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LORD of VERMILION IV小説 LORD of VERMILION IV‐ O Brave New World ‐

write : 浅尾祥正

第1章

記憶の檻

 ギィシ……ギィシ……。


 イライラする。とにかく気分が悪くなるから、この音をすぐに止めて欲しい。 

 自分で止められればいいのだが、それは出来ない。

 背が、足りないのだ。

 子供の僕の背では、それをぶら下げている天井の梁に結ばれたロープまで手が届くわけもなく、ぶら下がっている大きなそれを持ち上げて下ろす力もない。無理やり引っ張ったとしても、ロープは丈夫だろうし、おんぼろな山小屋のくせに、そこだけはやけに太くて立派な梁は決して折れてくれないだろう。

 そもそも気持ちが悪いので、とてもそれに触る気になんてなれない。

 たとえ父さんでも――人の、死体なんて。


 ギィシ……ギィシ……。


 また揺れている。まだ揺れている。何故揺れるのだろう? 風も吹いてないのに。

 もう笑えなくなってしまったから、そうやって体を揺らして、ここでこうしているしかない僕を笑っているのだろうか……そういうことを喜ぶ人では無かったし、あまり笑ったところを見たこともなかったけど……なんとなく、そう思った。実際、今どんな表情をしているのかは、顔を見てないからわからない。見たらきっとひどく嫌な思いをするだろうから、初めに見たときから一度も見ていない。

 初め――何日前だったか。缶詰の空き缶が――二、三、四……八つあるから、もう一週間以上前だ。

 寒いなと思って毛布を被ったら、父さんがココアを淹れて黙って僕に差し出してくれた。僕はそれを受け取って、フーフー少し冷ましてから半分くらい飲んだら、じんわりお腹が温かくなって、急に眠くなって、目をつむって――目が覚めたらこうなっていた。

 初めは只々混乱して、そのあと怖さがじっとり全身に広がっていった。けれど何日もこうしている内に慣れてしまったようで、今は只、言い知れない嫌悪感だけが残っている。

 父さんのことはすごく好きというわけではなかったけど、別段嫌いでもなかった。忙しい母さんよりは僕と一緒にいる時間が長くて、あんまり話すことはない、なんだか違う世界に住んでいるような人だった。だから僕も父さんにはさほど関心を持つこともなかった。なのに今は、僕の目の前で揺れ続けて、どうあっても僕の頭の殆どを占めてしまっている。

 体が別の何かに変わったわけでもないのに、そこに魂だとか、そういったものが無くなってしまったというだけで、こんなにも不快になるものかと不思議だった。本当になんで――なんで、こんなことになったんだろう?

 夏休みも半ばを過ぎたころ、元々外泊しがちな母さんがまったく帰ってこなくなって……その頃から父さんの様子がおかしくなった。そして「おばあちゃんのところへ行こう」と手を引かれ、車に乗せられて、この山小屋に連れて来られて――。

 そのことを考えようとすると、


 ギィシ……ギィシ……。


 やっぱり、この音が邪魔をした。 

 イライラして、また嫌な気持ちになって、僕は音が寸分も耳の穴に入ってこないよう、ぎゅうっと両耳を手で塞ぎ、目をつむった。

 すると今度は鼻から入って来た。

 臭いが、だ。

 そうならないように口だけで息をしようと意識していたのに……音に気を取られて、つい鼻から空気を吸ってしまったのだ。

 何日も体を洗っていないせいで胸元からせり上がってくる自分の体臭よりも、カビ臭い小屋の臭いの方に意識が向く。そしてそこに、まだ〝嫌な臭い〟が混ざっていないことに安堵する。

 音だろうが、臭いだろうが、あの死体から発せられるものを体の中に入れるのが嫌なのだ。

 そうしているとまた音がした。耳を、塞いでいるのに。

 でもそれは体の中からだった。

 グルルと鳴く、腹の虫だ。

 これはいい音だった。嫌じゃない音。僕があれと同じ死体になっていない証だ。

 缶詰はあと何個残っているだろうか。戸棚のは無くなったけど、床下の収納庫にもまだまだあるはずだ。父さんが、確かそう言っていた。

 僕は長いこと同じ姿勢で抱えたままだった膝をキシキシ鳴るままに伸ばし、死体の顔を見ないよう細心の注意を払って立ち上がった。そして収納庫の床蓋を外した。

 あった――良かった。

 もう薄暗くなってきたから、小屋に日が差し込んでいるうちに拾い上げておこう。

 もうすぐまた夜が来る。お腹が空くと眠れなくなるから、その前に食べておかなきゃいけないもの。

 夜は駄目だ。

 暗くて、耳とか、鼻の感覚か鋭くなる。

 だから寝てしまう。

 寝てしまうと耳を塞いでおけないので音が入ってくるし、鼻を止めていられないので臭いが僕に侵入してくる。もちろん嫌だけど、寝ている間は気にならなくなるので幾分かはましだ。

 

 ギィシ……ギィシ……。


 嫌だな……まだ、眼の端で揺れている。

 足が、揺れている。

 

 ギィシ……ギィシ……。


 今は、とにかくこの音を止めてほしい。

 もう、揺れないでほしい。

 そうやって缶詰を抱えてうずくまっていると、なんだか音が、次第に窮屈な〝軋み〟から伸びやかなものに変わっていった。

 音域が高くなって、澄んだ――そう、液体の入ったクリスタルのグラスの縁を濡れた指でなぞったときに鳴るような――いや、それよりも硝子製のベルの響きに似ているか――それが、たくさん重なって――。


 そんな共鳴音が、僕の鼓膜を震わせた。


    * * * *


 鈍く、低く続く共鳴音に意識を引かれて、神名千尋は目を開いた。

 周囲の暗さから〝いつもの夢〟の続きかと思ったが、そうではない。

 横たわる自身の頬に当たる感触は、あの山小屋の床板でも、ましてや自室の枕のものでもなかった。このざらざらとした冷たさは、固い、石の床――。

(……そうだった……)

 千尋は身を起こし、闇に目を凝らした。

 暗闇にぽつぽつと薄赤い星々が浮かんでいる。じっと見るうちに、それらは積み重なった瓦礫の隙間から漏れ入る光であることがわかり、さらに目が慣れてくると、天然の洞窟に石畳が敷かれた〝通路〟が、天井の崩落によりすっかり塞がっている様が見えてきた。

(……助かったんだ)

 そこは、千葉の舞浜にある劇場「インフィニティシアター」の地下だった。

 劇場の下に広がるこの不可思議な空間に、何故、千尋はいるのか――。


 三ヵ月半程前、首都圏一帯を襲った謎の広域災害『大共鳴』による昏睡状態から目覚めた千尋は、超常の力を手に入れていた。

 どれだけ傷ついても再生する不壊の肉体と、人外の存在――『使い魔』を操る力である。

 その後、使い魔セルディッドに導かれて、全ての事情を知るという仮面の少女〝ドゥクス〟に引き合わされた彼は、力の正体と辿るべき運命を告げられる。

 ドゥクスによると、その力は『アルカナ』という神秘の核石を身に宿す異界の戦士『ロード』のものであるらしい。そして千尋は、体にアルカナの構成素子と性質を同じくする『アルカナ因子』を大量に有するが故、大共鳴を期に次元を超えてロードと〝共鳴〟し、力を発現させてしまったのだというのだ。

 ドゥクスは千尋を『英血の器』と呼び、その敵を『混沌』と呼んだ。

 「混沌」――この世の全てを虚無と化すために在るというそれは、自身の天敵である『紅蓮の王』の誕生を防ぐため、その〝きっかけ〟となりえる「英血の器」たちの抹殺を企んでいるらしかった。つまり大共鳴とは、この世界の存続を条件に〝国の為政者たち〟が『混沌』と結託して引き起こしたものであり、その生贄として捧げられた東京は、「英血の器」をあぶり出し、殺すための〝狩り場〟にされたというのである。

 さらに、ドゥクスは告げた。


――だからね、千尋、あなたは「紅蓮の王」を生み出すためになんとしても生き延びて、〝この世界〟を、壊すのよ。


 戸惑う千尋を余所に、その身に宿った力と、頭の奥からじくじくとした痛みを伴い浮かび上がる〝見知らぬ異界の記憶〟が、彼女の言葉を真実だと告げていた。そしてそれを裏付けるが如く、「器」として目覚めた者たちが次々と引かれ合うように集まり、さらに現れた『器を狩る器』たちが、彼らを望まぬ戦いに引き込んでいった。

 そうして否応なしに戦いは続き、とうとう「器」に犠牲者が出てしまう。

 赤谷犬樹――力の侵食を食い止める抗剤を作ろうと、自身の体を使い実験を繰り返していた彼は、逆に力に飲み込まれ、練馬を火の海と化した。そしてそれを食い止めようとした葵順もろともに消滅したのである。

 「器」の辿る末路を見つめ、立ちすくむ千尋たち――そして、その様子を笑うように揺れる炎の中に、突如、『混沌の使者』が姿を現す。フードを目深に被り、体に異様な文様を刻んだその男は、

 

――進みが遅ぇからよぉ、近々楽しい‶宴〟をやることにしたんだ。楽しみにしときな。

 

 そう言って姿を消した。

 男の言葉の意味を探る為、練馬の戦いで出会った黒髪マリエを通じ呪術組織『鎮護国禍』の協力を取り付けた「器」たちは、〝宴〟とは「第二の大共鳴」なのではないかと推測する。そして、その引き金となるであろう『Azu;Laアズーラ』の慰問コンサートを中止させるべく、会場であるインフィニティシアターへと向かった。

 果たして、「器を狩る器」であった「Azu;La」ことカーク鏑木により、まんまと引き起こされてしまう大規模な共鳴現象――その混乱の中、現れた怪物たちとの激闘の末、千尋たちは共鳴の余波による崩落に巻き込まれ、地下へと落ちてしまったのであった。


 千尋は手足が問題なく動くことを確認すると、立ち上がりゆっくり歩き始めた。

 崩れかけた天井から僅かに差し込む紅い光が、地下道に沿って立ち並ぶ、神仏を象った石像の影を薄ぼんやりと浮かび上がらせている。その光は、この不思議な地下空間に収められた巨大な〝秘石〟より発せられるものだった。

「器」の一人、柿原一心から伝え聞くに、秘石は『要石』というもので、なんでも江戸期以降、日本国の中央となった武蔵の地を霊的に守護する〝護り石〟として造られたそうだ。そして江戸一円の地下を縦横に貫くように七つ設置され、こうして鎮護国禍によりに祭られてきたらしい。皮肉なことに、その「要石」自体が「大共鳴」の発信源となり、東京に破壊をもたらすことになってしまったのだが――。

 そして千尋が歩くこの『龍道』は、「要石」同士を結ぶ‶力の通り道〟として、東京の地下深く、いたるところに張り巡らされているとのことだった。

 ならばこの道を辿ることで、地上へ出られるかもしれない――そう考えた千尋は、何かの本で読んだ〝迷路を解くセオリー〟に従い、右側の壁に手を添えながら歩いた。

 周囲の空気が澱み留まっており、流れを感じない。きっと劇場近くの祠にあった地下への入り口も塞がったままなのだろう。ただ、「要石」のすぐ傍に龍道の入り口があったということは、他の入り口もまた、別の「要石」の近くにあるに違いない。

(確か、一番近くて日比谷だったっけ……)

 直線距離にしても、舞浜からは数十キロの距離がある。それでも歩いて、歩いて、地上に戻る。しかし――戻って、どうするのか。

 地上に戻れば、共鳴により数を増したであろう〝元人間〟たちが、今まで以上に千尋を襲ってくるに違いない。本当に国が東京を生贄に差し出したというのであれば、都外からの助けも期待できないだろう。やはり、ドゥクスの言う通り〝世界〟を破壊するしかないのか――。

 千尋たちを付け狙う「器」たちは、その世界を守るために「英血の器」を狩ると言った。そして目覚めた「器」を全て殺した後、最後には自分たちも消えるつもりだ、とも――。

 しかしそれで得られる世界の安寧は仮初で、『混沌』は〝しばらくの間この世界を見逃してやる〟と言っているにすぎない。

 もちろん千尋は『混沌』と話したことはおろか、目にしたことすらない。それでもわかるのだ。〝異界の記憶〟が、はっきりと告げているのだ――その先には、必ず〝滅び〟が待っている、と。

 なら、それはいつ訪れるのか――数百、数千年先かもしれないし、たった数年後なのかもしれない。それでも、目の前に圧倒的な〝滅び〟を突きつけられれば、人々はそれにすらすがり付きたくもなるのだろう。多少の犠牲が出ようとも、昏い希望に恭順するしかなくなってしまうのだ。それはわかる。もしかしたら、その希望に殉じる「器」たちにも、自身を犠牲にしても救いたい者が、果たしたい想いがあるのかもしれない。

 しかし――

(それでも……)

 生き延びる――千尋に、それ以外の選択はなかった。

 千尋は、〝生〟というものに尋常ならざる思いを抱いていた。

 生きる、とにかく生き抜く――簡単に言ってしまうと、そういう誰もが多少なりと持っている欲求なのだが、千尋のそれを正確に言い表すならば、「他人の意思に左右されずに」という絶対条件が、強迫観念とも言えるほど強固な思いとして付け加えられていた。その部分に比べれば、むしろ死や生そのものに対する執着や意識は他者よりも希薄なのかもしれない。とにかく、千尋は生の〝在り方〟を他者に強要されることを忌避し、そうしようとする者を激しく嫌悪した。

 その思いはいったい何に起因するのか――それも、千尋自身はしっかりと自覚していた。

 

 それは十歳の夏――父親に手を引かれて行った山梨の山荘で、無理心中を図られた〝あの日〟からだった。


 一命を取り留めて目覚めた千尋は、一切外との連絡が途絶えた山奥の山荘から身動きがとれず、そこでひと月半もの間一人で生き延びた。幸運なことに水や食料の備蓄はそれなりにあった。しかし、そこに残された自分の外のもう一つ――父親の死体と過ごす時間が、千尋に例えようのない恐怖を与えた。

 目の前で揺れる、物言わぬそれが怖かった、逃げ出そうにも、子供の彼に成す術などなく、昼でも暗い山は不気味で、そこを離れればきっと生きては戻れないだろうことは容易に想像出来た。そんな暗い想像をすること以外に出来ることといえば、平屋一間の天井からぶら下がるそれを視界に入れないようにしながら、ただ、食べて、排泄をし、寝ることだけ――千尋はただひたすらそれだけを続け、必死に心を殺して耐えた。

 何故、そのようなことになったのかは全くわからなかった。それまでは、別段なんて事の無い普通の生活をしていたと思う。毎日学校に行って、家に帰るとテレビを見たり、ネットブックを読んで過ごした。いつも決まって夕食の時間になると、のそりと書斎から出てくる父親とその日一日のことを少し話して、夜は明日の楽しみを考えながら眠った。たまに母親が帰ってくれば家族三人で食事をすることもあった。母親が仕事で家を空ける期間が長くなると、父親に連れられ、母親の働く研究所に遊びにいくこともあった。幸せかどうかはわからないが、そんな何ということの無い、ごく普通の日常だったと思う。


 それが、突然消えて無くなってしまった。


 何の説明もなく変えられてしまった。

 自分ではない、誰かの、意志で。


 誰も助けに来ない。

 何日経っても、誰も――母親すらも、来てくれない。

 手を伸ばしても何もなく、何も差し出されず、抗いたくても、何もできない。

 その内、食料も水も底をつき、気付くと――病院のベッドの上に居た。

  

 千尋を救出したのは、警察に捜索を依頼された地元の山岳会だった。捜索願を出したのは道明寺羅閂らかんという父親の友人で、パーソナルIDの交通端末アクセス記録や防犯カメラの映像解析から、届け出より二日後にはあっさりと発見できたらしい。こうして悪夢のような山荘から解放された千尋は心底安堵したのだが、生還した先に、もう、帰りたかった日常などないことを知った。


 悪夢の外で待っていたのは、さらなる孤独だった。

 まず、今度こそ迎えに来てくれると思っていた母親が病院に現れなかった。代わりに現れた、彼女が努める研究所の職員と名乗るスーツの大人たちは、母親は現在海外に赴任しており、暫くは帰国できない旨を告げた。それどころか、携わる研究の機密性の高さから、たとえ肉親であろうと連絡をとることは許されないというのだ。親戚もおらず、身寄りのない千尋は養護施設に預けられることになり、住んでいた街を離れた。

 入所した施設では、〝心のケアのため〟と腫物を触る様に扱われた。新しい学校でもそれは同じで、世間を大きく騒がせた事件であったことから、そこに好奇の目が加わり、さらに千尋を苛んだ。一歩外に出れば、ゆく先々でマスメディアが纏わりつき、様々な心無い言葉と憶測が容赦なく投げかけられた。

 何故家族と離れて暮らすのか――どのような出生なのか――事件直前、父親の様子はどうだったのか――いったい、どうやって生き延びたのか――こんな子供がひと月半も――ずっと父親の死体と一緒だったのだろう?――この子はもしかしたら、その死体を――。

 

 こうしてあの夏の日を境に、千尋にとっての世界は在り方を変えた。

 決して自分を受け入れない、誰も頼れず、信じられる人間のいない孤独な世界へと。


 そんな折だった。施設に面会に来た道明寺羅閂がそんな千尋の様子を見かね、彼を引き取ろうと申し出た。

大千だいちの息子なら俺の息子も同然だ。なぁに心配するな。俺は保護司の資格だって持ってんだぞ?」

 そうやけに大きな笑い声と共に差し出された手を、とにかく現状を脱したいと考えていた千尋は黙って握り、受け入れた。

 何を語るにしても小柄で短い手足をばたばたと大げさに動かし、禿げ頭を叩きながらよく笑う羅閂は、見た目通りの大様な男で、「自分の家だと思って好きに暮らせ」とだけ言ったきり、特にあれこれ千尋に構うことはなかった。

 羅閂は剣術道場を生業としていたのだが、自分の身を自分で守れるようになりたいと思った千尋が、「アルバイトをして月謝は払うから」と入門を申し出ると、

「金ぇ⁉ いらんいらん! それよりゲームゲームなこの時代に剣に興味持ってくれるとか嬉しいじゃねぇか!」

 と嬉々として剣を教えてくれた。そうして稽古をするうちに、羅閂の一人息子である虎鉄にも懐かれ、そんな日々に、次第に誰かに受け入れられる感覚も戻ってきた。

 間違いなく、かつてあった日の当たる暮らしだった。

 しかし、それでも――


 ギィシ……ギィシ……


 一人暗闇に包まれると、未だあの音が耳の奥から聞こえてきた。

 〝あれ〟が揺れる――縄のきしむ音――。

 

 ギィシ……ギィシ……


 羅閂は、大共鳴により怪物となって、死んだ。

 手を下したのは、千尋だった。

 

 千尋は、結局あの暗闇から抜け出せないでいる自分を知った。

 どれだけ平穏に包まれようとも、心の奥底に、痣のように染みついたあの音から逃れることができないでいた。

 そして今もまた、こうして千尋は暗い道にいる――冷たい岩壁に囲まれた道の上には、一人歩き続け、抜け出せない自分がいる。

 変わらない、あの夏の日から続いている世界――そこに自分の選んだ生はなく、ただ道の続くままに、前に進むしかない世界――抜け出したくて歩いているのか、歩かされているのか、壁を作っているのは自分なのか、世界なのか、それでも只々暗い通路は続き、続くので、歩き続けるしかない。

 暗い道――昏い山荘――孤独な世界――「器」である千尋を殺そうと拒絶する、世界。

 結局、何も変わらない。

 生き延びるためには世界を壊すしかないとドゥクスは言った。それもいいのかもしれない――そう思える自分がいた。世界が千尋の存在を拒絶するというのなら、千尋もまた拒絶するしかない。世界の敵を倒す為だとかそういうことではなく、それしか、生きてこの暗闇を抜け出る方法がないのなら――。


 そこまで考えたところで、口に残った砂の味に今さらながらに気付き、千尋は唾を吐き出した。 

(なんだろう。共鳴の所為かな……少し、滅入り過ぎだ)

「っつ……」

 頭痛がしてこめかみを押さえる。

 共鳴により起こされるじんじんとした鈍い痛みに引かれてか、どうにも陰鬱な思考が泡のように絶え間なく浮かんできてしまう。

 千尋は自分のことをよくわかっているつもりだ。なので普段、今さらにこんな過去のことをまざまざと思い返すことなどしない。もしかすると、再び共鳴を受けて〝異界の記憶〟の侵食が進んだ影響なのかもしれない。

 異界の記憶――頭の中にあるそれは、まるで自分が見てきたことのようにまざまざと思い起こすことができた。しかしその記憶は決して千尋自身が体験したことではなく、そこに至る思考や感情は全て他人のものである。たとえ同じ境遇にあったとしても、千尋が同様の結果を迎えることはないだろう。それにもかかわらず、もやもやとした違和感と同時に、確かな共感が心に残る。異なる二つが重なり、響く――まったく「共鳴」とはよく言ったものだ。

 あえてそんな二つの記憶の共通点を探すならば、記憶の中の青年――「ギデオン」もまた、千尋同様〝昏い想い〟に飲み込まれていたというところだろうか。

 彼は〝復讐〟に囚われていた。騎士の家に生まれ、父の背に憧れた。その父を目の前で殺され、何を置いてもその仇を討つことを己に誓っていた。たとえ、自身の命を失ったとしても――。

 しかし、そのような〝死を賭してまで〟といった情熱や、深い肉親への愛情は千尋には無い。

 そうなのだ。やはり、彼と千尋は違う。けれど彼はまるで――そして千尋は、かつてその記憶を――

 

 グルル――と音がして、再び没入しそうになる思考を遮った。

 

「お腹……空いたな」


 思わず口に出た。こんな状況で、不死身の体であっても腹は減るものかと、今さらながらに感心してしまう。しかしそれは生きている証にも思えて、千尋に仄かな安心を与えた。

 千尋は俯く顔を上げ――そこで、意識を前方に向けられたのが幸いした。

 

 すぐ目の前に、針があった。


 クリスタルのように美しい透明でありながらも、濃く血のような紅を湛えた針――。


 針は即座に身を躱した千尋の腕をかすめ飛び、後方の暗闇で壁にでも当たったか、リンと物悲し気な音を立てて割れた。

 千尋はすぐに心臓のあたりに手を当て意識を集中させた。そこに流れる血――さらにその奥に潜む〝力〟に。

「――いけるかな」

 千尋の瞳が赤光を放つ。

 同時に親指の腹を口に当てると、表皮を噛み切って腕を振った。

 宙に舞う紅い飛沫――それがきらきらとした結晶に変化し、砕け、細かく散って千尋の周囲を漂う。さらにそれらは急速に体積を増していき、千尋の体を包み込むと、騎士が纏うような〝血晶の鎧〟となった。

 そしてキッと視線を前方の暗闇に向けたまま血晶のマントを振るうと、何かをはたき落とす。いくつもの甲高い音を立てて砕けたそれらは、さらに放たれた紅い針か。

「……あんたか」

 睨む闇の中に、

「もう血晶を纏えるのね。さっきの戦いからまだ二時間も経っていないと思うけど」

 ぼうっと紅い光が浮かび上がった。

 そこには、千尋の鎧とよく似た〝血晶のローブ〟を纏った女が視線を返していた。

「見つけたわ、千尋君」

 血晶と一体化した純白のシャツにかかる長い黒髪が、紅い光を受け、この闇の中ですら美しく艶やかな輝きを返す。その隙間から覗く整った顔に表情は無く、両の瞳には、やはり濃い紅色を湛えていた。

 白木優羽莉――「大共鳴」後、最初に千尋を襲った「器を狩る器」の一人――。

 優羽莉がゆっくりとした所作で両手を広げると、その動きに呼応するように手の周りに紅い粒子が集まり、いくつもの血晶の針を作り出す。そして、

「今度こそ死んでもらうわ」

 腕を振ると同時に、針が一斉に千尋へと飛んだ。

 千尋は横っ飛びに躱すと、左手を突き出しその先の空間に意識を集中させた。

「――〝セルディッド〟!」

 千尋の呼び声と共に、空中に拳大の血晶が現れる。

「……⁉」

 ――が、それは倍ほどの大きさに膨れたところで割れ散った。

 眉をひそめて左手を見る千尋。その様子を変わらぬ冷たい表情で見つめつつ、優羽莉は

ヒールの音を響かせゆっくり歩を進める。

 千尋は牽制するようにもう一度左手を前にかざし、

「……〝ボーア〟! 〝サクヤ〟!」

 さらに使い魔の名を呼ぶが、そのどれもが形を成すことなく割れて霧散してしまう。

「まだ『クリーチャー』を呼べる程には回復していないようね。自分の状態も把握できないようじゃ、私には勝てないわ」

 言いつつ、今度は優羽莉が両手を手前にかざした。

「来て――」

 すると優羽莉の目の前に血晶の玉が浮かび上がり、急速に体積を増して二メートル強はあろうかという大きさに膨れ上がる。

「クリエイト――〝ガレアード〟」

 血晶が弾ける音と共に通路に降り立ったのは、頭と背に雄々しい四本の角を生やし、甲虫類のようなキチン質の甲殻に覆われた青黒い巨人だった。

 巨人はその複眼で千尋を見据えると、優羽莉を守るように燈色に輝く巨大な剣を通路いっぱいに広げて構えた。

 その異様に、千尋は身構えつつもじりりと後退り距離を取った。

「あの執事みたいのじゃないんだ」

「あなたたちと戦った傷がまだ癒えてないの。〝狩魔威〟たちには悪いけど、ここであなたと戦うためにアルカナを温存させてもらったから」

「ふぅん……」

 優羽莉の言葉を聞きながら、千尋は振り絞るように右手に力を込めて、手のひらから〝血晶の剣〟を取り出した。しかしその刀身は全力の時に比べはるかに短く、短刀程の長さしかない。

 それを見た優羽莉は目を細め、

「それで戦うつもり?」

「仕方ないよ。見逃してくれそうもないからね」

「……そう」

 と、右耳に付けた小型の機械に触れ、小さく歯を噛んだ。

「……それでも力が出せるんだ……〝キャンセラー〟も付けずに、この共鳴の中で……羨ましい」

 その呟きは闇に溶け、千尋には届いていないか――。

 優羽莉は気を取り直すように千尋を睨むと、

「やって」

 と手を振った。

 同時にガレアードが通路の空気を震わせ石畳を蹴った。

 見た目にそぐわぬ速度で黒い巨体が千尋に迫る――果たして、千尋はどうするのか。

 太い腕と剣を通路いっぱいに広げて迫る、その脇をすり抜けるのは至難の業だろう。踵を返して来た道を戻ることもできようが、所詮行きつく先は行き止まりだ。

 ならば、と何かを決意したように、千尋は握る刃の腹に左手を添え、踏ん張るように足を広げた。

 まさか、ガレアードの持つ巨剣の剣戟をそれで受けようと言うのか――。

 ガレアードは構うことなくギチチと顎を鳴らすと、剣を目いっぱい引き絞り、突き出した。

 ギャリンッ‼

 火花と紅い破片が散る。

 剣の切っ先は――うまく逸れて千尋のこめかみ数センチ横をすり抜けていた。

 確かに、このさして広くはない通路で巨大な剣を振り回すわけにはいかない。攻撃は「突き」に絞られるだろう。千尋はそれを見越して、傾けた短刀の腹でガレアードの突撃をいなしてみせたのである。

 必殺の軌道を見極め、受けきった千尋の技量は鍛錬により身に着けた剣技か、それとも脳裏に宿った異界の記憶故か――しかし、逸らすことはできてもその威力までは殺せず、受けた千尋の上体は後方に大きく跳ねた。もしアルカナにより筋力が増強されていなければ、受けた腕が肩から丸ごと千切り飛ばされていただろう。

 一方、ガレアードは千尋の対応に驚いたように顎を鳴らしたが、すぐさま片手を突き出すと、再び力を込めて剣を引き絞った。

「……そうなるよね」

 すかさず千尋も再度短剣を押し構えるや否や、さらなる突きが放たれた。

 空気を突き破る音と剣が交わる音が、ほぼ同時に交差する。

 千尋はなんとか今度も受けきってみせたが、突き戻したガレアードの引き手はそのままの勢いで引き絞られ、

 ギャリンッ! ギャリリンッ!

 二撃、三撃、四撃――連続で繰り出される強烈な突きを、千尋は歯を食いしばり受け続けた。しかし、その絶え間ない重撃は――、

(腕が……!)

 きしきしと千尋の筋肉に悲鳴を上げさせ、血晶の刃を削り取っていく。

 その様子にあともう一押しと思ったか、ガレアードはさらに大きく剣を引き絞り、これでもかと言わんばかりの渾身の一撃を放った。

 それをも――、

 ギャリィィンッ!

 見事、千尋は受け凌いでみせた。

「ぐぅっ‼」

 だが、さすがにその衝撃には耐えきれなかったか、遂に体ごと吹き飛ばされてしまう。千尋は追撃を避けようと、転がりながらすぐさま立ち上がったが、見ると、最後の一撃で短刀の刃が大きく欠けてしまっていた。そしてさらに、

「まいったな、そう……なるんだ」

 薄い紅色に照らされた石畳に、ぽつぽつと小さな黒い点が落ちていた。

 点は徐々に増えていく――傷が再生せずに、血が流れて落ちているのだ。アルカナの力が弱まるということは、使い魔が呼び出せなくなるだけでなく、その不死性も弱めてしまうらしい。

 顎に付いた触覚をひくひくと動かしてその血臭を嗅ぎとったガレアードは、徐に剣を床に突き刺し、背の巨大な角を左右に開いて反り立たせた。そして何をするつもりか、そのままぐっと全身の筋繊維を隆起させて力を籠めると、角から激しい〝振動波〟を放ったのだ。

 ドンッと空気が跳ねたかと思うと、凄まじい衝撃が千尋の体を襲った。全身が千切られんばかりの強烈な振動――しかし、この攻撃で「器」の命を奪うことまではできないだろう。千尋はその狙いを見定めようと、耐えつつ目を見開いた。

 ピシリ――振動波に紛れ、小さな異音が聞こえた。それも、自身の体から。

 見ると、短刀に細かい亀裂が入っている。それは、〝血晶の鎧〟にも――。

 これが振動波の効果か。亀裂は見る間に広がっていき、ぼろぼろと端からその形が崩れていく。それだけではない。不吉な亀裂の枝は、通路の壁や天井にまで及び、そこから徐々に固い岩壁を砂へと変えていくではないか。

 それを見た千尋は緊張に身を固める。

(まずいな……)

 そして、ズンと轟音が響いて通路が揺れたのと同時に、振動波が止んだ。

 朦々と砂煙が立ち込め、一転やけに静まり返った通路内に鈍い共鳴音だけが響く。煙の中に紅く浮かび上がっているのは優羽莉の血晶か――その一方で、千尋の血晶はすっかり剥がれ落ちてしまっていた。

 どうやら先程の振動波はしっかり指向性をもってコントロールできるらしい。その証拠に、砂煙が晴れると、優羽莉と千尋、二人の背後の天井だけがきれいに切り取ったように崩され、通路を完全に塞いでしまっていた。

 ガレアードは角を収め、お互いの様子を窺って千尋と優羽莉の視線が交差する。

「……確かに、血晶が無くちゃ攻撃は防げないし、あとは逃げるしかないからね。これで追い詰められたってわけだ」 

「その割には、まだ余裕そうに見えるけど」

「そう? 結構必死だよ」

 言いつつも、確かに千尋の目には焦りなど微塵も浮かんでいない。むしろ、何かを狙っているような――だが、ここまでお膳立ては整ったのだ。今さら趨勢が変わるとは思えない。優羽莉は杞憂を振り払うように手を振り、

「とどめを」

 その声に促され、ガレアードが剣を引き構えた。

 もう、千尋を守る武装は無い。逃げ道も無い。躱すなら横か、後ろか。

 ガレアードは狙いを外さぬよう静かに腕を引き絞り――そのとき、なんと千尋が無手のまま〝前〟へと飛び出した。

 予想外の行動に虚を突かれながらも、ガレアードは即座に剣を打ち込む――しかし、その遅れが運命を分かった。

 轟刃は千尋の頬を掠めたのみで空を突き、千尋は体勢を崩しかけながらもガレアードの脇をすり抜ける。だが躱したとて、その先の道もまた塞がれているのだ。千尋はいったい何を――その目がしっかと優羽莉を捉え、手がぐっと伸びた。

 つまり、使い魔が駄目ならロードを、というわけか。千尋の狙いを悟り、優羽莉は即座に後方に下がりその手を躱した。同時にガレアードが振り向きざまに剣を横に凪いだが、千尋は身を屈めてそれを避け――、

「うっ……!」

 優羽莉の頭に鋭い痛みが走った。

 何かがおかしい。でも、何が?

 見ると、屈んだ千尋の伸ばした手から、細い〝血晶の杭〟が伸びていた。その先には、

「……っ⁉」

 優羽莉の耳に装着されていたはずの、〝キャンセラー〟が貫かれていた。


 その耳に、鈍く、共鳴音が響く――。


「……う……」


 優羽莉の顔が歪み、


「ぅぅ……ああああああ!」


 血晶のローブが砕け、絶叫を上げて倒れ込んだ――が、その体が宙にて止まった。

 支えたのは、剣を捨て駆け寄ったガレアードだった。

《ユウリ、これ以上は危険だ》

「……でも……」

《〝あいつ〟を救うという約束、果たしてくれるのだろう? ならば、ここで終わるな》

 ガレアードはそう思念を送ると優羽莉をそっと横たえた。そして一度、傍で膝を突く千尋に目を向けてから、自らを血晶と化して砕け散った。

 その音が静まると共に、通路に再び共鳴音が満ちていく。

 千尋は一つ息を吐くと、ぐっと体に力を入れて立ち上り優羽莉を見下ろした。

「これで対等だ。もうあんたの方が不利かもしれないけど」

 そう言って、再び血晶の剣を作り出す。

「……どうしてそう思うの?」

 優羽莉もまた、体を震わせながら身を起こす。

「確か、あの水上ってブルースカルの子に言ってたよね。〝もう限界〟だって」

「………」

 この「龍道」に落ちるきっかけとなった戦い――そこで迎えたその〝限界〟のせいで、優羽莉はまた一人仲間を失っていた。

「そうね。私も葵君や水上君みたいに、いつアルカナ因子が暴走するかわからない。でもそうなるわけにはいかない……そうなったら〝記憶〟を保てないもの。無用な被害がでるでしょうし、またあなたを取り逃がしてしまうかもしれない」

「ならさ、もうやめた方がいいんじゃない?」

「そうはいかないわ。その水上君のお陰で、今は共鳴の効果が抑えられてる。広がりは予定より遅くなったけど。私にも少しは時間が出来たはずよ」

 優羽莉が立ち上がり、再び血晶を纏う。しかしうまく力が制御できないようで、纏った〝ローブ〟は見た目にも歪な形をしていた。それを見た優羽莉は歯噛みをし、もはや防御は捨てたか、全身の血晶を右手に集中させると、千尋と同じく剣を作り出す。

「なんでそこまでするのさ?」

「きっと……あなたにはわからないわ」

 そう息荒く答えると、

「やああ‼」

 気勢を上げて打ちかかった。

 千尋はその切っ先を叩き落とそうと、半歩体を右にずらし、優羽莉の刃に向け剣を打ち込む。しかし優羽莉はそれを読んでいたのか、僅かに振り下ろす軌道を左に逸らして千尋の刃を避けると、そのまま手首を返して逆袈裟に斬り上げた。

 皮一枚、寸でのところで上体を逸らし斬撃を躱す千尋に対し、残心無く、すぐに再び剣を構え直す優羽莉。

「驚いた? 私の共鳴した英雄は剣術も得意なの。記憶の侵食も悪いことばかりじゃないわね。進めば、こんなことだってできるんだから」

「知ってるよ」

「……?」

 千尋は何かを思い起こそうとするように目を閉じ、

「知ってる……僕たち・・・同じ・・よう・・二人は幼馴染で、あんたの〝アンジェラ〟は、僕の〝ギデオン〟よりも剣が得意だった」

 その言葉に、優羽莉が目を見開く。

「あなた、いつから……どこまで侵食が進んで……」

「さあね」

「どうして……それでなぜ、あなたはそんな平気でいられるの? 昔から、いつもなんてことのない顔をして……」

 優羽莉が悲しげに顔を歪める。

「……だから、私はあなたが嫌いだった」

 千尋はそんな優羽莉を冷静な目で見つめ、

「僕もあんたを好きだと思ったことはなかったかな。〝ギデオン〟は〝アンジェラ〟をとても信頼していたみたいだけど――」

 両手で握った剣をしっかと正眼に構えた。

「――僕は、僕だから」

 交差する二つの視線の中に、狩る者と生き延びようとする者、その関係を抜きにしても、溢れんばかりの激しい感情がぶつかり合う。いったい、二人の過去に何があったというのか――。

「なによ……どうしていつもあなただけ〝特別〟で!」

 思いの堰を切ったように優羽莉が打ちかかった。

 しかし、

「ぃえあっ!」

 気合一声、既に剣筋は見切ったか、千尋は動じることなく優羽莉の剣を打ち砕いた。

 断ち折れた紅い刃の片割れが石畳に落ち、音を立てて砕け散る。

 もう、彼女に武器は無い。それでも優羽莉は千尋に強い視線を向け続けた。

「なんで……あなたばかり……」

「僕は、あんたとは違うから」

「――っ‼」

 その言葉に感情を高ぶらせた優羽莉が思い切り平手を振るう。

 千尋はそれを避けることなく受け、そのまま、もはやどこを見ているかわからない優羽莉の顔を見下ろした。

「終わり?」

「………」 

「とりあえず、もう僕を殺すことはできなそうだけど」

「……『器』を殺さなきゃならないのよ。私はその為に……そうじゃないと……」

「だからさ、なんでそこまでするの?」

「だから、私は……」

「僕は、〝ギデオン〟じゃない」

 千尋は強く優羽莉の肩を掴み、

「あんただって、〝アンジェラ〟じゃないだろ――ユウちゃんはユウちゃんだ」

 そう言った。

「……なに……」

 優羽莉は怒っているような、泣いているような、ひどくアンバランスな表情で千尋を見上げると、

「なによ……それ」

 と、疲れ果てたように壁にもたれかかり座り込んだ。

「このままやりあったってお互い決め手がないし、無駄だよ」

 千尋もまた、その横に腰を下ろす。

 そのまま二人はただ黙って座り、下を向いていた。

 果てなく止まない、共鳴音を聞きながら――。

 

 どれくらい時間が経ったか、ようやく口を開いたのは千尋だった。

「……劇場の下でさ、あの大きな怪物の手に〝おじさん〟がいたよね?」

 その問いに優羽莉は、抱えた膝に頭を垂れたまま、こくりと頷いた。

「政府に頼まれて『器』たちを狩るってやつ、おじさんがやってるの?」

 それには少しの間黙っていたが、

「……そうよ」

 とだけ答えた。

「けどそれって、『混沌』ってのと手を組んでるってことでしょ?」

 更なる問いに優羽莉は何かを逡巡するように黙っていたが、暫くすると顔を上げ、とつとつと語り始めた。

「……世界の偉い人たちにとって、『混沌』はそう悪いものじゃないみたい。神様とか、そういう類のものと捉えられてるわ。操られてたりするのかもしれないけど……実際、あれを本当に怖いものって認識できてるのは、たぶん『器』たちだけだと思う」

「それでも従うの?」

「仕方ないじゃない。世界が無くなるよりましだもの。私たちには、『混沌』なら本当にそれができるってこともわかっちゃってて――」

「それってさ――本心じゃないよね」

 その指摘に優羽莉の肩がピクリと揺れ、

「……だから、千尋君嫌い」

 彼女の頭を再び深く膝に埋もれさせた。

「……そうよ、本心じゃない。私に本心なんて無い。ただ、お父さんがそう望んだから……」

 優羽莉は下を向いたまま続ける。

「やっぱり仕方ないのよ……私はそういう風に作られちゃった・・・・・・・んだもの。ずっと言われた通り、望んでも貰うことのできないものを求めて、ずっと……」

 幼い少女のように声を震わせながら吐き出されるその言葉に、千尋は黙って耳を傾ける。

「私はね、あなたが羨ましかった。研究所で、私はいつもベッドの上で――なのにあなたは硝子の向こうでお父さんと三月みつきさんの横にいた。そこには、私がいたかったのに……」

 優羽莉の父である白木・A・グラマンは、世界有数の最先端科学事業を展開・推進する組織――『AVAL科学財団』の長であり、その財団の研究所に所属する最高位博士・竹谷三月こそが千尋の母であった。

 千尋は幼い頃、たまに父に連れられて行った母の研究所のことを思い出し、眉をひそめた。千尋が来ると、母はとても嫌そうにしていたのをよく覚えている。それと、確かに優羽莉の言う光景を見たことも――。

「あれは治療じゃなかったの?」

「そうよ。でも、実験・・も兼ねていた――あなたのお母さんと、私のお父さんがしていた研究のね。先天性の疾患で体の弱かった私に、人の体機能を飛躍的に引き上げる『アルカナ因子』を投与していたの」

「………」

「わかる? つまり、私は三月さんに『器』にされたのよ。きっとあなたもそうなんじゃないかしら……でも、私は別に構わなかった。耐えて……頑張って期待に応えれば、私も硝子の向こうに行けると思ってたから……」

「それが、前に言ってた〝全部あの人の所為〟ってこと?」

「………」

 優羽莉は顔を少しだけ上げて千尋を見た。

「……その後、お母さんとは?」

「まったく」

「でしょうね……あの人ね、姿を消したの。あれだけ私たちを振り回しておいて――」

 千尋の目が、僅かに開かれる。

「その頃からお父さんはおかしくなった。積極的に『混沌』と接触して、性急に研究を推し進めるようになって――わかってはいるのよ。おかしいのはずっと前……それこそ三月さんや、あなたと会ったあの頃からだって。それでも信じたかったの。お父さんは、私を実験材料にしてたんじゃない、助けようとしてくれてるんだって……けど、やっぱり千尋君とは違ったのかな……」

「何が?」

「あなたは、愛されていたもの」

 その言葉に、千尋はひどく顔を歪めた。

「そんな記憶はないけどね。あんたも知ってるんじゃない? あいつは、僕と父さんを捨てたんだ」

「………」

 再び沈黙が落ち、悲しい生を歩む二人を嘲笑うように、共鳴音が満ち始める。

 そして少し経ってから、

「……ごめんなさい。全部私の主観――本当のところはわからない」

「……いいよ」

「でも――」

 優羽莉は頭を膝に預けたまま少しだけ横を向き、じっと前を向いたままでいる千尋を見た。

「変な感じ。あんなに嫌いだったのに、今さらこんなことを千尋君に話してるなんて。共鳴のせいかもね。〝アンジェラ〟も、〝ギデオン〟を心から支えにしてたから……それとも、 葵君も水上君もいなくなって、少し心細くなっちゃったのかな……」

 そう、やつれた笑みを浮かべた。

「大丈夫?」

「疲れた……お風呂入りたい」

「………」

 すると千尋は上体に反動をつけて、

「同感かな」

 と、勢いよく立ち上がった。

「大丈夫ならさ、手伝ってくれない?」

 優羽莉は言葉の意味がすぐに解らず、訝しげに眉を寄せる。しかし千尋は構うことなく通路を塞ぐ瓦礫の山の前まで行くと、そのうちの比較的小ぶりな一つに手を置いた。

「これなら、二人で動かせると思う」

 そこでやっと千尋の言わんとしていることに気付いた優羽莉は、

「疲れたって言ってるのに……」

 そう、まだわずかに走る頭痛にこめかみを押さえながら立ち上がる。そして千尋の横に立つと同じように瓦礫に両手を置いた。

「……どうして、私も一緒に?」

「あんたはさ、まだ僕を殺したい?」

「そうしないと帰れないし、帰る場所がないわ」

 そう言って目を閉じると、

「――けど望んでそんなことしたい人なんて、いないわよ」

 ぐぅっと手に力を込め、瓦礫を押し始めた。

 千尋もまた、同じく体を瓦礫に預けるように思い切り力を込める。

 動く感触は無くもない。しかし、まだ力が足りないようだった。

「重い……クリーチャーを呼び出せればすぐなのに」

「……気になったんだけど、その〝クリーチャー〟って〝使い魔〟のこと?」

「〝使い魔〟……? ああ……うん、〝記憶〟ではそうだけど、研究所ではみんなそう呼んでるから……んっ!」

「ふぅん……ふっ!」

 二人はさらに力を込める――少し、動いたか。

「千尋君は、外に出てどうするの?」

「生き延びる――」

 千尋は脚を踏ん張り、さらに強く全身に力を込め、

「そして、母さんを探す」

「……え?」

「押してよ」

 優羽莉は不意の言葉に力を抜いてしまったが、慌てて再び腕に力を込めた。

「別に会いたいわけじゃない。ただ、あんたの話を聞いて思ったんだ。会えば、ずっと知りたかったことがわかるかもしれない」

「知りたかったこと……?」

「世界に裏切られ続けた〝プロスペロー〟は、どうして、最後に世界を許せたのか――」。

「……シェイクスピア?」

 優羽莉が横目を向けると、

「……うん」

 そう力を込める千尋の目は、道を阻み続ける瓦礫をじっと見つめていた。

 ぐらり、と瓦礫がゆれた。もうひと息か。

「いいわね。私には、何もないもの……」

「そう? だとしたら僕たちは似てるのかもしれない」

「私たちが?」

 すると、瓦礫が根負けしたように摩擦に震え、強情に塞ぎ続けていた道を空け始める。

「うん。ならさ……ふっ‼」

「んん………‼」

 さらに強く力を込める二人。

そして、二人の手から急に瓦礫の感触が消えたかと思うと、ドスンと大きな音が響いた。見ると、瓦礫の壁に、屈めば人一人は通れるくらいの穴が空いていた。

 二人は思わず顔を見合わせる。

 千尋は穴を覗き込むと、その強度を確かめるように瓦礫に触れながら、

「なら――『考えろ。そしてそれを止めるな』」

「それもシェイクスピア?」

「いいや」

 穴に体を潜らせた。それに優羽莉も続く。

 穴はすぐに抜けることができ、無事二人共に瓦礫の壁を越えることができた。千尋は服についた砂埃を払いながら立ち上がると、

「あの〝葵順〟って人が言ってたんだ」

「葵君が……」

「うん」

 そう言って、やっと開けた、それでもなお暗い通路の奥を見つめた。

「僕たちはまったく逆で、それでいて似てるのかもしれない。〝生きたい〟と思って、〝応えたい〟と思って――でも僕たちはそれだけで……今はそれしかないけど、考え続ければ、その先に何か見つけられるのかもしれない」

 そして振り向き、優羽莉を見つめた。

「だから、ユウちゃんも、考え続けてみたら?」

「………」

 優羽莉も、その視線をしっかと受け止める。

「それでも、私たちはいつか消えなきゃならないわ」

「僕は誰かの意志で消されるなんてごめんだ。たとえ世界のためでもね。けど――」

 そのとき、


「あぁ~、でもよぉ、オメェらにはそうなってもらわねぇと困るんだわ」


 通路の奥から男の声がした。

 いつからそこにいたのか――闇から滲み出たように現れたその男は、頭に被った闇よりもなお黒いフードの奥から、二人を見つめていた。