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LORD of VERMILION IV小説 LORD of VERMILION IV‐ O Brave New World ‐

write : 浅尾祥正

第2章

鏡の虚像と、真実と

『みなさん、おはようございまーす! 今朝は、千代田区は神川明神に来ています! ご覧ください、早朝にもかかわらずこの人、人、人! 本日都内各地の神社では、東京復興合同祈願に伴う大縁日が行わることになっておりまして、正午の祭祀開催を前に皆さんこうして準備に大忙しなわけですが――おっとすみません! あはは、ここ邪魔になっちゃいますね……ちょっと端に移動しましょう。えー見渡す限りでもたっくさんの出店にパフォーマーの方々、近隣中学校の吹奏楽部による演奏まで、いやぁ、しかし皆さんとても楽しそうです! このような活気と笑顔が、これ程早く再びこの街で見られるとは、四か月前には想像もつきませんでした。未曽有の災害に見舞われた東京、まだまだ問題は山積みですが、住民の皆さんの笑顔を前に復興完了はもう間近、そう感じられてなりません! 特別交通規制や通信規制はまだ解除されておりませんが、都外にいらっしゃるご家族の皆さんもどうか心配なさらないでくださいね! 私たちは元気です! 本日も十七時に、政府公式LIMEアカウントを通じ、東京に残されたご家族、ご友人からのメッセージが送られますので――』


 スマートフォンのディスプレイに映ったレポーターの顔が、二本の指に挟まれピンチアウト操作で大きく拡大される。

「はぁ⁉ マジもんかこれ??」

 柿原一心はディスプレイを眺めつつ、首を捻った。

「うーん、この青木ってレポーターの職人芸丸出しな笑顔も本物っぽいし、ロケーションも作りもんには見えんな……政府が本気になるとここまでのもん作れんだなぁ」

 そう整った顎髭を撫でながら辟易としたように口を曲げ、長身の背を丸めてさらに食い入るようにディスプレイを覗き込む。

「えー、柿原さん、それどこでやってるの?」

 横から、花島笙子が背伸びをしてそれを覗き込んだ。頭にかぶったウィンプルから覗く、素朴ながらも人好きな印象を与える愛らしい顔が、一心の頬に触れんばかりに近づく。一心は「おっと」と少し驚いた風に肩を引き、

「『オー坂net』だよ。『MNNニュース』な」

「わたしの都内規制掛かって見られないんだけど……」

「ふふーん、んじゃ笙子ちゃんにだけには教えちゃおっかなー。このスマホにはちょーっと細工がしてあってね、秘匿回線で網の目をするするーってね」

「えーすっごーい。さすがマスメディアの人は違うねー。でも、いいの? 私なんかに教えて」

「いいのいいの。数少ない〝『器』仲間〟なんだしさ」

「『器』どころか、今や〝人〟……だけどね」

「そう言やそうだ」

 言いつつ、一心はオートコンビニエンスストアの窓から外を眺めた。

「ほんと、〝生放送〟とかな……よくもいけしゃあしゃあと言ってくれるもんだぜ」

 目の前の青山通りには、縁日どころか人一人、車の一台も見当たらない。この付近は東京有数の商業区であり、通りを折れた先の表参道から渋谷にかけて様々な商業施設や学校が並び建っている。つまり、ここいらは普段であればよく人や車が行きかう場所であるのだが、午前中とはいえ、動く者の影どころかその気配すら感じない。確かに数日前までは、先程のレポーターの言うように活気ある人々の姿が見られたのだが――。

「でもさ、〝あいつら〟特撮ものみたいに変に破壊行動とかしないから、ライフラインが無事ってのはありがたいよな」

「ああ、確かにねぇ。でもデリバリーは使えないし、食糧調達は大変だけど――よいしょっと」

 笙子は大量の冷凍食品の入った籠を作業台にのせ、コンビニ袋に移し替え始める。

「盗むって訳にはいかないもんなぁ……なんでもかんでも無人自動化はどうかと思ってたけど、こういう時にオートコンビニは助かるな。あとはもうちょっと近くに在ってくれれば……」

 そのとき、

《おーい、いっしーん!》

 一心の〝頭〟に声が飛び込んできた。

 「おっと、ちょっと見てくる」

 一心はそうっと店の外に出ると、用心深げに周囲を見渡してから空を見上げる。すると大きな羽音と共に、なんと、両腕に色とりどりの羽根を生やした女が降りてきた。

「どうした、アエロ!」

「ここそろそろ危ないかも。向こうに数体来てるよー」

「ありゃま」

「どうしたの?」

 両手にコンビニ袋をぶら下げて店から出てきた笙子も、アエロが見ている永田町方面に目を向ける。すると、遠いビルの屋上や道の端々に、ちらちらと蠢く影が見えた。

「あーあ、来ちゃったかぁ」

 その影は、人の形をしていなかった。


 数日前、舞浜インフィニティシアターから発生した「共鳴現象」は、東京守護の為に置かれた『要石』――「神田」、「日比谷」、「豊島」、「押上」各地の石と龍道を通じて反響し合い、一斉に共鳴音を響かせた。直前にこうなることを予見した「鎮護国禍」は、急ぎ「四谷」と「代々木」の石を龍道から切り離し、東京全域の共鳴被害を防ぐことに成功する。しかしその後も共鳴は収まらず、〝「大共鳴」によりアルカナ因子を揺り動かされていた人間たち〟を完全な怪物へと変化させてしまったのである。

 怪物たちは『混沌』の意志を受け、狩るべき「英血の器」を求めて街をさまよった。

 そして今もまだ、怪物化現象は要石のある地域を中心に広がり続けており、事態は徐々に『第二の大共鳴』の様相を呈し始めていた。

 

「ぃよーし! ここの目ぼしいものは粗方買ったしな、そろそろ引き上げるか!」

「うん……でも少し量が足りないかな。みんなも戻ってくるかもしれないし、神名君と小梅ちゃんも……」

「ん……そうだったな……」

 絶望的な状況に飲み込まれまいとあえて明るく振舞っていた一心だったが、舞浜で行方知れずとなっている二人の名を聞き表情に影が差す。

《ねぇねぇ、もうお買い物終わったの?》

 すると突然、二人の足元から少年のような声がした。見ると、いつの間にそこに居たのか、小さな子犬のような、しかし明らかにそうではないふわふわした紫色の毛に包まれた生き物が、先にベルの付いた尻尾を振りながら二人を見上げていた。

《ショーコ、〝コガシショーユチャーハン〟買ってくれた?》

「ごめんねー、ナムタル。ここには無かったんだー」

《ええー ⁉ 次は買ってくれるって言ったのにぃ……》

 笙子の使い魔――ナムタルがしょんぼりと頭を垂れ、笙子がなだめるようにその前にしゃがみ込む。

「仕方ないよ、次にしよ」

《いやだよ! こないだア・プチのやつがぼくの分食べちゃったから、今度はぼくの方がいっぱい食べるんだ!》

「もう、わがまま言わないの」

《やだやだやだ! チャーハン食べる! 神様のぼくを大事にしないと、ここら一帯に疫病振り撒いちゃうぞ!》

 ナムタルはその場でひっくり返り、短い手足をばたばたさせて駄々をこねた。

 その様子を見ていた一心は、「うーん」と頭を掻くと、

「そんじゃ、もう一件いっちゃうか! 俺も煙草見つけたいしな!」

《お、いいぞカキハラ! 行こう行こう!》

「……いいの?」

「いいっていいって! こんな時だもんな。使い魔だって好きなもん食って、少しはストレス発散させないと!」

「ありがと、柿原さん」

 そう上目遣いで礼を言う笙子に、一心はさらに強く頭を掻きつつ、照れたように顔をそむけた。そして「んじゃ早速――」と、スマートフォンで近くのオートコンビニを検索しようとしたとき、

「ん?」

 スマートフォンが震えた。ディスプレイには「黒髪さん」と表示されている。

「――と、思ったんだけど、ごめん笙子ちゃん、呼び出しだ」

《ええーーーーー ⁉》

「あらら……うん、大丈夫だよ。帰ろ帰ろ」

「悪いなぁ、ナムタル」

《カキハラの裏切り者……風邪とかよりもっとひどいのを振り撒いてやる》

「もう……わたしたち病気にはかからないし、ここら辺には振り撒く相手もいないでしょ? 柿原さん先歩いてて、この子こんなだし、わたしもう一度他の冷凍チャーハンないかお店の中見てくるから」

「いや、一人じゃ危ないだろ。待ってるよ」

「大丈夫。黒髪さん待たせちゃあれでしょ? ナムタルに乗ってすぐ追いかけるから」

《やだ。乗せない。ゴハン食べてないのに〝大きく〟なりたくない》

(じぃ……)

 笙子の視線がナムタルに突き刺さる。

《――こともないかな! うん、カキハラ、先行ってて!》

 一心はまた「う~ん」と片方の眉を吊り上げ考えていたが、

「じゃあ先に行って変なのいないか見とくかな――アエロ!」

 そう、気持ちよさそうに空を舞っていた使い魔を呼び戻すと、笙子の持っていたコンビニ袋を受け取り、通りを渋谷方面へと歩いていった。

「ふふ、頼もしいなー。よろしくねー」

 笙子は小さく手を振って、立ち去る一心を見送る。

 その背を見つめる目は――なんとも落胆したような、それでいて感情を失くしたような、ひどく冷たい色を帯びていた。


    * * * *


 南青山に広がる住宅街、元々人通りの少ない閑静な土地ではあったが、やはりここも、今や本当の意味で人の姿が無くなってしまっていた。そんな閑散とした風景の中で、いったい何から身を隠そうと言うのか、慎重に周囲を警戒しながら通りから通りへ移動する二人が見える。

 柿原一心と花島笙子は、少し進んでは物陰で立ち止まり、また進んでは別の陰で立ち止まりを繰り返し、住宅街の奥にひっそりと建つ教会に辿り着く。

 『アケロン聖教 アケロン修道会ヴェリウス会 聖マルディウス教会』――そう書かれた裏門を潜ると、そそくさと中庭を通り抜けて正面大扉の前に立ち、もう一度周囲を見渡してから、開いた扉の隙間にさっと身を滑り込ませた。

 中には、モダンな近代教会の外観からは想像もつかない荘厳な景観が広がっていた。精緻な彫刻群に、壁面から天井のアーチに向かって伸び上がる優美な垂直線。〝広がって〟というのも別段誇張ではない。そこは外から見た印象の数倍はあるのではと感じるほど広い聖堂であり、その最奥には、まるで宇宙を思わせる――いや、そんなはずはないのだが、本当にそこに〝ある〟と思えてならない、巨大なステンドグラスの装飾が目を引いた。

 そんな厳かな空気を、

「ただいまー」

「ふひぃ、緊張したぜぇ」

 笙子と一心がゆるい安堵の息で破る。二人が語りかけた相手は、ステンドグラスの下に設えられた祭壇の前に居た。

 居るのは五人――うち四人は異様な空気を纏っており、みな一様に黒い衣装を身に着けている。一人は祭壇右手前の階段に仏頂面で座る、中肉中背、白に近い銀髪を短く刈りまとめた男。祭壇を挟んで左側には、対照的に黒くうねる長髪を背中まで垂らした大柄な男が表情無く佇んでいる。その二人だけでも静謐な聖堂の空気を歪ませるには十分なのだが、さらに強く異様を印象づけているのは中央の祭壇前に立つ二人――銅色の髪をホワイトブリムでまとめたメイド服の女と、彼女を従えた、仮面の少女だった。

「あら、おかえりなさい」

 仮面の少女――ドゥクスは、屋内であるにも関わらず、さした日傘をくるりと回しながら、二つにくくった長い金髪を揺らしてにこりと首を傾けた。

「お嬢様がお待ちかねよ」

 彼女が仮面に覆われ見えぬ視線を向けた先、祭壇前に並ぶ長椅子の一つに、最後の一人が座っていた。

 艶やかな長い黒髪をまっ白なシャツに垂らしたその女は、きりりとした目元が印象的な美人であったが、物騒なことに、胸に銃の納められたホルスターを下げている。女は自分について話されていることにも気付かず思いつめた様子で俯いていたが、

「ほら〝マリエ〟、帰って来たわよ」

 と名を呼ばれて我に返り、顔を上げた。そして振り向くと、黒髪マリエは意識して気を取り直すようにそのきつい目をさらにきつく細めて扉の二人を見た。

「遅いぞ、柿原」

「ええー、黒髪さん、これでも結構急いで来たんだぜ?」

「どうだかな。どうせ煙草でも探してうろうろしていたんだろう?」

「はは、さすが。刑事の洞察力ってのは恐いねぇ」

 話しつつ、一心と笙子は身廊を進む。

「それで、どうだった?」

「当面の食糧は問題なし!」

「結構いいのあったよねぇ」

 二人の緊張感のない返答にマリエはため息を吐くと、背もたれに肘を置いて体を預け、長椅子の縁から降ろした脚を組む。

「そうじゃない、街の様子だ」

「ああそっちね」

 一心もそのすぐ横の長椅子に食料品を置き、腰をかけた。

「ここらは駄目だな。実際怪物だらけだぜ。『東京結界』だっけ? その石の近くでなけりゃ人もまだいるんだろうが――しっかし、なんでこんな一斉に怪物に……」

「前回の共鳴では耐えられていた人間も、今回ので〝追い打ち〟となったんだろうな。一十ひのと様方のお話だと、あの共鳴音は『こう』を呼び覚ます」

「それって『アルカナ因子』っていうのと同じのなんだっけ?」

 笙子もまた荷物を置いて会話に加わる。

「そうだ。その『アルカナ因子』を多く保有する者ほど『物憑ものつき』になりやすい。大共鳴でアルカナ症候群の症状が出ていた者たちは、いわば〝なりかけ〟だったということだろう。訓練を積んだ鎮護国禍の衛士ですら多少の影響が出ているんだ。一般人ともなればその効果は言うまでもない」

「だったらそれをたんまり持ってるらしい一般人な俺たちは、どうしてすぐに怪物にならないんだ?」

「なってるじゃないか」

 その言葉に眉をひそめた一心に、マリエは、

「長い間厳しい修行を重ねて『紅輝』を操るすべを身に着けた私たちからすれば、お前らは充分に〝化け物〟だよ。おそらく、憑いた・・・が人の形をしていたというだけだ」

 と、暗い目を向けた。

 一心の顔が曇り、返そうとした言葉をぐっと飲み込む。

 意図せず、二人の間ににわかに生じてしまった緊張――そこに、

「ふふ、あなたたちはみんな怖いのね。そんなに怖いのなら外になんか出ないで、ここでおとなしくしていればよいのではなくて?」

 ドゥクスがたおやかな笑みを浮かべつつ言葉を挟んだ。するとどうしたことか、今度はマリエの顔が一瞬で強張り、一心はそれを見て何かを察したか、

「ははは、そりゃ怖いは怖いがね」

 と、ドゥクスの笑みに乗っかり固まった空気を笑い飛ばす。そしてコンビニの袋を漁ってあんパンを取り出すと、

「それでも食うもの食わないと干上がっちゃうのが人間なのよ」

 目の前で顔をしかめるマリエに構うことなく豪快に齧りついた。

 そんな一心の様子を見て笙子はほっと胸を撫でおろし、荷物の取り分けを始める。

「そういえばさ、今のわたしたちって不死身らしいけど、食べないとどうなるのかな?」

「からからに干からびて絶命の瞬間にその直前に戻るでしょうね。きっと皮ばかりの限界状況で細胞が再生されるのじゃないかしら?」

「うへぇ……ドゥクスちゃん、それ本当? そういう不死身はやだなぁ」

「だねぇ」

 言いながら、笙子はコンビニ袋からいくつかの菓子パンを取り出すと、

「あ、皆さんも食べます?」

 と祭壇の四人に笑いかけた。ドゥクスはにこりと笑みを返して首を振り、メイドのにびと大柄なへびは無言の視線で語るのみ。唯一階段に座るはいだけが、

「前にも言ったと思うがな、オレたちはいらん」

 と答えた。

「そうでしたそうでした。そうじゃなきゃこの貧乏教会でこんなにたくさん面倒見れないもんねぇ――よいしょ」

 そう言って笙子は、冷凍食品のみ取り分けたコンビニ袋を持ちあげると、祭壇横のカーテンを潜り、奥の倉庫へと入っていった。

 沈黙が落ち、一心はちらりとマリエに目を向けて落ち着きを取り戻したことを確認すると、缶コーヒーを取り出してプルトップを引く。カシュッと空気がアルミ缶に擦れる音が響き、それをきっかけに、一心が改めて口を開いた。 

「それで、そっちの情報は? 教えてくれるんだろう?」

「調査依頼の交換条件だからな」

 マリエもまた努めて冷静に返す。

「とりあえず、本部とは連絡がついたよ」

「どっちの?」

「この状況で警察が機能していると思うか?」

「そりゃそうだ。鎮護国禍様々だね――で、向こうの様子は?」

「椿、道明寺は共に無事だ。舞浜の現場にいた原吹晶という日々河学園の生徒と、そこの教員も一緒に代々木のあけ御山みやま神社で保護されているらしい」

「椿ちゃんと虎鉄君〝は〟……?」

「ああ、椿の報告だと会場に潜伏していた水上晴が怪物化し、咲山と神名はその戦闘に巻き込まれたそうだ。結果、両者共に依然行方不明――同じく現場にいた白木優羽莉もな。現在残った警察組織を鎮護国禍がまとめ上げて衛士たちと捜索を続けているが、そっちに人手を割いてもいられないというのが正直な現状だ」

「そうか……」

 一心が床に暗い視線を落とす。

「……どうした、お前らしくもない」

「なんだよ、俺だって人並みに知人の心配くらいするっての。二人とも心配だけどさ、特に千尋君には、赤谷のときに余計なことを言っちまったかもしれんと思ってな。俺が焚きつけなけりゃ、こんなことにはならなかったんじゃないか、とね」

 そう言って、今時珍しい黒革の手帳を胸ポケットから取り出し万年筆を走らせる。それを見たマリエは、今の情報で何をメモすることがあるのかと少し気になったが、今は話を続けることにした。

「しかしその分、舞浜でも要石の共鳴音を抑えようと衛士たちが奮闘中だ。神名たち『器』の体なら、あの音さえどうにかなれば望みもあるだろう」

「そうであることを祈るよ。しかし、〝共鳴を抑える〟って……そんなことができるのか?」

「ある程度ならな。あの〝共鳴〟の波長は、我々の使う『真音まがね』とよく似ている。ならば打ち消せなくとも、弱める方法くらいは無くもない。代々木や四谷の安全もそうやって確保されている」

「なるほどな……なら距離もそう遠くないし、俺たちも一旦代々木に移った方が――」

「いや」 

 マリエは遮り、

「言った通り、あっちもあっちで大変だ。もう少し落ち着いてからでいいだろう」

 と視線を外した。その様子に一心は僅かに目を細めたが、マリエは疑念を差し込ませまいとするように言葉を続けた。

「それよりも、今考えるべきは次の敵の一手だ。結局あの〝フードの男〟が告げた〝宴〟は起こり、狩人は数を増した――しかしこれで終いか? 私にはそうとは思えない」

「……どういうことだ?」

 マリエは居住まいを正すと、

「敵は本当にお前たちの言う『混沌』なのか、ということだ」

 視線を戻し、一心の目をまっすぐ見た。

「その目的は『英血の器』を狩ることだけなのか? 確かにお前らのように不死身で使まで操る人間を一気に抹殺するには、これくらい大掛かりな仕掛けでないと無理なのかもしれない。しかし私は、この一連の動きに何か〝別の意志〟を感じてならない」

「つまり『混沌』の思惑の外で、誰かが何かを成そうとしている――そういうことか?」

「――面白そうなお話ね」

 不意に、それまで黙って会話に耳を傾けていたドゥクスが、ふわりと祭壇から飛び降りて二人の傍に立った。

「是非詳しく聞かせていただきたいわ」

「……慣れ合わないぞ。情報提供はしてもらったが、私はお前らのような〝得体の知れない存在〟を信用していない」

 マリエは明らかな拒絶の目を向けたが、

「あら、ここで数日過ごした仲じゃない」

 ドゥクスはどこ吹く風と笑みかわす。その悪びれない態度に、マリエは鼻からひとつ息を吐くと、

「まあいい」

 何かを思い切るように胸に垂れた髪をかき上げた。

「私は――舞浜で〝アズーラ〟と話した」

「それって……あの『Azu;Laアズーラ』か?」

「ああ、本名は『カーク・鏑木』。日系二世、イタリア出身のピアニスト――」

 そして目をつぶり、その時のことを思い出しているのか、ひくくと眉間を震わせる。

「カークはお前らと同じ『英血の器』だった。おそらく奴は、一連の共鳴事件の中核に通じている」

 その情報に、一心はガタンと長椅子を揺らして身を前にする。

「驚いたな……〝音〟が関係してるってんならコンサートに何か仕掛けたんだろうとは思ってたが、まさかあの有名な音楽家本人が仕掛け人か……」

 そしてスマートフォンを取り出し検索を始める。

招聘しょうへい企業はワイトミュージック、ここも白木系列の出資……はっ、また『AVALアヴァール科学財団』かよ」

「そうなるな。お前が赤谷犬樹から仕入れた情報だと、奴らは『クリエイター』という、私たち衛士と同じ力を持つ存在を、科学的に作り出そうとしていたんだったな? それが事実だということは、AVAL所属だった赤谷や咲山小梅の力を見れば明らかだ。さらにお前ら『器』を度々襲撃してきた葵順も同様の力を持ち、赤谷と同じ白木財閥関連施設の出身者だった――今回のことといい、もはや事件にAVALが関与していないと考える方が難しい」

「けど赤谷は〝財団はあくまで後乗りだ〟って言ってたぜ? 本当かどうかは置いといても、実際身内のはずの彼や小梅ちゃんも奴らに抵抗してたんだ。AVALだけを中核と捉えるのは――――いや、むしろそういうことなのか……?」

 何かに気付いた様子の一心に、マリエがうなずく。

「敵はAVALであっても組織そのものじゃない――問題は、何故カークが〝狩る側〟なのかということだ」

 顎髭を撫でる一心の眼光が徐々に光を増していく。

「……黒髪さん、カークはなんて言ってたんだ?」

 その問いに、マリエはすぅっと息を吸い込んでから、

「〝物心ついたときから異世界の記憶がある〟――そう奴は言っていた。そしてその所為で、〝この世界に深い孤独を感じていた〟ともな。あの目は、確かに世界を憎んでいたよ」

「………」

「あれは、救うどころか、むしろ滅んで欲しいと言わんばかりだった。AVALが〝世界を救う〟ために『器』を狩ろうとしているというなら、何故そんな奴を〝仲間〟に引き入れたんだ? そんな不穏分子こそすぐにでも排除した方がいいだろう。そしてカークがそれを受け入れた理由――いったい両者はいつから協力関係にあったのか……そう考えると、不可解なのはカークだけではなくなる」

 一心の目が、

「……千尋君――」

 細まり、鋭さを増す。

「『大月山荘事件』か」

「ああ――」

 マリエはスマートフォンを取り出して、表示したファイルを見る。

「十年前、神名千尋の父親、竹谷大千が彼と無理心中を計った事件だ。初動は両名の行方不明事件として捜査され、山梨県大月にある山荘で、憔悴した彼と首を吊っている父親の遺体が発見されたことで、大千の起こした無理心中と断定された。動機はよくある夫婦の問題に端を発したものとされ、数ある事件に埋もれていくはずだったが――」

「――覚えてるよ。父親の遺体の状況から、〝小学生がひと月半もの間、一人山奥で生き延びていた〟ということが分かり、世間で大きく話題になったんだ。当時俺は学生だったが、学校でも〝竹谷千尋はどうやって生き延びたのか〟ってとこで、色んな胸糞悪いゴシップが飛び交ってたな。そしてもう一つ話題だったのが――」

「母親の失踪――あれ程の事件であったにも関わらず、遺族である母親は一切メディアに姿を現すことはなく、代わりに勤め先の広報からコメントが公開されたのみだった」

「そこはさすがに調べたな」

 一心もまた、スマートフォンのディスプレイを覗き込む。

「『現在、当人はショック状態につき、本件についてコメントをお伝えできる状態ではございません。大変申し訳ございませんが、これ以上の取材はご遠慮いただきますようお願い申し上げます』――ずいぶん機械的な対応だったよな。おかげでマスコミも必死になって彼女の素性や現状を調べたが、出てきたのは〝某有名大学出身のエリート〟、〝稀代の天才でAVAL科学財団最高位博士〟、ってことのみ。それで囁かれたのが失踪隠蔽説だった。けど結局は、研究で海外にいて戻れないだけらしいってことがわかり、〝仕事にかまけて家庭を放り投げた冷酷な母親〟ってことに落ち着いて、こっちもこっちでそれなりにワイドショーを賑わせた。そして彼女の名は、今もまだ在籍研究者としてAVALの公式ページに載っている――」

「なぁ、柿原――」

 マリエはディスプレイを消して顔を上げると、

「赤谷がAVALの人間であることを告白した時、神名は何故、自分の親のことを黙っていたんだろうな?」

「………」

 厳しい表情でスマートフォンを見つめたままの一心に目を向けた。

「あの心中な、大千の遺体発見後〝事件性あり〟の線でも捜査されていたそうだ。その線が、急に〝消えて〟いた」

「それって……」

「おかしいのは千尋の〝その後〟もだ。事件後、竹谷三月は程なく親権を放棄し、彼は父方の遠い親戚筋の養子に入って神名姓となっている。しかし実際はまたもや〝白木系列〟の養護施設に預けられていたよ。そこに、突然大千の〝遺言〟を持った道明寺虎鉄の父親が現れ、公式の後見人として引き取っていた」

「白木に、道明寺……」

「これら全てを辿るとな、神名千尋――彼を、何者かが執拗に追いかけているように見えないか? 私は――」

 マリエが立ち上がる。

「彼もカークと同じように、その・・から『器』――もしくは〝『器』の種〟だったのではないかと思えてならない。赤谷の言う『ネクストヒューマン』の実験も、ひいては『英血の器』を作りだそう・・・・・としていたのではないか、とな」

 そしてちらりとドゥクスを見た。

「お前らの話だと、『混沌』という存在が全ての『英血の器』を殺そうとしているんだったな。しかし状況を分析するに、奴らは常に神名千尋のみを狙っていたように思える。つい最近目覚めたお前や道明寺が巻き込まれたのは偶然――花島に至っては存在さえ気づかれていないかもしれん」

「確かに……最初に存在を認知され、狙われたのは千尋君だ。しかも襲ったのは白木の令嬢――」

「実際、全ては『混沌』の意を受けたAVALが実行しているように見える――しかしそれは、〝そう見せている〟のではないか?」

「誰にだよ?」

「〝誰か〟が、我々に。そして――『混沌』に」

 その時、

「ふーん。色々と面白いわね」

 ドゥクスがさしていた日傘を閉じた。

「たとえそうだとしても、『混沌』に従うこの世界が『英血の器』を殺そうとしているのに変わりはないわ。それがあなたたち地球人類の選択――あなたたち人間は、得てして多くを生かすために少数を犠牲にするものね。どこに誰の思惑があろうと、結局はただそれだけのことなのではなくて?」

 急に口を挟んできたドゥクスに、マリエが眉をひそめる。

「信じ難い話だがな、お前の言う通り、事実東京はこの有様だ。しかし世界中が認めようとも私はそんなやり方は認めないし、屈服するつもりもない。体制側の私が言うのもなんだが、〝生贄〟にされた側は堪ったものじゃないんだよ。『器』でなくても、ただそのとき東京にいたというだけで――」

「〝いたというだけ〟? 残念ながら、それすらも『混沌』に仕組まれていたのじゃないかしら。東京のあちこちに仕掛けられてる『要石』とかいうの、あれって〝疑似アルカナ〟よね?」

「何? それはどういう――」

 マリエが疑問を差し挟もうとするが、ドゥクスは構わず続ける。

「アルカナはアルカナと引き合う――その性質を利用して、この街は多くのアルカナ因子を持つ人間たちが集まるように造られているのだわ。物質世界に直接手が出せない混沌の代わりに、『英血の器』を集め、それを狩る者たちを呼び出す『扉』とするためにね。目的を果たすためなら『混沌』はどんなことでもする――心や精神を操るなんて常套、時には時空を捻じ曲げたり、それこそ人知の及ぶ以上の手を使うわ。その手のひらの上で、たかが人間の、誰が、何を企んでいようと考えるだけ無駄ではなくて?」

「そうは思わない。そこに人が関わっている以上きっと何かがあるはずだ」

「拘るのね。何があるというのかしら?」

「きっと何か……恨みでも、欲でもいい。それが〝人の想い〟なら、そこから『混沌』への協力を止めさせることができるかも知れん」

 言葉は力強い。しかし語るマリエの胸中には如何な想いが澱んでいるのか、そこには切なる願いのような響きがあり、視線は地面に落ち、拳は固く握られていた。

 再び空気が重苦しく沈む。

「まぁまぁお二人さん、落ち着いて」

 すると一心がその空気を晴らすように明るい声で割って入った。

「ところでこれってさ、敵さんの〝次の一手〟の話なんだろう? 結局、カークと千尋君の話がそれにどう繋がるんだ?」

「繋がらないかもな」

「はい?」

 頓狂な声が聖堂に響く。

「すまない、柿原。正直私も混乱しているんだ。しかしさっき言った通り、人の想いが根幹にあるのなら、それは止められるものなのかもしれない。そうであって欲しいと思う願望なだけかもしれんが――」

 そう言って、マリエが歩き出す。

「どこ行くんだ?」

「とにかく、もう一度山荘事件の資料を漁ってみる。霞が関のデータベースが国にシャットアウトされる前にな」

「ふふ、マリエはお真面目さんなのね」

 揶揄するドゥクスの言葉に、マリエは何かを思い出したように足を止めると、振り返りドゥクスを見た。

「真面目ついでにひとつ聞いておきたい」

「あら、何かしら?」

「練馬で〝フードの男〟が持ち去った結晶――あれは何だ?」

 その質問に、ドゥクスは仮面の内で何かを熟慮するように間を開けてから、

「――《器》よ」

 と答えた。

「『英血の器』がそう呼ばれる所以ね。それ以上は、私が話そうと思ったときに話すことにするわ」

「……そうか」

「もう一度言うけれど、無駄なことはしないで、私の言う通りここでおとなしくしておいた方が良くてよ」

 そう首を傾けて微笑むドゥクス。

 しかしマリエは、

「悪いな、私は人として出来ることをする」

 そう言って、再び背を向けて扉に向かい歩き始めた。

 一同は黙ってその背を見送っていたが、マリエが扉に手を掛けたところで、一心が長椅子から立ち上がった。

「なぁ、黒髪さん。あんたは本当に『大共鳴』が起こることを知らなかったのか?」

 扉にかけようとしたマリエの手が止まり、半身だけ後ろに向ける。

「どういう意味だ?」

「あの一十ひのと様とかいうJKの話だとさ、あんたたちは政府と密接な繋がりがあるはずだろう?」

「本当に知らされていなかった」

 マリエはそう答え、扉に手を置く。

「しかし、〝上〟は知っていた可能性がある――だから私は今、組織と距離を置いている。よく言う通り、自分の信じてきたものが足元から崩れていく感覚だよ。全てがはっきりするまでは――今は、何も信用できん」

 一心には、その手が僅かに震えて見えた。

「――あんた、何か見たんだな」

「見たよ――〝記憶〟を」

「なっ⁉ それじゃあんたも……!」

 一心は思わず駆け寄ろうとしたが、いつもの毅然堂々としたマリエと違い、やけに小さく見えるその背を見て足を止めた。そして、

「黒髪さん。あんたの〝人として〟ってのは俺も同感だ」

「………」

「そこに誰かの想いでも無けりゃあ色々浮かばれないもんなぁ。生き延びたいってのももちろんだが――俺にもその〝想い〟ってのがあってさ、だから、この件を追おうと思ってる」

 その言葉をどう聞いたか、マリエは扉に手を押し当てたまま佇んでいたが、結局、そのまま何も語ることなく出て行った。

 扉の閉まる重い軋みの音を最後に、聖堂に静寂が落ちる。

 閉じた大扉をじっと見つめる一心――その後ろに、いつの間にか戻って来ていた笙子が立ち、共に扉を見ていた。

「信用なんて、この世にできるものあるのかな? 神様はそんなこと考えなくても無心ですがらせてくれるけど」

「無いんじゃないか?」

 一心は振り返ると、

「だから、自分でそうしようと決めるんだよ。信じるってのはそういうことさ。彼女は揺らいじまったみたいだけどな」

 そう、困ったような笑みを浮かべた。笙子もまた、

「うん……なかなかままならないね」

 と同じような笑みを返す。

 その時――

「んん?」

 一心の目に映る聖堂の景色が、ぐわんとたわんだ・・・・

 同時に階段に座っていた吠が立ち上がり、蛇がじろりと天蓋を睨み上げる。

 その視線の先――天蓋の下の空間が、小石を投げ込まれた水面のように揺れ、その中心から黒い円を広げていた。

 それを見たドゥクスは「ふぅ」とため息をついて再び日傘をさすと、

「今日は出たり入ったりせわしないわね――蛇」

 指示と共に、蛇が両手に拳を作って背に力をこめた。すると丸まった背からぐんと鋭い棘の束が伸び、天井に浮かんだ黒円を刺し貫く。

《うわっぷ‼》

 間の抜けた悲鳴と共に黒円が掻き消え、今度はそれが大扉の前に現れる。そして、

「――っぶねぇなぁ! なんだよ、ここブシドーとかの国なんだろ? 礼儀はどうしたよ、礼儀は⁉」

 黒円の中から、ごろりと男が転がり出た。男は服をはたいて立ち上がると、

「あれ? 一匹足りなくね?」

 額に手をかざし、やけにおどけた様子で周囲を見渡す。

 一心の顔が強張った。その男に見覚えがあったのだ。 

「こいつ――」

 目深に被ったフード、その奥に覗く顔、首、胸にかけて刻まれた奇妙な文様――。

「赤谷のときの……!」

 一心は後ずさり、庇うように笙子の前に立つ。

 その背後から、

――ゴウッ‼

 さっきよりも極太い棘が、空気を焼き焦がす鋭さで放たれた。

 しかし、男は「ぅひょうっ!」と情けない声を出しつつも、高速で迫る攻撃を珍妙な姿勢で体をくねらせ避けてみせる。

 放ったのは、またもや蛇――だが、今彼の背から長く延びたそれは、棘ではなく〝尾〟か。

 男は姿勢を戻して乱れたフードを被り直すと、その奥から鋭い眼光を蛇に向けた。

「ぃよぉ、〝箱舟〟以来じゃねぇの。なんだか随分毒気抜けたんじゃね? あんときゃ世話になったなぁ――〝世界蛇せかいだ〟ちゃん?」

「相変わらずよく回る口だな。あれは貴様に協力したわけではない。父者がそうしろと言うので従ったまでよ――〝バン・ドレイル〟」

 背から突き出た尾を揺らしながら、蛇が闘気を立ち昇らせて階段を下りてゆき、フードの男――バン・ドレイルもまた、虚空から魔導書グリモアを取り出して迎え立つ。

 そんな一触即発の空気を、

「お待ちなさいな」

 少女の愛らしい声が遮った。

「ねぇあなた、どうやってここまで来られたのかしら? 今この空間・・・・は外から断絶されているはずなのだけど」

 いつの間にか祭壇に戻っていたドゥクスが、日傘を回しながら訊ねる。

「そりゃ弊社の企業秘密かつ超極秘事項ってやつでして」

 バン・ドレイルは両手のひらを上に向けてへらへらと体を揺らしながら答えた。

「それじゃ何をしに来たのかくらいは教えてくださる? 預けておいた《器》でもわざわざ持って来てくれたのかしら?」

「んなわきゃねぇだろが。逆だよ。ちょーっと最近『器』どもの成長が著しいからよ、集めにくくなる前に、ここらでまとめて回収しとこうと思ってなぁ……」

 言いながら「ちっ、やっぱ一匹いねぇよな……」ともう一度周囲を見渡す。

「〝まとめて〟?」

「姉者、もういいだろう。こいつは我が潰す」

 焦れた蛇が足を踏み出したが、ドゥクスは、

「駄目よ、蛇」

「……何故だ?」

「それよりも急いで〝彼〟に道を繋いで。それとここは『混沌』に見つかってしまったから、〝神殿〟を別の場所に移しておいてちょうだい」

「しかし姉者……」

 蛇は納得いかなさそうに顔をしかめるが、

「言うことを聞いておけ――こいつはオレがやる」

 肩を叩かれて振り向くと、すぐ傍らに吠が立ち、敵を睨みつけていた。

 蛇もまた、拳を握りもう一度だけバン・ドレイルを睨んだが、

「――運が悪かったな、兄者は恐ろしいぞ」

 そう言うと、祭壇へと踵を返す。そして、

「どこに居るか探す。少し時間がかかるぞ、姉者」

 そうドゥクスに告げ、両腕を高く掲げた。すると腕の間の空間が小さく捻じれ、徐々に〝渦〟を作り出し始めた。

「おいおいおいおい、行かせねぇって!」

 それを目にしたバン・ドレイルがグリモアを片手に速足でずんずん身廊を進む――が、

「話を聞いてなかったのか?」

 その前に、上着のポケットに手を突っ込んだ吠が立ちはだかった。

「あれ? もしかして〝狼のお兄ちゃん〟? 何そのかっこ」

「色々と、流れ・・でな」

「へぇ……テメェを探してた〝ラグナロクの坊主〟はどうしたよ? 最近見当たんねぇんだけど」

「貴様の目の届かぬところに隠した」

「どうりでなぁ……なんだよ、せーっかく偉っそうなテメェの〝叔父さん〟の『贄』にしてやろうと仕込んでたのによぉ。あのおっさんのこと、テメェだって嫌いなんだろ?」

「奴を喰らうのはオレの役目だ――しかし何の余裕だ? よく喋るが、貴様一人でオレに勝てるはずもないだろう」

 言いざま、ポケットから抜き放たれた吠の両手が、獣の牙のようにバン・ドレイルに襲いかかった――が、

「悪ぃな、一人じゃねぇんだわ」

 獲物を引き裂くはずの鋭い爪は、空中でぎりりと震え止まっていた。それを食い止めている鈍く紫に光る障壁、これは、『八卦陣』か――見ると、バン・ドレイルのグリモアからも同じ色の魔法陣が浮かび上がっている。

「――旦那ぁ、勘弁してくれよ。オイラ忙しいんだけどなぁ」

 その背後に、人影が浮かび上がった。大きな黒い珠に乗ったその男は、怒髪天を突くように逆立った白髪の下に、凶悪な笑みを浮かべて言った。

これ・・ぐちゃぐちゃにしたら帰っていい? 太公望の兄さん殺しにいかなきゃだからよぉ」

「ばっか、〝申公豹〟! こいつも言ってんだろ? オレを一人にしたら危ねぇじゃねえか――ってなわけで、もう一品追加だあ!」

 そうバン・ドレイルが大げさに腕を振り上げて、さらにグリモアから魔法陣を引き出すと、直上に大きな黒い円が浮かび、中から巨大な獣が飛び出した。

 黒い縞が刻まれた黄金の体毛に、赤い血のような髭をたなびかせて咆哮を上げたその獣は、夜と戦争を司る古の神獣――〝テスカトリポカ〟。

 テスカトリポカは床に降り立つと、その凶悪な瞳を、祭壇の上で〝道〟を開こうとしている蛇とドゥクスに向け、狙いを定める。そして、

「おっし! 行けえええ‼」

 腕を振り上げるバン・ドレイルの声援を受け、力強く地を掻いたところで――なぜか、全身の筋肉が弛緩したようによろめいた。

「ケー! ケケケケケケー!」

 けたたましい笑い声を響かせ、テスカトリポカの目の前にすぅっと大きなしゃれこうべが浮かび上がった。よく見ると、その口から吐き出される怪しげな瘴気が、黄金の獣足に絡みついている。

 テスカトリポカは大きく吼え、長い髭でしゃれこうべごとまとわりつく瘴気を振り払う。そして今度こそと強く地面を蹴り獲物に向かおうしたが――今度は高速で股下をすり抜けた何者かに足を掬われ、無様に頭からつんのめってしまう。

「おい……」

 バン・ドレイルが白い目を向ける中、テスカトリポカはすぐさま体を起こそうとして、それができないことに気付いた。なんとこの一瞬の間に、勇ましい黄金の体毛の下半分が、びっしりと氷で覆われ、床に貼り付けられていたのだ。

「ぐるぅ」と忌々し気に上目づかいで見上げる瞳に、「くくく」と肩を震わせる子豚のような妖怪と、その横で「けひゃひゃ」と小躍りして笑う、太った青白い妖精の姿が映る。

「ぃよしっ! トムさん、らうわちゃん、ジャッーク、よくやった‼」

 長椅子に隠れ、いつの間にか血晶を纏っていた一心が、にひりと笑みを浮かべて拳を突き上げた。 

「テスカさん、何やってんの……?」

 その様子を呆れ顔で見ていたバン・ドレイルの目が、

「……って、あああああ!」

 と大きく開かれた。

 その視線の先で、蛇の掲げる渦が祭壇全体を覆う程に大きく広がり、蛇諸共に、ドゥクスと鈍を吸い込んで消え去ってしまったのだ。

「行っちゃったよ……」

 そんなバン・ドレイルの刺すような視線を背に受けつつも、力任せに氷を砕いたテスカトリポカが気勢を増して立ち上がった。

「そんなら!」

 すかさず一心が両手を空中に突き出すと、テスカトリポカの真上に大きな血晶体が浮かび上がり、

「キュゥララアアア!」

 中から、黄色いヒレを震わせた巨大な青い蜥蜴とかげ――〝モケーレムベンベ〟が現れて上からズンとのしかかった。

「すっごーい、柿原さん!」

 一心のすぐ横で、笙子が手を叩いて誉めそやす。

「へへ、まだちょっと怖いけどな。でも女の子の前でビビってばっかじゃいられないし、それなりに練習はしといたんだよ」

「ふふ。それじゃ、あたしも頑張っちゃおうかなぁ」


「ふん……」

 背後の様子を肩越しに見ていた吠は、ほくそ笑むと、

「どうやら一人じゃなくても勝てないようだな。どうせならもう少し位の高い神獣を持ってこい」

 そう言って爪に力を込め、申公豹の八卦陣を一気に引き裂いてみせる。

「あら……」

「ほっ! あんたやるねぇ」

 申公豹は既にげんなりしているバン・ドレイルの肩を引き掴むと、不吉な笑みをさらに凶悪に歪ませて前に出た。

 一方バン・ドレイルは引かれるがまま後ろに下がり、やけに冷めた目で血気に逸る目の前の二人と、その後ろの様子を眺めた。

「……来い。噛み千切ってやる」

 吠が溜め込んだ気勢を放つと共に白銀の髪が逆立ち、犬歯が鋭く伸びていく。そして本来の姿を現そうとした、そのとき――。

 背後の気配が、一斉に薄らいだ。

「……?」

 振り向くと、一心の呼び出した使い魔たちが皆赤い血晶と化し崩れていく。

 そしてバン・ドレイルの冷めた目が――冷ややかに笑った。


「おせぇよ、ショーコ」

「あんたが遅いんでしょ? まったく、出かけてるうちに終わらせといてよ」


 そう血晶を纏って答える笙子の前には、


「うっせぇな。この〝神殿〟の障壁こじ開けるとか、すっげぇ大変なんだぞ?」

「知らないわよ」


 体をくの字に曲げて崩れ落ちる一心の姿が――。


「笙子、お前――――っ⁉」

 言いかけた吠の体が揺れた。

「コラてめぇ! 横取りかましてんじゃねぇぞ!」

 吼える申公豹の前で体を沈ませる吠――見ると、その脇腹が、ざっくりとえぐれていた。

 吠は目を見開き、傷口から引く赤色の糸をたどって顔を横に向ける――そこには、いつの間にか燈色の毛に覆われた巨大な二足の獣が、鋭い爪を赤く濡らし立っていた。

「……〝創世紀の獣〟……だと……?」

「ありがと、フッ君」

 巨獣――〝フンババ〟に声をかける笙子を見つめたまま吠が膝を突く。

「ごめんね、吠さん、柿原さん」

 そんな吠と、横たわる一心を交互に見下ろし、


「ホント、ままならないぁ」


 笙子は心底困ったように――笑った。