバッグを下ろし、猫のように電柱を駆け上がって、その先端に札を貼った。

(こっからは節約だもんね。とりあえずはこれで安心かな)

 今、椿が貼ったものは『隠し身の呪符』であった。これで、この周囲数十メートルでは他人に自分の気配や物音を察知されることはない。つまり彼女は、先程集めてきた呪符を再利用して新たな呪符を作りだしたというわけである。

(これをルートに合わせて数か所。急がなきゃだなぁ)

 椿は一つ息を吐いて地上に降りると、今度は大学のロビーから持って来た近隣の案内図を開き、逃走ルートを確認した。

 こういった緊張は久しぶりだ。こんな風に呪術を使うのは、昨日の作戦を除けば、ここ最近では仲間の仇捜しくらいだった。そもそも鎮護国禍の務めには協力的でなかったし、修行も、他人に呪術を見せるのも好きではなかった。それなのに今、誰に頼まれるでもなくこんなにも率先して呪術を駆使している自分がとてもおかしい。まさか自分の才能に感謝する日が来ようとは、人生何があるか分からないものだ、そう思った。

 これまでも逃げようと思えばいつでも逃げられた。しかしどこか思いきれずに足を止める自分がいた。その背中を押し、足を踏み出させてくれた虎鉄は本当に不思議なやつだと思う。彼との逃避行にまったく不安はないかというと、そんなこともない。しかしそれでも、「逃げる」と決めてから彼女の心は今までになく軽く、そのような不安など消し飛んでしまう程に活力が溢れていた。それどころか気を入れていないと、なんだか自然と笑みがこぼれてしまう。

「へへ、そんじゃ気合い入れて――」


「楽しそうですね、椿」


 体が固まった。

(そんなはずない……)

 ゆっくりと後ろを振り向く。

(いや……〝こいつ〟ならあり得るか……)

 そこには、月明りに照らされて――一条樹里亜が立っていた。

 樹里亜は、肩にかかり月光を照り返す金色の髪を片手でかき上げると、

「『隠し身の呪符』がうまく作用しなかった? でもね、私も修行を重ねているの」

 背中につつうと、滑り落ちる汗を感じた。

 椿は固まった顔の筋肉を無理やり動かして、

「いやぁ、じゅりじゅり腕を上げたね~。それにしても、久しぶりじゃね?」

「久しぶりなのは、あなたが私を避けていたからでしょう?」

 おどけてみせる椿に対し、樹里亜の口調はあくまで一定だ。

「いやいや、ほら、じゅりたん偉くなっちゃったからさぁ、椿ちゃんお務め嫌いだし? 依頼されちゃうのはゴミンだなぁとか思ったりして?」

 言葉が空回る。飄々として、いつもであれば無理やりにでも自分のペースに持っていく椿の口調が、今は只々滑稽なだけに思えてしまう。

 焦っているのだ。誰に見つかっても、彼女だけ・・・・には見つかりたくなかったから――。

「そう――」

 樹里亜は一言だけ返して暫く沈黙したのち、

「ずいぶんな大荷物のようですが、これからどこに行こうというのかしら?」

 と訊ねた。

「あはは、ちょっと――夜のピクニック?」

 もはや、椿の表情からは笑顔が消えかけていた。

 対して淡々とした樹里亜の表情に変化はない。

「――東京を見捨てるの? 私たち衛士にとってそれは重罪です」

 罪――。

 その言葉を反芻し、にわかに椿の拳に力が入り、

(――お前がそれを言うかよ)

 そして、椿の顔から完全に笑顔が消えた。

「んー、じゃあ正直に言うわ。あたし妖怪退治とかさぁ、もううんざりなんだよね」

「それでもあなたは力を持っている。誰が望んでも手にできないほどのね。それを振るわないことに罪悪感はないの?」

「だっからそういうの、椿ちゃんはどーでもいいんだわ」

「これから仲間が戦いに赴こうとしているのに?」

「仲間ぁ……?」

 椿の中で何かが吹っ切れたか、その目が冷たい光を帯びていく。

「――あいつらは仲間なんかじゃねぇよ。あんなのはあたしの力にすがって、利用しようとしてるだけだろ? あたしの仲間はもう……チームのやつらだけだぜ」

「でも、その子たちも置いていくのでしょう?」

「うるせぇよ」

「行かせると思いますか?」

「あたしに構うな」

 二人の視線がぶつかり合う。すると、樹里亜が不意に目線を下げた。

「椿――嘘ではないのでしょうけど、それは本当・・の理由でもないのでしょう? あなたは〝それ〟から目を背けたくて、私を避けていた」

「……なんのことさ」

「――あなた、〝見た〟のよね?」

 椿の目が見開かれ、

(やっぱり――気付かれてた)

 鼓動が早くなる。

 もう――逃げられない。

 椿は覚悟を決めるように一度目を閉じてから、

「ああ――〝見た〟よ。あたしはあの時、〝あの礼拝堂〟にいた。たださぼりにいっただけなのにさ、とんでもねぇもんを」

 そう告げた。

 樹里亜は、ゆっくり息を吐いた。

「椿、あなたは優しいわ」

「なにがだよ」

「それを見てなお、そのことを誰にも言わずにいてくれた。その優しさを許容している限り、私の決意は完璧なものにはならないの。だからあなたに――」

 樹里亜が流れるような動作で印を組む。その指に絡みつく紫の組紐に付いた鈴が、

「消えてもらわなければならない」

 チリンと寂し気な音を鳴らした。

 同時に指と組紐の隙間から紅い糸が伸びあがる。糸は螺旋を描いて樹里亜の体を包み込むと、血晶の帝衣と化してその華奢な肢体を覆った。

「くそ……やる気ぱんぱんかよ」

 ジリリと下がって距離を取る椿。

「あなたの貼ってくれた呪符のお陰でここのことは誰も気づかない。助けを期待しても無駄よ」

 その言葉に椿は時計を見ると、

「どうだろね。でも手っ取り早く済ませたいのは確かだわ」

 そう言って椿もまた鈴を鳴らし、血晶の羽をその身に纏う。

 しかし樹里亜は構うことなく、印を組み左手を高く掲げた。その指先から複数の細い血晶が螺旋を描いて天に飛ぶ。椿はそれを目で追い見上げたが、

(……っ⁉)

 まったく別の方向に悪寒を感じてその場を離れた。

 その瞬間、地面、壁、茂み、あらゆる場所から紅い糸が突き出て元居た空間を貫いた。

「どんな技だよ!」

 そのまま糸は細い螺旋を描いて椿を貫こうと追ってくる。

 椿はしなやかな体術を駆使し、跳び、身をよじり躱すが、

(……っつ!)

 まだ治りきっていない傷が痛み、思わず地に膝を突いた。そこを、背後から現れた新たな螺旋糸が襲い、椿は血晶の羽を盾にしてそれを防いだ――が、傷と同じくまだ力が戻っていないのか、血晶は脆く、ただの一撃でぼろりと崩れてしまった。

 その様子を、樹里亜は表情一つ変えずに眺めながら糸を繰り続けている。ともすれば、椿の今のコンディションも、彼女が今日この場所から逃げようとしたのも、全て樹里亜の計算だったのかもしれない――そして当然そんな隙を見のがす筈も無く、左手からさらなる螺旋糸を放った。

 糸が天へ消え、椿の全周囲から殺気が漂う。動けず、盾となる羽も無い。そして、目の端で紅色が揺らめいた。

(やべっ……!)

 ドンと体を押されてつんのめり、背後でガツッと何かが貫かれる音がした。椿が振り向くと、宙に直径三十センチ程の血晶の繭が浮遊しており、糸に貫かれていた。

「……っ⁉」

 糸に穿たれてできたヒビからぼろぼろと血晶が崩れ落ちる。中から現れたのは――、

「デンスケ⁉ なんで勝手に……」

 それは護法童子――真鶴家に伝わる呪式傀儡であり、椿がそう名付けて幼い頃より愛用してきた使鬼であった。それを無意識に椿が呼んでしまったのか、はたまた傀儡の意志が動かしたのかはわからない。

 ともかく、樹里亜の必殺の攻撃は防がれた。それでも依然彼女の有利は揺るがない。

「………」

 それなのに、その目からはまったく力が抜けず、むしろ警戒するように一歩下がって身構えた。

 いったいこの人形に何があるというのか――そうしている間に、血晶ごと貫かれた護法童子の頭部が欠け落ち、内よりすみれ色の光が溢れ――。

《この子は、私が守ります》

 女の声がした。

 その細い声を、椿は聞いたことがあった。どこで聞いたのか――夢――いや、子供の頃――。

 やがて光は人の形を成し、周囲に玉珠を浮かべた美しい和装の少女となった。

 少女は口に手を添え、ふぅ、と小さく息を吹くと、浮かぶ玉珠が光を放ち、絡みつく血晶の糸を紅い粒子に分解してしまう。

 どうやら、彼女は椿の味方のようではあった。しかし当の椿は唖然とした様子で膝を突き、樹里亜の方はというと、こちらは至極冷静に糸を引き、少女の動きを注意深く観察している。

「――そうよね、それがあなたの最大の〝護り〟。あなたがそれを手にしたのはいったい何の因果なのか……」

 少女もまた、その視線をまっすぐ受け、椿を守るように前に立つ。

《この玉珠はわたくしの虚ろ――わたくしの呪い――わたくしの因果――その外にある者に、これを破ることは適いません》

「知っています――〝伏姫神ふせひめがみ〟」

 そういう、名なのか――伏姫神はその細い指を前に掲げると、

《そして――ふせは何者をも逃がせ・・・ない》

 玉珠たちが瞬き、すみれ色の光の膜が呪いの触手を樹里亜へと伸ばした。

 その膜を――一刀が斬り裂いた。

「だから、私は準備・・をしました」

 いつの間にか、引いた樹里亜の糸は血晶の塊を成し、そこから使鬼を呼び出していた。

 砕け散り、漂う血晶粒子の中から突き出る刃――斬れぬはずの呪いを斬ったそれを見て、伏姫神は、唖然と呟いた。

《村雨丸――》

 紅い粒子の霧が晴れていく。その跡には、牡丹の花を髪に挿し、女と見まごうほどに美麗な顔立ちをした剣士が、水気すいき迸る刃を構え、立っていた。

 剣士の名は犬塚信乃――伏姫神が祟神となるその前に、因果を結んだ「犬士」が一人――。

《信乃……あなたはまだ……》

 心儚き伏姫神の表情は変わらない。しかし、その声は仄かに悲哀を漂わせていた。

「伏姫様――お救いに参りました」

 対する信乃は剣を構えたまま、長きに渡る想いを伝えるように優し気に微笑みかける。そして伏姫神の後ろで膝を突く椿に視線を移し、

「――樹里亜殿、あの者が伏姫様の〝封印〟か」

「そうです。そして伏姫神は、彼女の守護神霊でもあります」

 信乃は目を細めて椿に目をやると、

「承知――」

 霞に剣を構える。

《信乃、この子を殺めてはなりません》

 伏姫神が椿を守るように玉珠を寄せる。

「聞けませぬ。でなければあなたは解放されぬ」

《信乃――》

 思いは強くも互いの言葉はすぐに尽き、因果持つ二人がいざぶつかり合おうとしたところに、

「悪ぃね、ちょっと待ってくれっかなぁ」

 後ろで俯く椿が言った。

「ちょっと驚いちゃってる間に、こっち無しで話進めないでくれん?」

 そして立ち上がる。しかし、傷んだ体で紅輝を揮った負荷は見た目以上にあるようで、その足は震え、立っているのもやっとのようだった。にもかかわらず、発する気迫は凄まじく、二人の使鬼も思わず動きを止める。

「――いろいろ仕込んでご苦労だけどさ、本気の本気かよ、樹里亜」

 椿の鋭い視線が樹里亜に突き刺さる。

「ええ、言ったでしょ。これで私の覚悟が決まる。そしてあなたの恐怖・・も終わるのよ――私も全部、終わらせられる」

 樹里亜も引かずに返すが、その言葉に椿は瞼をぴくりと動かし、激しい反応を見せる。

「恐怖――覚悟だ? 調子ぶっこいてんじゃねぇぞ! なら見せてみろよ!」

 そして叫び上げ、力を振り絞るように血晶の羽を大きく広げた。

 すると樹里亜は一度目を閉じて、

「今、見せるわ――これが私の覚悟」

 両手で印を組み、強く鈴を鳴らした。


――リィン。


 それに呼応するように、遠くで小さく何かが鳴った。


――リィィィン。


 音は次第に大きなり、


――リィィィィィン。


 地面が鈍く揺れる。頭の芯を鷲掴まれ、揺さぶられるような痛みが走る。

(つっ……まさか……そこまで……!)

 その響きと痛みを、椿はつい先日舞浜で味わった。

「樹里亜、お前『要石』を……」

「ええ、〝共鳴〟させたわ。これからさらに共鳴現象は加速する――どう? これであなたが恐怖・・した・・理由・・はなくなったでしょ?」

「……ばっかやろう……」

 椿の膝が震え、その身が崩れ落ちそうになる。

 樹里亜はそんな椿を見据えながら、さらに鈴を鳴らす。

「――あなたはあの日の私たち・・・を見て、私が綺麗じゃなくなることを恐れてくれたのよね? 魑魅魍魎の巣くう組織の中で、唯一信じられた私たちが壊れていくのを恐れた――そうなるきっかけの一つが自分の存在だと知り、私にそうさせる・・・・・ことを恐れた。でももう大丈夫よ……私はこんなに汚れてしまったもの」

 椿の視界に映る樹里亜の悲し気な笑顔に重なって、知らない世界の記憶が映し出される。

(やっぱり……そうなのかよ……)

――仲間との旅、怪物と戦う日々――嵐の海、粗末な船の柱にしがみつき、誰かが傍にいる――人々に蔑まれ、忌み姫と呼ばれ、牢、嫌な音を立てて閉まる、檻――。

「全部運命なの……どれだけ逃げても、あなたも『器』なのよ。そうである限り、こうして私はあなたを諦めない」

 共鳴音がさらに空間に満ちていく。これだけの音の中でなぜ樹里亜は平気でいられるのか、音が、記憶が、椿の体と心を蝕んでいく。

 それでも、椿は、

「知るかよ! 今すぐ止めろ!」

「いいの? それじゃあなたの恐怖は終わらないわ」

 傷が開き、血が流れ落ちる足を踏み広げ、

「……確かにあたしは怖かったよ。薄汚いやつらの中でやっと仲間と思えたお前たちが――お前が、汚いものになっていくのが怖かった……だから外に仲間つくってみたり、全部見なかったフリして逃げたよ。このまま逃げても結果は変わらないのかもしれない……でもさ……!」

 目を血走らせ、口から涎を垂らしつつ、それでも立つ。

「損も得もさ、何も無しにあたしと逃げてくれるってやつがいんだよ……もう一回、あたしに温かい場所をくれるかもしれないやつがいんだよ! そいつを、今さら裏切れっかよ!」

 叫び、椿が駆けた。

 同時に椿の鈴が鳴ると紅い蝶が舞い、その手に血晶の短刀を作り上げる。

 瞬時に反応した信乃が樹里亜の前に進み出て刀を突き出すが、伏姫神の振るう玉珠の防壁がその軌道を塞ぎ、さらにその数センチ下を低く身を屈めた椿がすり抜ける。

 そして身を起こしざま、紅い刃を樹里亜の胸元へと突き出し――

「甘えて、その人まで恐怖に巻き込むの?」

 そう言われて――なんだか、その手を止めてしまった。

「そこで止めるのなら、私の覚悟には勝てないわ――ごめんね、椿」

 樹里亜の悲しみに歪んだ口から、そうこぼれた。

 その顔を見てしまった椿は、

「くっそ……謝んならすんなよな、ばかじゅり……」

 どんな表情でそう呟いたのか――。

 そして鈴の音が、悲し気に小さく跳ねた。


    * * * *


 大学キャンパス北研究棟の裏手、その暗がりをひっそりとした呼吸音が移動していく。

 道明寺虎鉄は、人に見つからないように細心の注意を払いながら、東門へと向かっていた。

 東門まではあと数分といったところか。しかし着いたとして、椿と約束した時間にはまだだいぶ早い。気が急いて、早めに出てきてしまったのだ。

 それでも、実際これだけの組織なのだから見張りや警邏は厳重なはずで、それらを避けて待ち合わせ場所を目指すのだとしたらどれだけの時間がかかるかわからない。なのでかなり時間に余裕をもってみたのだが、なぜだか誰に出会うこともなく、すんなりここまで来られてしまった。

(でも、こうまで何も起こらないと逆に不安になってくるよなぁ……)

 虎鉄は立ち止まり、一度落ち着こうと胸に手をやった。思ったよりドキドキしていない。

(……なんだろう、結構大丈夫なのかな、オレ)

 ある程度興奮状態なのは自覚している。しかし昨日の今日で、このように安定した気持ちでいられる自分が不思議だった。

 昨日、郁郎を助けにいった先で千尋に出会い、その言葉に深く心をえぐられた。

 ショックだった。ひどく落ち込んだ。

 とても辛くて――辛いのに、一晩中そのことを考えていた。

 何がそんなにショックだったのか――父親のことはもちろんある。一緒に行けないと言われたこと、殺し合わなきゃならなくなるかもと言われたこと――しかし一番は、千尋が「ずっと一人だった」と口にしたこと――十年間彼と支え合い、お互い寄り添ってきたと思っていたのに、結局は、自分だけが千尋に依存していたと思い知らされたことだった。

 しかし――やはり思い出すと辛いは辛いのだが――その波だった気持ちが、なぜか嘘のように静まっていた。もしかしたら、そんな風に誰かに依存し続けてきた自分が、今、初めて自ら決めた道を歩もうと踏み出せている所為かもしれない。

 とはいえ正しくは一人でないし、今度は、そのきっかけとなった椿に依存しているのでは? と問われると違うとも言いきれない。なにせこれほど長い間自分を勘違いしてきたのだから。それでも間違いなく、彼女のことを守りたいと強く思えていた。

 虎鉄は深く息を吸い込むと、

「よしっ!」

 と小声で気合いを入れて大きなリュックを背負い直す。そして残りの道のりを一気に進んでしまおうと足を踏み出して――――その音を、聞いた。

 

 体が固まり、背筋にぞくりと悪寒が走った。

 気の所為ではない。

 この音を、虎鉄はもう何度も聞いていた。


――リィィン。


(〝共鳴〟だ……!)


 何かが始まった――強烈な不安と、嫌な予感が頭を駆け巡った。

 虎鉄はすぐさま駆け出し、走りながら人差し指を噛み切って血晶を纏った。

「来て! 二人とも!」

 そう叫び使い魔を呼び出す。

 宙に紅い血晶が浮かび、それが砕けると、〝風魔小太郎〟と〝キング・アーサー〟が顕現した。

 虎鉄はそのまま振り返ることなく駆けていく。

 アーサーは何事かと眉をひそめたが、すぐに周囲に響く音に気付き、

「小太郎君……これって……」

「ああ」

 小太郎がその言わんとすることを悟って頷く。

 アーサーは思案気に顎に手をやり、

「だとすると相当まずそうだね……他にも召喚した方がいい、特にアマテラスは……虎鉄君っ――」

 と、あとを追おうとしたところ、小太郎に肩をつかまれた。

「俺たちだけでいい」

「……?」

 その声の冷たさに、

「……どういう、ことだい?」

 アーサーは小太郎へと向き直り、剣の柄に手を掛けた。

 

 走って、走って、東門が見えてくる。

 電灯は――ついていない。辺りは暗く、近づかなければそこに誰がいようと見えない程だ。

 予感がした。腹がぎゅうっと締め付けられるような、嫌な予感が。

 門に近づいていくと、すぐ傍の電柱に寄りかかるように座る影が見えた。

「椿……ちゃん?」

 恐る恐る声をかける。

 影がぴくりとゆれて、こちらを向いた。暗がりではっきりしないが、

「うわぁお、早いじゃんコテっつーん」

 やはり椿だった。

(よかった……)

 虎鉄は急ぎ傍に駆け寄って膝を突く。

「椿ちゃん、だいじょぶ? 頭痛い? なんだろう、これって〝共鳴〟だよね……?」

 椿は前にも共鳴を浴びて体調を崩していた。心配した虎鉄は椿の背に手を置く。

「おっとぉ、ボディタッチ♪」

「あ、ごめん!」

 虎鉄が慌てて手を引き、椿はいつものようにくすくすと笑う。しかし――明らかに様子がおかしい。

「何か、あったの?」

「……うん、やらかしちった」

 暗くてよく表情は見えない。それでも無理に笑っているだろうことは雰囲気でわかった。

 動悸がする。止まらない。どんどん激しくなっていく。

 ――そっと、胸のあたりにかかる重みを感じた。椿が、そこに頭をもたれているのだ。

 そして、

「――ゴミン、遠い国、行けなくなっちった」

 重さが増した。体にまったく力を入れず、ただそこにあるだけのように。

 その体を支える虎鉄の手に、じとりと何か濡れる感触がした。

 傷が開いたのか? でも大丈夫なはずだ。構内に化け物はいなかったし、それに、椿も自分と同じ「英血の器」なのかもしれない。たしかドゥクスがそう言っていた気がする。ならこんな傷くらい――思考が高速で回る。

 しかし、虎鉄の手を濡らす感触は止まらない。

 アルカナの光を、感じない。

「うっ……」


――リィィン。


 音が、耳につく。


――リィィィン。


 うるさい、やめろ――何かが、見える。


――リィィィィン。


 見覚えがある、何か――灰色の海、船の上で怪物に囲まれて――巨大な怪物に取り込まれた少女――その胸に、突き立つ剣――。

 

「うぅ……うわあああああああああああ」


 絶望が、木霊した。


    * * * *


 四ツ谷駅の南側には美しい公園があった。かの迎賓館に臨むその公園は、列柱が囲む噴水を中心に据えた西洋庭園風の景観で、都心に暮らす人々の目を癒したものだった。しかし『大共鳴』後はいたるところをフォグツリーに貫かれ、その壮麗さはもはや見る影もない。さらには所々地面が陥没しかけて危険なことから、中に立ち入らないよう周囲をコーンバーと防炎シートで囲まれ、外側から当時を懐かしむことすらできなくなっていた。 

 夜空の下、その白いシートの一部がぼんやりとしたオレンジ色に染まり、夜闇に浮かび上がっている。ゆらゆらと揺れるそのオレンジ色は、シートに映る焚火の光だろうか。

 覗いてみると、シートの奥には案の定、男女が二人。崩れかけた噴水の段に座り、一斗缶に廃材を詰めて燃やした炎を囲んでいた。

 その内の一人――神名千尋は揺れる炎を見つめながら、昨日のことを考えていた。


 龍道を脱出して葛西橋の辺りから地上に出た千尋は、一旦土地勘のある場所に戻ろうと西へ向かった。食料を確保しながら首都高沿いを歩いて数日、霞が関に着いたあたりで、郁郎に会ってみようと四谷に向かい、そうして訪れた上恵大学附属病院で、虎鉄に再会した――。

 あのときの悲しみに歪んだ虎鉄の顔を、揺れる炎の中に思い出す――なぜ、あんな言い方をしてしまったのか――悲しませたかったわけではないし、彼を大切に思う気持ちがないわけでもない。ただどうしても、彼の思いに自分の心を寄せることができず、突き放すように距離を置くことしかできなかった。彼と共に行くことよりも、一人でも、生き延びることを選んでしまった。

 生き延びる――父の死と過ごしたあの日から、千尋にとってはそれが何よりも優先される命題となっていた。それは裏を返すと、彼には世界が「生きようと足掻かなければ殺される世界」に映っているということだ。今もそうであるように、確かにこの世界は彼の存在を拒絶し続けている。だから千尋もこの世界を嫌悪し続けた。

 ではなぜ、彼は生を諦めず、そのような世界で生き続けようとするのか――その根源がなんなのかは、千尋自身にもわからなかった。あの山荘でのことは、そう強く思うようになったきっかけに過ぎない。根源ではないのだ。だから考える。いったい生き抜いたとして、その先になにがあるのか――いつか、世界を許せるのか――。

 そんな折だった、龍道で白木優羽莉の心に触れたのは。彼女は千尋と同じように世界に拒絶され、それでも必死に世界にしがみ付いて生きようとしていた。

 なぜそうまでして――そう思い、彼女の姿に自分を重ねた。そして改めて強く、生に拘る自分の根源を、生き延びる意味を知りたくなったのだ。それを知るには、今一度あの日からの自分と向き合わねばならないだろう。十年間一度も会うことの無かった母親――その間に出会った人々――。そうして千尋は、まずは所在が分かっている郁郎に会うことにし、彼を預けてきた上恵大学附属病院へと向かったのだった。

 郁郎――彼とは大学で出会った。同じ英文科のクラスで、一年生のときに彼から話しかけてきた。屈託のない笑顔で話す飄々とした男なのだが、愛想のない千尋に気を悪くすることもなく、むしろ何が気に入ったのか、「興味を持った」と進んで千尋の生活に入り込んできた。

 不思議な男だった。いつの間にか居候先の道場に入門し、虎鉄とも打ち解けていた。人と距離を取りがちな千尋にすら存在を意識させない気軽さがあり、気付くと傍にいることが当たり前になっていた。

 彼をなぜ自分の世界に受け入れたのか、こうなった今、彼を目の前にして何を思うのか――病院に着いた千尋は、無人の入退院窓口で病室を調べ、そして空のベッドを見たとき、「良かった」と、思ってしまった。

 そう思った意味を、今も考えている。虎鉄に言った通り、怪物になった郁郎と〝殺し合い〟をしないで済むと思ったのも確かだ。だからと言って、消息不明となったことを普通「良かった」とは思わない。さらにその後すぐ、病室に現れた虎鉄と再会した際には、彼の無事に安堵しつつも拒絶してしまった。

 二人の〝今〟と向き合った結果、千尋に芽生えたこの気持ちの正体とはなんなのか、むしろ、世界を拒絶しているのは自分なのではないだろうか――生き延びようとして、嫌って、拒絶する――自分は、いったい――。


「また難しい顔してるね」

 千尋から少し離れて横に座る女――森園英子が言った。彼女は、千尋の使い魔〝セルディッド〟が憑依する人間であり、使い魔として呼ばれないときは、たいていこの姿で過ごしていた。

「そうかな? 変わらないと思うけど」

 千尋は膝の上で組んだ両手に顎を乗せ、焚火を見つめたまま答える。

「してるよ。確かにほとんど変わらないけど、最近少しわかるようになってきた」

 言いつつ、英子は両手で持った紙コップのハーブティをすすった。

「虎鉄君のこと、後悔してるんでしょ」

「してないよ。あいつに言ったことは本当だし……ただ、その意味を考えてた」

「意味……?」

 英子は少し考える風にしてみたが、

「やっぱり難しいことじゃない」

 と苦笑を浮かべる。

 しかし千尋は黙ったまま返事をしないので、英子は仕方なく話題を変える。

「それで、これからどうするの?」

「考えてる」

「あ、また難しい顔」

 くすくすと笑う英子に、千尋は目を閉じて鼻から息を吐くと、

「あんたこそどうするの?」

 と逆に訊ねた。

「何が?」

「いつまで僕といるつもりなのか、って」

「いるわよ。私、あなたの守護者だもの」

「ずっと?」

 その問いに、英子は仄かに寂しげな顔になり、少しだけ間を空けてから、

「ずっとではないわね」

 そう答えた。

「そのとき、〝森園さん〟はどうなるの?」

 千尋が言っているのは、彼女の体の〝持ち主〟の事である。本当の〝森園英子〟は千尋や郁郎と同じ上恵大学英文科の学生であり、セルディッドが憑依すると共に、その意識が消え去ってしまっていた。

「前に言ったときと同じ、わからないわ。でも体が生きているのなら、私が離れれば元に戻る可能性はあると思う」

 そう言って、英子は自分の手を見た。

「なんで僕を守るのさ」

「それも前に言ったわ。私が前の世界で一緒に戦っていた人のため」

「じゃあさ、僕を守り切った先に、あんたに何があるの?」

 気付くと、千尋の視線はしっかと英子に向いていた。英子は一度その視線を受けはしたのだが、すぐにそれを逸らし、

「まだ、言えないわ。でも――もうすぐわかるかもしれない」

 そう言って開いた手を握った。

 沈黙が落ち、焚き木が小さく弾ける音だけが、細かな火の粉と共に漂う。

「あんたってさ、すごく長く生きてるんでしょ?」

「……何よ、突然。なんだか今日はよく喋るわね……まぁ、〝人間〟よりは全然長く生きてるけど」

「生きてきて、どう思う?」

 質問の意味が分からず、英子が眉をひそめる。

 しかし千尋はもう、英子のことを見ていない。

「……生きるって、どういう事かな?」

 そうじっと焚火の炎を見つめる目は、何か深い思いに駆られているようだった。

 英子もまた焚火を見る。今、二人はそれぞれの炎の中に何を見ているのか――。

「――想いを、持ち続けることじゃないかな」

 英子はそう答え、

「想いを――」

 そのとき、

「主様ーー! 缶詰いっぱい見つけましたよ!」

 空中からやけに元気な声が降って来た。

 二人が見上げると、海月くらげの羽衣を纏った少女が、両手に缶詰をいっぱいに抱えて空から降りてくる。

「ちょっとチルヒメ、あんたそれお金ちゃんと払ってきたんでしょうね? 神様が自分の国で万引きとか目も当てられないわよ?」

 その少女――千尋の使い魔の一人である〝コノハナチルヒメ〟は、英子の言葉にぷんと頬を膨らませた。

「ぶ~、何をいいますかエルフ娘! チルはちゃーんと主様にお小遣いをもらっているのです! さぁさぁお食べ下さい! チルは食しませんので遠慮なくどうぞ! 姉さま方の為にも主様には栄養をつけてもらわないと!」

「栄養って……それ〝桃缶〟だし……」

「何かおかしいですか? チルは知っているのです! この銀色の筒は主様の好物なのですよね?」

「十分おかしいわよ。千尋が好きなのは筒じゃなくて〝サバ缶〟」

「ま! 何て知ったか憎らしい顔をするですか! チルは神様ですよ!」

 さっきまでの静かな空気が嘘のように騒がしくなり、にわかに言い合いが始まりそうになったところで、

「もらうよ。ありがとう」

 千尋が手を伸ばして缶詰を受け取った。

「ほーっほっほ! 見ましたかエルフ娘! さすが姉さま方がお見初めした主様! 懐が深い――あれ? おかしいですね……」

「だからおかしいって言ってるじゃない」

 英子は腰に手を当て不満げに返すが、チルヒメは構うことなくぽんと海月の羽衣を叩き再び宙に浮かび上がった。そしてきょろきょろと周囲を見渡すと、両耳に手を添えて耳を澄ませる。

「ほら、おかしいですよ? 〝マナ樹〟たちが騒いでます」

「え……」

 チルヒメの様子に只ならぬものを感じ、英子もまた耳を澄ます。

「本当だ――」

「………!」

 何かを察し、千尋が立ち上がった。

 同時に、三度目の恐怖が〝音〟に乗って街に響き渡った。


    * * * *


 校舎、研究棟、運動場、いたる場所で衛士たちの喧騒と怒号が飛び交う。

 数分前、突然鳴り響いた共鳴振動に、大学構内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなっていた。

『慌てずその場を動くな! 落ち着いて近くの者と、互いに〝真音まがね返し〟を唱えるんだ! それぞれの身を守れ!』

 運動場に設置されたタープの下で、十文字駿河が緊急無線のマイクを手に取って叫ぶ。

(出力が凄い――鳴っているのはここ・・の『要石』か……でもどうして……!)

 この共鳴音は、間違いなく過去二度にわたって東京を襲った音と同質のものだった。鎮護国禍の衛士たちは自らの紅輝をふるわせるにあたり、「真音」という共鳴音を使う。しかし今、あたりに響き渡っている音は、それとはまったく別の、恐怖を運ぶ音だった。

 四谷奪還作戦に当たり、共鳴音への対処法は衛士たちに伝えていた。しかし、これほど共振源に近いとなると、その効果もいつまでもつか分からない。ともすれば、鍛えられた衛士たちであっても〝先祖返り〟を起こし、怪物となってしまうかもしれない。

(樹里亜はいったいどこへ……いや、四の五の言ってはいられない。龍道にもぐり「要石」を破壊するしかない!)

 駿河がそう決意したとき、ドンッと地面が大きく跳ねた。

 何事かとタープから飛び出て辺りを見回す。

 すると、何十人といる衛士たちが唖然と立ち止まり、みな一様に一つの方向を見上げていた。

 その視線を追い、駿河も見上げた。

「何だ……あれは?」

 校舎の向こうに、ぬぅっと巨大な影がせり上がった。

 長い手足に生えた禍々しく鋭い爪に、荒々しい頭髪から覗く逞しくも神々しい角――獣のような、人のような、神のような――。

「……〝魔神〟……」

 そうとしか言いようのないものがそこにいた。

 魔神は暫く周囲をじっと睥睨へいげいしていたが、徐にその巨大な腕を振り上げると、ブォンと空気を震わせて校舎へと振り下ろした。

 頑強な鉄筋コンクリートの一部が、粘土のように一瞬で削り取られて消えた。そしてその消えた破片が、ぼうっとその様子を眺めていた衛士たちの一角に激突する。

 そのすさまじい衝突音の中に、駿河は、悲鳴も上げる間もなく潰れる肉の音を聞いた。

 体が硬直した。覚悟は、とうの昔に決めたはずなのに――。

 魔神は低く唸り、もう一度腕を振り上げる。

「……くっ……ぅおおお!」

 駿河は雄叫びと共に自身の頬を殴り飛ばして気を注入すると、独鈷鈴を取り出して三印を切り鳴らした。すると澄んだ音と共に駿河の右肩に紅い炎が灯り、それがぶわりと吹き上がったかと思うと、全身を包みこんで血晶の皇衣を作り上げる。そしてそのまま素早く新たな印を組んだ。

「急急如律令、御招来奉る!」

 唱文と共に、駿河の肩の炎が分離して宙を燃やし、結晶体を作り上げる。

 同時に、魔神の腕が振り下ろされ、さらなる破片が運動場へと降り注いだ――が、それらは地面に激突する数メートル手前で停止していた。

 見ると、瓦礫たちに木の根のようなものが絡みつき、それを宙に繋ぎとめているではないか。そして根を辿ると、その全ての元は、駿河の造り出した血晶に繋がっていた。

「感謝申しあげます。ククノチノカミ」

  駿河が頭を下げると、血晶が爆ぜ、そこに木の根が人の形となったような使鬼――ククノチが現れ、ゆらゆらと体を揺らした。

「ぴひょ~、なんともな事態ですな、駿河」

「はい。共鳴音と共に得体のしれぬ妖異が現れました。ククノチノカミ、始原に近しきあなた様であれば、あれの正体がお分かりになるのではと――」

「ん~~?」

 駿河が指し示す方向にククノチが細枝のような首を伸ばす。

 そして、にわかにわなわなと震えだした。

「ぴひゃら~~! 駿河! あれは妖異などではありませぬぞ⁉ あそこに立つはまごうことなく『創世主の形代』――王種たる人がいずれ久遠の果てに至るべき姿でございます!」

(創世主……王種……?)

 聞いたことの無い言葉だった。その正体がわかれば対処のしようもあるかと思ったのだが――。

「では、なにとぞ対抗手段を……!」

「そのようなもの……器たる肉はあれでその魂が人のままだとすれば、それはまさに禍津神まがつかみに同じ。幼き子が親に挑むようなもの。そこらの神魔霊獣如きでは歯が立つどころではありますまい。降魔ごうまであればあるいは……いやいや、この世界・・・・に降魔は居ようがなし……」

 ククノチは小さな顔を左右に捻りうんうん唸る。その言葉の一部に、駿河は強い反応を見せた。

「あれは……〝人〟だというのですか……?」

「そうですぞ! お前たちのいう『物憑き』などではございませぬ! 『王種』とは人の隠し名! あの魂はまごうことなき〝人〟なり!」

 それを聞き、駿河はもう一度魔神を見た。

(そういえば、原吹が言っていた。あれがもし、水上晴が姿を変えた巨人と同じなのだとしたら――)

 そしてもう一度印を組み、魔神へと意識を集中する。

(この紅輝の感じ……)

 駿河はぎりりと歯を噛むと、一度タープに戻り、無線を手にし、

『聞こえるか! 全同志散開! すぐにこの場から撤退せよ! あの巨人には決して近づくな‼』

 そうとだけ指示を出すと、すぐさま外に出て独鈷鈴を鳴らし、新たに肩の炎を舞わせた。

 渦巻く炎から現れたのは、妖艶な笑みを浮かべた半裸の少女だった。見た目はただの可憐な少女なのだが、薄桃色の髪から覗く、つんと尖った耳が人ではないことをうかがわせる。

「は~い、駿河。珍しいわね、わたしを呼ぶなんてどうしたのかな~?」

「〝マールト〟! 僕をあの校舎の上まで運んでくれ!」

 マールトと呼ばれた使鬼は宙に浮いてくるりと駿河の指さす校舎の方を向き、その向こうで唸りを上げる魔神を目にしてひどく顔をしかめた。

「冗談でしょ⁉ 嫌よあんなのに近づくの! それに重いし!」

「ドラウエルフの〝魔法〟があるだろう! あとで僕の精気をいくらでもくれてやる! 急げ!」

 マールトはさらに顔をしかめたが、あまりの駿河の剣幕に、

「なんか、そんなこと言ってる場合じゃないって感じね……わかったわよ」

 腰から小瓶を取り出すと、中の粉を駿河に振りかける。すると駿河の体がふわりと地面から浮き上がった。

「それじゃいくわよ!」

 そして駿河の脇を抱えると空高く飛び上がり、炎で雲を赤く染め始めた校舎の方へと飛んでいった。


 眼下では、並び立つ校舎や研究棟が半壊し、実験施設から漏れ出た化学物質にでも引火したのか、次々と各所で小さな爆発を引き起こしている。そしてその真ん中で、激しい咆哮を上げる魔神が腕を滅茶苦茶に振り回し、まるで世界が憎くて仕方がないとでもいうように破壊を尽くしていた。

 マールトに抱えられてその光景を見下ろす駿河は、怒りでも困惑でもなく、ただ強い焦燥に駆られたような表情を浮かべている。

(やはり……)

 予想通り、魔神はその体から大量の紅輝を垂れ流しており、その波動は近づけば近づく程、見知った誰かのものに思えてならなかった。

 その時、

「きゃあ!」

 マールトの悲鳴と共に駿河の体がぶんと横に振られた。急激に逸れる視界の端に、稲穂色の髪と剣線が見えた。

「ちょっと、なにすんの!」

 マールトは瞬時に進行方向を変えながら、高速で何者かから逃げ回る。

「マールト! 僕に任せろ! 手を放して僕をあそこに降ろせ!」

 そうは言うものの、駿河の指し示す屋上まではまだ十メートル以上はある。マールトは躊躇するが、そうしている間にも背後の殺気がどんどん距離を詰めてくる。

「早くしろ!」

「んもう! 知らないわよ!」

 マールトが手を放すと粉の効果が解け、重力を受けた体が急速に屋上へと引き寄せられる。しかし駿河は冷静に独鈷鈴を鳴らしてマールトを血晶へと戻し、更なる血晶の炎を手前に放った。轟と屋上へと飛んだ炎はその場で渦を巻き、筋骨隆々とした赤い巨人へと姿を変え――、

ああああああ!」

 雄叫びを上げた巨人が、がっしりと駿河を受け止めた。そして駿河はそのまま身を反転させると、今度は上空へと炎を放つ。炎は宙を走りながら見る間に人の形を成していき、それが爆ぜると中から同じく筋骨たくましい青い巨人が姿を現した。

うんんんんんんん!」

 唸りつつ、巨人は黒鉄に覆われた巨大な右こぶしを振りかぶると、空より迫る何者かに思い切り打ち込んだ。

――ガシィィィン!

 激しい金属の衝突音が木霊する。

「やっぱり、そうなのか……」

 駿河が呟いた。

 駿河の呼び出した使鬼――〝仁王・吽〟の拳を、剣を平にして受けたのは、虎鉄の使い魔――キング・アーサーであった。

「やぁ……駿河君だっけ……? 悪いね……ちょっと僕を抑えててくれないか?」

 アーサーは何かに必死に抵抗するように体を震わせて、苦しそうにしながらも、笑みを浮かべてそう言った。

 駿河は吽に命じてその小さな体を捕まえると、屋上まで引きずり下ろし、さらに阿にもその肩を掴ませ抑え込む。

 駿河はアーサーの前に立つと訊ねた。

「答えろ――あれは道明寺さん・・・・・なのか?」

 その問いに、アーサーは苦しみに顔を歪ませながらこくりと頷いた。

「……気付いたら、ああなっていた。そのあとは体を支配されてこのざまさ。僕は彼と契約しているからね、彼の破壊衝動のままに体が動いてしまう」

 駿河はぎゅっと、震えるほどに拳を握り込み、少し離れたところで破壊を繰り返す魔神を見る。

(道明寺さん……あなたが、どうして……)

 いつも自信なさげに笑い、それでいて妙に人好きのする彼の笑顔が脳裏をよぎる。

「元には……?」

 アーサーは首を振った。

「僕も彼を助けたいよ……けどもう……彼を止めるなら、僕なんかよりもっと強い〝王〟の力が必要だ――」

 そして駿河を見つめ、

「君の中にはその片鱗があるように思える……アルカナ……〝紅蓮の力〟が――」

 そう言った。

「紅蓮――〝王〟の力……」

 駿河は魔神を見た。

 駿河たちがいる屋上の数十メートル先で、魔神が咆哮を上げ、地面を揺らす。

 その爪のひと薙ぎが、十五階はあろうかという校舎の上三分の一を一瞬で消し飛ばす。

「……やってみよう」

 駿河はジャケットの内ポケットを探ると――宝石、だろうか――小さな蒼碧色の立方体を手に取った。

「それ……『選定の石』じゃ……」

 アーサーが目を見開き、手に握る剣がひとりでにカタカタと揺れる。

「……〝カリバーン〟、ごめんね。今は堪えて」

 アーサーは仁王たちに押さえられながら首だけ剣に向けて言うと、

「その石が君の手元にあるのなら、僕の見立ては正しいのかもしれない……頼んだよ」

 駿河にうなずきかけた。

 駿河もまたうなずき返すと、片手で三印を切り、もう片方の手に乗せた立方体に血晶の炎を当てて放り投げる。

「今こそ御してみせる――〝リア・ファル〟‼」

 駿河の声に呼応して空中の立方体が輝いた。そしてそれは瞬時にその体積を何十、何百、何千倍と増やしていき、ついには、数十メートルはあろうかという蒼碧に輝く竜へと姿を変えたではないか。

 駿河の後ろで、アーサーが懐かしそうにリア・ファルを見る。

 リア・ファルもまたアーサーに気付いたか、長大な首を巡らせると、

《久しいですね、アーサー。そして〝封印の剣〟も――この日を予見していましたよ》

「頼むよ……彼を〝王〟に」

《それは、この〝エリンの子〟の魂が決めること――ですが、試してみましょう》

 リア・ファルはそのまま首を伸ばして、屋上から飛び出した駿河を頭に乗せる。

「いくぞ、リア・ファル! あれを止める‼」

 駿河の命令と共に宝石の翼が広がり、その巨体を宙へと浮かび上げる。そうして校舎を二つほど飛び越え、地響きを上げて魔神の背後へと降り立った。

 魔神は夢中で何かを探すように校舎をなぎ倒していたが、不意の振動に振り向く。そしてリア・ファルを目にすると、

「ウゥ……ヴァアアアアア‼」

 咆哮と共に躊躇なく剛爪を振り上げた。

「陰! 急急如律令‼」

 瞬時に駿河が印を組み、リア・ファルに紅輝を送る。するとリア・ファルの体が蒼く輝き――振り下ろされた強烈な魔神の爪が、振り抜かれることなく途中で止まった。

 しかしその爪は、リア・ファルの体に深く刻み込まれてしまっていた。

《エリンの子よ、そんなものですか?》

「くっ――陰‼」

 駿河の紅輝を受けた蒼碧の翼が変形し、宝石の槍となって魔神へと伸びる。しかし魔神はすぐにそれを察知し、巨体に見合わぬ身軽さで後ろに跳ね飛び距離をとった。

 リア・ファルは長い首を後ろに捻り、

《それでは、あれには勝てませんよ》

「わかっている‼」

 駿河の頬に冷たい汗が流れる。その汗が、突然の熱気に吹き飛ばされた。

 見ると、魔神が身を屈めて地面に四肢をつけ、毛を逆立てている。

 力を、溜めているのか――その目はまさに獣のそれで、荒々しい憎しみと怒りに染まりきり、駿河を凝視していた。

(僕とはわからないか――)

 あの笑顔がなぜこうも禍々しく染まってしまったのか、あんなに、周りの人を大切にする人だったのに――。

(このままは、あまりにも忍びない……)

 駿河はすぅっと静かに息を吸い込むと、

「リア・ファル、僕を認めろ」

 一気に、全身の紅輝を燃え立たせた。

「ゆらゆらとふるべ――僕を〝王〟に――」

 それに呼応するように、リア・ファルの宝石の体が輝きを増していく。

「急急……如律令おおおおおお‼」

 駿河に流れる『一十』の血が震え、それが未だ鳴り響く共鳴音に同調した。血が燃え上がり、熱く、紅く、全身を駆け巡る――。

 不意に――何かが見えた。古城で邂逅する戦士たち――異国の剣士と札を持つ少女、二人と共に掲げる反乱の旗――赤々と燃える小屋、炎の中で笑う女性――こちらを見ていたずらっ子そうな笑みを浮かべる、金色の髪の少女――これは異界で、力で、そして『英血の器』の証――しかし、今は――。

 リア・ファルが吠えた。

 見るといつの間にか、目の前に咆哮を上げる魔神が迫っていた。大きく広げられたその両腕が、ぎらついた凶爪を捻じ込むようにリア・ファルに叩きつけられる――だがその瞬間、蒼と紅をない交ぜた光をもって煌々と輝いたリア・ファルの体は、一筋の傷を負うことも無くそれを跳ね返した。

 攻撃の威力が強かった分、反動により魔神がよろける。その隙をつき、リア・ファルが長大な尻尾を叩きつけ、魔神を吹き飛ばした。

「まだだ!」

 魔神が立ち上がる前に上にのしかかろうと、駿河が指示を出す。しかし魔神はそれより早く跳ね起き後退する――が、駿河も負けじとそのままの勢いで体を反転させ、体当たり気味にもう一度強烈な尻尾の一撃を見舞う。

 再び吹っ飛んだ魔神は、倒れたまま一度大きく吠えると、頭を振りながら立ち上がった。だがその目はまったく戦意を失っておらず――しかし、そうではあるのだが、魔神の首はこちらに戻らず、ゆっくりと別の方向を向いた。

 何を見ているのか、少し離れた地面を見つめ、その目が大きく見開かれていく。

(今だ……!)

 当然、駿河はその隙を見逃さなかった。

「――すみません、道明寺さん」

 強く気の籠った呪言と共に、リア・ファルの翼が眩い輝きを放った。


    * * * *


 食事の載ったトレーを捨て、原吹晶は走った。

 全身に熱を感じ、頭の芯がじんじんと痛む。だがなぜか、前の・・時ほど痛みはない。

 痛み――そう、これは間違いなく舞浜で聞いたものと同じ音だった。あのときの嫌な記憶が思い起こされる。そしてその記憶は、今、目の前で動画のプレイバックのように再現されていた。

 〝いる〟のだ、〝あれ〟が。あの巨人が――水上晴が覚悟と共に変異した、あの姿そのものが、立ち並ぶ校舎の隙間から見えた。色や角の形などは晴の時と違っているように思える。しかしあの禍々しさは、決して忘れようがなかった。

(だとしたら、いったい誰が――)

 そうなのだ。あの巨人は『英血の器』が変化したもののはずだった。だとしたら、この中にいる誰か――道明寺虎鉄が「器」であることははっきりしている。しかし、ここにはあの不思議な力を使える人間は多い。もしかしたら他にもいるのかもしれない。さっき、巨人と戦う竜のような怪物が見え、その上に十文字駿河の姿を見た気がした。他に抵抗する者がいる様子は無く、衛士たちは皆、三々五々に逃げ散っている。駿河は一人で戦っているのかも知れない。ならば、今自分がやれることは一つ――。

(早く、樹里亜先輩に応援を……!)

 食事を運ぶように言われた会議室に一条樹里亜の姿はなかった。その後すれ違う人たちに何度も確認したが、樹里亜の姿を見た者は誰もいなかった。

 不安がよぎる――もしかしたらあの巨人は――それとも、どこかで破壊に巻き込まれて――。

 晶は目の前を遮る大きな瓦礫を軽々と飛び越えて止まった。

 丁度そこはキャンパスの中央だった。

(これで行けそうなところはほとんど探した。あと探してないのは北門と東門――とりあえず、まっすぐ)

 再び駆け出し、センター通路をまっすぐ北へと向かう。背後に振動を感じる。巨人がこっちに向かってきているのかもしれない。しかし振り返るよりも速く、もっと速く走らなければ――そして十字路が見えてきて、右に伸びる通路の先から、何かを感じた。

(これ……なんだろう……?)

 迷っている暇はない。

(こういうときは自分の勘を信じる!)

 晶は通りを右に折れ、東門へと向かった。

 進むと、通路にはたくさんの瓦礫が散らばっていた。先に進めば進む程、周囲の建物の損傷がひどくなっていくように思える。

 もしかすると、巨人はこの辺りから現れたのかもしれない――そう考えつつ、飛び越え、すり抜ける瓦礫の下に、ちらりと人の体のようなものが見えた。

 怖い――でも立ち止まれない。

 立ち止まったらもう走れなくなるかもしれない。さっきの犠牲者が、樹里亜なのかもしれない。知っている人なのかもしれない。

 それでも、悪い予感を振り切るように、必死に生きた人影を探して走った。

 そして、通路の終わり、

(………っ‼)

 東門の傍に立つ、人影を見つけた。

 晶は走りながら目を凝らし――、

(よかった……)

 金色の髪、よく見知った日々河学園の制服――間違いなく樹里亜だった。

 安堵に脱力し足を止めそうになるが、あと少しと踏ん張り走る。そして声が届きそうな距離になり、

「樹里亜先――」

 こちらに背を向けて立つ樹里亜の足元に、もう一つ人影が見えた。

 それはどうやら、地面に倒れ横になっている。

 その赤いライダースーツに見覚えがあった。

「椿……さん?」

 そこに横たわっているのは、間違いなく真鶴椿だった。

 樹里亜がそれを、すぐ傍で見下ろしているのだ。

 なんとも言えない悪寒が全身を走り、晶は足を止めた。

 そう遠くない背後でドンッと大きな音がして地面が揺れ、直後に凄まじい咆哮が聞こえたが、晶は二人から目が離せなかった。

 樹里亜もまた、振り向くことなく椿を見下ろしている。

 すると椿の体が紅く輝いたかと思うと、粒子となって消え、そのあとに――小さな血晶が一つ残された。

 樹里亜は、それをそっと拾い上げた。

 何が起きているのかはわからない。椿が倒れ、樹里亜が傍にいた。そうと言えばそれだけだ。椿が血晶化したのには驚いたが、それよりも、全身を駆け巡って消えない悪寒が気になって仕方なかった。

 なので晶は、

「――樹里亜先輩」

 樹里亜が振り向くのを待ってから。

「どういう……ことですか?」

 そう、訊いてしまった。


    * * * *


 リア・ファルの翼から放たれた宝石の槍が、深々と魔神の上半身に突き刺さる。

 確かな手ごたえがあった。魔神はがくんと頭を垂れて膝を突く。しかし、その目は刺した駿河たちに向けられることはなく、依然見開かれたまま地面を見つめていた。

(……なんだ?)

 駿河は魔神の視線を追い、体を固めた。

 距離はあるが、はっきり見えた。

 そこには三人――真鶴椿が地面に横たわり、それをすぐ傍で一条樹里亜が見下ろしていた。そしてそこから少し離れたところで、原吹晶がその様子を見つめている。

 そのうち、椿の体が光に包まれたかと思うと、パンと光の粒子となって弾け、あとに残った何かを樹里亜が屈んで拾い上げた。

(何をして……)

 駿河も呆然とその様子を見てしまい、そこでぐらりと足元が揺れ、我に返った。

 リア・ファルが引っ張られているのだ。引っ張っているのはもちろん魔神である。魔神が翼から突き出された槍を体に受けながらも、無理やり反転しようとしているのだ。魔神の手が、何かを掴もうとするように宙に伸びている。その指先は、あきらかに樹里亜たちの方へと差し出されていた。

「リア・ファル! 行かせるな‼」

 駿河が叫ぶ。

「オ……オオオオオオ‼」

 しかし唸る魔神の力はすさまじく、リア・ファルの巨体を引きずって前に進む。

(まずい……‼)

 駿河はリア・ファルの頭から一気に体を伝って飛び降りた。

「ぐぅっ‼」

 なんとか受け身を取って着地をしたものの、あまりの高さに腕と足が折れ曲がっている。しかし駿河は紅輝を発してそれを無理やり治すと、すぐに立ち上がり駆け出した。

「ヴォアアアアアアア!」

 それに少し遅れて魔神が吠えた。魔神は後ろ手で体に突き刺さる槍を叩き折ると、駿河と同じく駆け出す。だがその傷痕からは紅い光が漏れ出し、次第にその巨体が縮んでいく。

 それでも魔神は足を止めない。

 いったい魔神は何をしようと――いや、その目は、まっすぐ樹里亜を見つめていた。そして樹里亜は迫る魔神に気付いていない。そして魔神が高く跳ね――。

 地面に、赤色が飛び散った。

 突然、突き飛ばされた衝撃に地面に叩きつけられた樹里亜が顔を上げる。


「駿……河……?」


 その目に映ったのは、駿河が巨大な怪物の爪に貫かれる姿だった。

 駿河はゆっくりとその場に倒れ、魔神もまた、光が抜け出ると共に体が砕け、紅い光となって消えていく。

 樹里亜は呆然とした様子で立ち上がりその光景を見たが、血がにじむ程に唇を強く噛むと、駿河の傍に近寄って座り込み、そっと彼の頭を抱いた。

 駿河もまた、霞む目で自身を覗き込む樹里亜の顔を見上げつつ、その手に握られた《器》を目にし、何かを悟ったように目を閉じる。

「……そういう……ことか。お前は全部――」

「そうよ……私は、どうしても許せなかったの……」

「僕は認めないぞ……そんなお前の生き方を、認めるわけにはいかない……きっと、もうマリエさんも気づいてる……」

「そうね……」

 樹里亜は息荒く話す駿河の頬に手をやり、悲し気にその顔を見つめる。駿河も、もう一度目を開けて見つめ返したが、目の端に、二人の様子を愕然と眺める晶を見つけ、ふと、仄かな笑みを浮かべた。

「――最後だ……素直に言うよ。僕は、お前を助けたかった……お前が苦しんでいるのはわかってたから……けど立場や、他のくだらないことが気になって、結局はお前の話を聞かず……権力を手にして、自分のいいと思うようにねじ伏せようとしたんだ……こんなやり方しかできなくて、ごめんな……」

 駿河の声が細くなっていく。樹里亜は顔を歪め、何かを言おうと口を開きかけたが、それを堪えるように再び唇を噛みしめると、ただ黙ってその言葉に耳を傾ける。

「……もっと近くで見ていれば……こんな僕でも素直に声をかけられたのかも…………なんで……一と十になんか分かれて…………次は……兄妹にでもなれたら……いいの……に……」

 駿河の体から力が抜け、その体が光と共に弾けて《器》を落とす。樹里亜は持っていた椿の《器》を膝の上に置くと、駿河の《器》を両手できゅっと握りしめた。

「ごめんなさい――でも、許さなくていいわ。私がこれからすることを見たら、真面目なあなたが許してくれるはずないもの」

 そう、微かに呟いた声を聞く者はいない――。


 そうしている間に、事態の収拾を察した衛士たちが、ぽつりぽつりと樹里亜たちの周囲に集まり始め、目の前で起きた惨状にざわつき始めた。人垣が増えていき、傍で立ち尽くしている晶もその中に飲み込まれようとしている。それを一瞥した樹里亜は、二つの《器》を手に立ち上がると、凛と姿勢を正して周囲に告げた。

「――静まりなさい!」

 その一声で、静寂が広がった。


「たった今、同志・十文字駿河と、同志・真鶴椿が紅輝と共に旅立ちました。そして悲しくも、多くの同志たちが無惨な死を迎えました。彼らを手に掛け、同志・十文字駿河が命と引き換えに討ち果たした今の怪物……あの禍々しい姿、憎悪に満ちた力、あれこそが――『英血の器』の正体です!」


 力強く樹里亜が口にした言葉に、周囲が再びどよめき、晶が我に返ったように目を見開く。


「私はこの目で見ました。『英血の器』――道明寺虎鉄が椿の紅輝を吸い、怪物と化す様を! 全ては遅かった――私は探っていました。『大共鳴』とはいったい何なのか、そして我らの伝承に脈々と伝えられてきた『英血の器』とは何なのかを――もっと早く気付くことができれば……二つは繋がっていた。『英血の器』とは、今、私たちが目にした災禍そのもの。彼らこそが『大共鳴』を引き起こし、この世を妖異で席巻せんとする災厄の権化だったのです!」


「何……言ってるの……?」

 次第に熱を帯びていく衛士たちに囲まれながら、晶は耳を疑った。


「衛士たち! 大和を守る我が同志たちよ! 『英血の器』を見つけ出しなさい! そして彼らを封じるのです! 幼き頃より共に育った椿と駿河……死した多くの同志たち……彼らの犠牲を決して無駄にしてはなりません! もはや撤退などあり得ない! 我々鎮護国禍はここ東京に残り、日の本が為、『英血の器』を完全に討ち尽くします!」


 樹里亜の言葉に煽られて、悲しみと怒り、使命感と奮起がない交ざった唱和の声が渦を巻く。

 しかしその中で一人、

「どうして……あの巨人……晴のことは伝えたはずなのに……もしかして、初めからそのつもりで……」

 晶は後退り、誰かに肩を掴まれた。

 見ると、いつの間にか憤怒の形相を浮かべた衛士たちに取り囲まれていた。

 そしてそれらの中には、樹里亜の視線も混ざっていた。

「原吹さん――あなたを封じます。衛士たち、彼女を拘束してください!」

 晶は、キッと樹里亜を睨み返すと、

「冗談じゃないよ……そんなのってさ‼」

 と、指を噛み、血晶を纏おうとする。しかしその手を別の衛士に掴まれ、身動きが取れなくなってしまう。

 その衛士の腕が、突然だらんと力なく垂れ下がった。

「え……?」

 晶が何事かと見ると、その衛士の瞼が半分に閉じかけ、だらしなく涎を垂らしながら崩れ落ちていく。それが、一人、また一人、さらには晶の肩を掴んでいた衛士も同じように座り込んでしまった。

 眠っているのか――よく見ると、それらの衛士の周囲に、小さな雪のようなものがひらひらと舞っていた。

「……花びら……?」

 晶がそう呟いたとき、

「皆、下がってください!」

 樹里亜が叫んだ。

 指示に従った衛士たちが、波が引くように晶を残し離れていく。

 そうする間に、晶の周囲は漂う花びらで覆われていき――気付くと横に、桜の花を纏った美しい天女と、もうひとり、青年が立っていた。

「〝神名さん〟……?」

 青年の名を、晶が呼んだ。そこに立っていたのは、血晶を纏った神名千尋であった。

「……怖い雰囲気だね。さっきいた〝巨人〟のこと、詳しく聞ける?」

 千尋が訊ねると、

「見たままのことなら」

 晶はしっかとうなずいた。

 それを見た樹里亜がすぐさま指示を飛ばす。

「皆、呪壁を! 逃がしてはなりません‼」

 周囲を囲む衛士たちが一斉に印を組み始めた――が、次々と、今度は皆何かに打たれたように倒れ込み、気を失ってしまう。

 樹里亜はそこに〝風〟を見た気がして、

「何が起き――うっ‼」

 突然、手首を強く打たれて呻いた。はっとして手を開くと、握っていたはずの《器》が一つ無くなっていた。すぐに顔を上げると――。

 いつの間にか、晶たちを守るように、忍装束の男――風魔小太郎が立っていた。

「風間さん……」

 千尋が小太郎の憑依する人間の名を呼ぶ。小太郎は虎鉄の使い魔であり、その呼びかけには「虎鉄はどうしたのか」と気に掛ける千尋の不安が感じ取れた。

 小太郎は返事の代わりか、背を向けたまま後ろに手を回し、千尋に二つの血晶を手渡した。

「これは虎鉄と真鶴椿の《器》だ――せめてこの二つは、一緒にいさせてやってくれ」

 その言葉に、千尋の顔が強張る。しかし、

「追手は食い止める――行け」

 そう小太郎に促されて我に返ると、それらを強く握りしめ、傍に浮かぶ天女に頷きかけた。

「わかりました。それではお二人とも、体を楽にしてくださいませ」

 天女――コノハナサクヤが手にした傘を広げると、ぶわりと桜吹雪が舞い上がり千尋と晶を包みこむ。やがてそれは薄紅色のつむじ風となり、二人を夜空へと運び去ったのだった。


    * * * *


 遠くに、空を赤々と焦がして燃える上恵大学が見える。

 一条樹里亜は四ツ谷駅にかかる橋の欄干に立ち、それを眺めていた。そこそこ距離はあるのだが、夜風に乗った炎の熱を感じる。いや、それともその熱は、様々な感情を押し込めた体の内から生じる彼女の思いの表れなのか。

「後悔、しているのですか?」

 背後より、透き通った男の声がした。

 樹里亜の後ろには、長く垂らしたブロンドの髪に、季節外れにも深いベージュのロングコートを羽織った長身の男が立っていた。

「いいえ、けど、罪を噛みしめています」

「そうですか。それだけの罪――あなたを天上に連れて行くわけにはいきませんね」

 男もまた、遠くに揺れる炎を見る。

「けれどそれは私も同じ。もうあそこへは戻れません。最後まで付き合いますよ。それが、私の所為で世に力を晒すことになってしまった〝クリスティ〟への償いでもあります」

「ありがとう――ガブリエル」

 樹里亜は振り返らずそう言って。風にまかれてほつれた髪に手櫛を通す。そして肩にかかる髪を避け、耳から黒い機械のようなものを外した。

「どうよそれ。役に立ったろ、〝キャンセラー〟」

 不意に、新たな男の声が加わった。

 樹里亜はゆっくり振り返り、声の主を見る。

 いつ現れたのか、ガブリエルと呼ばれたコートの男の横に、フードを被り、顔中に不可思議な文様を刻んだ怪しげな男が、にたにたとした笑みを浮かべて立っていた。

 そのいかにも楽しげな様子に樹里亜は顔をしかめたが、すぐに平静を取り戻すと、上着のポケットから取り出した何かを手渡す。

「結局、これだけでした」

 それは、十文字駿河の《器》だった。

 男はそれを指先でつまみ、点滅する電灯に透かして「んー、あー」と奇妙な声を出しながら眺めると、

「ん、まいどあり」

 と懐にしまった。そして、

「もしかしたらもうちょい手に入るかなぁ、とか期待しねぇでもなかったけどよ、まぁいっかな。しっかしよぉ、オレらの〝会合〟をあの椿とかいうガキに見られたときゃどうなるかと思ったぜ。オメェがぜんっぜん始末しねぇからよぉ、なぁガブ公?」

 とガブリエルの肩に手を掛けようとする――が、さっと避けられて悲しくも手を空かされてしまう。

「なんだよ、つれねぇなぁ……オレたちゃ仲間ちゃんズだろ?」

「馬鹿を言わないでください。私はこのふざけた次元の存在を許すわけにはいかないだけですよ。我がしゅの為、そして友の為にこの次元を消し去る――その道が、ただひと時あなた方と交わったに過ぎない。ラファエルも来てしまったことですし、私も消滅を免れぬのでしょうが、そのついでにあなたも道連れにしてあげますよ――〝バン・ドレイル〟」

 そう言って、ガブリエルは男に冷ややかな視線を浴びせた。

 対してフードの男――バン・ドレイルは、いかにも辟易とした様子で口をへの字に曲げると、

「うへー、嫌だ嫌だ。これだから大天使とかよー」

 と背を向け、奇妙に体を揺らしながら歩き出す。そして数歩歩いて立ち止まると、

「けど、オメェはオレちゃんの味方だよな、樹里亜?」

 と肩越しに振り向いた。

「――ええ。初めから、私は背負うつもりでしたから」

 樹里亜は風になびく髪を抑えながら、伏し目がちに答えた。

 バン・ドレイルはそんな樹里亜を目を細めてじっと見ていたが、

「うん、それ聞いてすこーしだけ安心したぜぇ。人間ってなぁいつ裏切っかわかんねぇからなぁ。保険は掛けとくにこしたこたねぇってよ。今もこんのくっそ忙しいのに、裏切りもんに罰かまさなきゃなんだぜ? ほーんと、体いくつこさえても持たねぇよ。兎にも角にも信用第一! なぁ、二人とも!」

 そうにかりとやけに爽やかに笑いかけた。しかし二人からは特に反応がなく、バン・ドレイルはさも寂しそうに眉を下げる。

 そして二人の変わらぬ平静な視線を背に受けたまま、

「はいはい、行きますよー。そんじゃ、次もよろしくね」

 と、後ろ手を振りながら闇に溶けて消えた。

 そこにはもう、闇しかない。普段であればぽつぽつと、大通り沿いに街の明かりが見えるのだが、今やその火を灯す者たちはいない。

 そんな先の見えぬ暗闇を、樹里亜はいつまでもじっと見つめ続けていた。